第3話 蓮見 透 一章①【改】

 席替えの翌日、いつも通り始発に近い電車に乗り込むとただ外を見て過ごす。

 女性専用の車両、耳には何も音の流れていないイヤホン。

 

 男性の全てが、よこしまな気持ちを抱くわけではないのはわかっている。

 でも、どちらの方が多いのか、それも同時に私は知ってしまっているのだ。


 それに、最初は意識をしていなくても、蓄積された好意はやがて人を変える。

 恋心と呼ぶようなものに、移ろいでいく。


(…………それが悪いとは言わないけど)


 好きな相手には、いいところを見せたい、綺麗なところを見せたい。

 取り繕うような気持ちは、それが相手への愛情に起因するものであったとしてもやっぱりあまり好きにはなれない。

 少しの嘘でも見えてしまう私は、恐らく病的なまでに潔癖なのだと思う。


(………………結局のところ、みんな自分のことが一番大事なんだもんね)


 当然ともいえるような結論。

 きっと私は、綺麗な心を持つ人達の近くにい過ぎたから、そんなことを考えてしまうのだろう。

 祖母や姉、そして親友達。大切な人の心はみんな、眩しいくらいに澄み渡っていたから。


 







◆◆◆◆◆










 改札を出ると、慣れたように学校の方面とはずれた方向に進む。

 まだ少しだけ暗い時間、人の少ないその道を歩くのは、何となく好きだった。


(しばらく、これないかも)


 目の前には、自分のお気に入りの場所へと続く長い長い階段がある。

 馴染みつつあったここも、梅雨入りを迎えてしまえばなかなか来れなくなってしまうだろう。

 さすがに、ずぶ濡れになるような日にここを登っていくのは辛いだろうし。


(…………また、探さなきゃな)


 ゆっくりと、一歩ずつ踏みしめていくと、湿った空気のせいかじんわりと汗が滲み出ていくのを感じる。

 でも、足を止めることはしない。一度立ち止まってしまえば、弱い私がなかなか歩き出せないのは経験則でわかっているから。

 







「やっぱり、気持ちいいなぁ」


 

 ようやく登り切った階段、そこには寂れた神社がポツンと佇んでいた。

 ここは、建物に遮られてもいないからか、涼しい風が体を労るように熱をさらっていき、とても気持ちがいい。


(今日も、誰もいないみたい……よかった)


 気を遣わず、ただただ自由にいられる空間に思わず笑顔が漏れる。

 そして、灰の中にある空気を全て入れ替えるかのような深呼吸をすると、日陰になった場所に座り、持ってきた本を鞄から取り出した。

 


















 男の子は好きではない。私を私として見てくれないから。

 自分のしたいことだけ押し付けて、中身なんて全く見ようとはしない。



 女の子は好きではない。私を私として見てくれないから。

 彼女らは都合が悪ければ悪意を抱き、都合が良ければ自分の評価を上げるアクセサリーのように考える。



 私は人が好きではない。誰も、私のことなんて見ていないから。私がどう考えているなんて気にしていないから。

 それこそ、数少ない親友と呼べる人や家族である祖母以外には心を許したことは無い。

 


 そして……私は、私が好きではない。

 人の心を勝手に覗いて、計算して、日常に溶け込んでいる。

 きっと、一番悪いのは、醜いのは自分なのだ。


 

 

 だから、そんな化け物のような私には、人をどうこう言う資格なんて本当はない。

 

 それこそ、普通ではない私に、普通の人生が送れないなんてことは分かっている。


 身の程知らずの幸福を願ってはいけないなんてわかっている。


 だからこそ私は、我慢して生きていくしかない。

 心を擦り減らして、歯を食いしばって、泣きそうな顔を笑顔で隠してでも。


 大事な人達を巻き込まないように、自分だけで抱えてこの先を歩き続ける。


 きっと、いつか壊れてしまう、その時まで。


 

 

 











  




 意識が浮上していき、自分が眠ってしまっていたことに気づく。

 広げていた本は、水滴を受け止めたことで滲んでいて、自分が泣いていたことがわかった。


 読めなくなってしまった文字。

 お気に入りのその本は、昔から大事にしてきたものだったのに。



「………………ダメだなぁ。私って」



 その呟きは、誰にも聞かれることはなく。

 すぐに、空気に溶けるように消えていった。










◆◆◆◆◆









 沈んだ気持ちを誤魔化しながら学校に入ると、たくさんの人が声をかけてくる。

 既に泣き顔は化粧で覆い隠され、誰にも気づかれることなく教室まで行くことができた。

 

 

「おはよー、透ちゃん」


「おはよう」



 女の子達と挨拶や会話を交わしながら、そして、男の子達のには最低限の挨拶のみを返しながら、自分の席へと向かう。

 

(……お高くとまっていると思うなら、そう思ってくれていい)

 

 途中で、何度か見えた心の声に、内心だけで言い返す。

 好きでこうしているわけではない。これは、中学生の頃に学んだ私なりの処世術。

 女の子達の感情が簡単に移ろいでしまうのは、嫌になるくらいあの時理解させられた。


(…………今は、頼れる人はいないんだから)


 本来の私は内向的で、誰とも話さず本だけ読んでいられるのが一番いいと思っている。

 でもきっと、そうしていれば私は孤立していく。

 自分から印象を作りにいかなければ、勝手に誰かが都合のいいように作り上げてしまうから。

 

 見下している、鼻持ちならない、調子に乗ってる。

 

 私は、自分の身を守るためにも、蓮見透という存在を演じ切らなければいけなかった。















 ようやく席にたどり着き、疲れた体を労っていた時、横から声がかけられたことに気づく。


 

「おはよう。蓮見さん」


「おはよう」



 相変わらずともいえる愛想のない顔。

 自分から声をかけてきた割には笑顔もなく、独り言といわれても納得してしまうような雰囲気だった。

 

(別に、どうでもいいけど………………って、あれ?」


 無意識に覗いた心に、悪意はもちろん、好意すらも浮かんでいないことに驚く。

 それこそ、彼の中にはただ眠いくらいの感情が浮かんでいるのみだった。


(…………よく、わからない)


 似たような人はいた。でも、それでも多少は何かしらの色が見えるはずなのだ。

 緊張、高揚、不安。

 そのどれもが存在せず、彼は平坦な心の内を保ち続けていた。


(………………なんだろう、この人)


 新しい種類の心の形に、瞬時に考え始める頭。

 けれど、そのことを考える暇もなく違う子に話しかけられてしまい、仕方なくそちらへと意識を向けた。







「おはよ~透ちゃん。昨日の9時のドラマ見た?」



 話しかけてきたのは、クラスでも中心的な人物である、桐谷 千佳ちゃん。

 横には何度か話しかけられたことのある、背の高い顔の整った男の子。

 

 周りの反応を見るに、恐らく彼はモテるのだろう。

 でも、あまり人のことは考えず、自己中心的に物事を考えるこの人のことが、正直なところ私は苦手だった。

 


「おはよう。見てないなー、いつもすぐに寝ちゃうから」



 千佳ちゃんの問いかけに、悪感情を抱かれないよう、努めて明るい声を出して応える。

 当たり障りのない普通の会話。特に話を広げるわけでもないそれで、流れをコントロールしていく。


 相手の話したいことは何なのか、相手の望んでいることは何なのか。

 時折横から入れられる、不要な会話は抑え込みながら。







(…………これは、面倒くさくなる前に対応した方がよさそう)

 

 どうやら、彼女は隣の男の子と仲良くなりたいらしい。

 しかし、それなのに彼は私の方に関心を向けてしまっている。


 なら、私がするべきことは一つだけ。

 この人には近づかない。

 

 元から決まっていた方針ではあったものの、それがより強固になった。

 

(…………逆に、丁度いいのかも)


 絶対に仲良くなることはないと確信はしていたのだ。

 それこそ、今話している最中にも伝わってくる、その優し気な笑顔の裏側にある邪(よこしま)な感情に、蔑み以外の感情を抱くことはできなかったから。









◆◆◆◆◆






 



 席替えの日から数日が経った。

 氷室君とはあれから、挨拶だけはしているものの、それ以外に話すことはほとんどなかった。



「おはよう。蓮見さん」


「おはよう。氷室君」 


 

 重ねた言葉は本当にそれだけで、相手の趣味も、好きな食べ物も、何もかも知らない。

 でも、最初は抱いていた警戒感が薄れる程度には、私は彼のことを信用し始めていた。

 

(………………今日も変化なし、か)


 やはり、その心からは、警戒すべき色は見てとれない。

 例えるなら、凪。

 静かな海がただただ広がっている、そんな風にさえ感じた。


(……………………うん、悪くない)


 お互い全く相手と話す気がないからか、無言のまま時間が流れていく。

 だけど、気まずさなんてものはそこには一切存在しなくて。

 

 今では、何も考えずただぼーっとしていられるこの空間が、私にとってそれなりに心地の良いものになりつつあった。

  

 












 

 授業の後、先生に呼ばれたために一階の職員室に向かう。

 絵に描いたような優等生であることを周囲に印象付けているし、呼び出されるような理由に心当たりはない。

 

 しかし、呼び出した相手が、内心私のことを嫌っているのは知っているので、恐らくたまにされる嫌がらせの類だろうと予想していた。



「失礼します」



 こちらに向けられた顔に、一瞬だけ暗い笑みが浮かんだのが見え、分からないようため息をつく。


(……別に、私のせいで結婚できてないわけじゃないのになぁ)

 

 被害妄想的な考えが強く、さらには非常に女性的でヒステリック。

 彼女の下の名前が摩耶ということもあり、男の子達が年増先生と裏で呼んでいる気持ちもなんとなくわかってしまう。



「富樫先生、何かありましたか?」



 少しだけ覗いたその内面は、顔を顰めてしまいそうなほどに淀み切っている。

 声を出しただけで調子に乗っていると思われてしまうなら、私はただ黙って突っ立ってればよかったのだろうか。

 


「貴方、今日日直だったわよね?そこの荷物を四階の倉庫に持って行ってくれるかしら?」



 ニヤニヤが抑えきれていないですよといったら、彼女はどんな顔をするのだろう。

 起こりえない現実を、なんとなしに考えてしまう。


 いや、そもそも、そんなことは日直の仕事には関係ないし、男女で二人いる当番のうち私だけを呼びつけたところをみるにもしかしたら隠す気さえないのかもしれない。



「わかりました」



 選択肢は一つしかない。

 どうせ断っても、別の日にそれが重くなって返ってくるだけなのだし、口答えしないほうが賢明だろう。



「なら、お願いね。今日中にやってくれると助かるわ」


「はい。では、失礼します」



 気が滅入りそうになる心を宥めながら頭を下げる。

 閉じた扉が、少しだけ大きな音を立ててしまったのはさすがに仕方がないことだった。




 










 思った以上に重い荷物に、息が乱れる。

 普段から鍛えているし、毎日長い階段を登って神社に行っている甲斐もあってかなんとか運べるけれど、女の子一人で運ばせるのはどうかとは思わなかったのだろうか。

 


「あれ?蓮見さんじゃん。なにその荷物?手伝おっか?」≪上手くいけば連絡先交換できるかも、ラッキー≫



 そして、もはや何度目かになる繰り返された掛け合いにうんざりしてしまう。

 手伝ってくれるのは助かるが、後が面倒くさそうなのは嫌だ。

 一人でもなんとか運べるのだし、見返りを求められるくらいなら断然拒否だ。



「一人で運べるから大丈夫、ありがとう」


「いや、でも」

 

「本当に大丈夫だから、もう行くね」


 

 有無も言わせず、そう言い切ると相手の返事を待つことなく歩き始める。

 追いすがってくる人も中にはいるけれど、それも、断り続ければやがて彼らは諦めていった。
















「よかったら、荷物持つの手伝うよ」


 

 ようやく、二階の階段を登り切り一呼吸入れていた時。

 またもや、後ろから声をかけられて、さすがに怒りを隠しきれずに振り返る。


(いい加減にして欲しいんだけどなぁ。って、あれ?)

  

 そこには隣の席の氷室君が、いつものように無愛想な顔をして立っていた。

 しかし、ここは教室からほど遠い場所で、それに、彼は確か帰宅部だったはずだ。

 こんな時間に、こんなところにいるのは少しおかしい。


 疲れた心は暗い感情を生み出し始め、相手を悪者にしようと疑っていく。


(氷室君だって、どうせ……………………え?)


 確かに、それは普段の何の色も見せないような、氷室君の心とは違っている。


 でも、それは悪い方にではなくて。

 むしろ、こちらが思わず驚いてしまうほどには、混じり気無しの善意が底の底まで広がっていた。



 きっと、他人に興味が無いだけだと思っていた。

 自分の世界だけに生きて、周りなんてどうでもいい、そんなタイプなんだと。


(………………少しだけ、近づいてみよう)


 でも、どうやらそうではないらしいから。 

 もしかしたら、今見えているように、人への思いやりが溢れているような、そんな人なのかもしれないから。

 


「……ありがとう。助かるよ」


「ん?あ、ああ。気にしないでくれ」



 私の反応に彼は少し戸惑ったようだった。

 確かに、それも無理はないだろう。自分でも、珍しいことをしているというのはわかっている。

 


「気づいたのに放っておくのが、個人的になんか嫌だっただけだ。さすがに、その量の荷物は女子には重そうだし」 



 でも、後に続いた言葉は、清々しいほどに真っ直ぐで、そうしてよかったと改めて思える。

 

(…………本当に、いい人)


 そこに嘘は微塵もない。

 むしろ、綺麗で澄んだその心は、眩しいほどに煌めいていて、苦笑してしまいそうなほどだった。



「誰も手伝ってくれなかったのか?」


「そういうわけでも無かったんだけどね」



 みんながみんな、貴方のような綺麗な心を持てるわけではないと教えてあげたかった。

 でも、そんなことは言えるはずがない。

 何故分かるのか、その問いに対して答えられることは一つも無いから。



「もしかして、手伝ったらまずかったか?」


 

 しかし、こちらの曖昧な答えに、彼は勘違いをしたのかもしれない。

 気遣うような目でそんなことを聞いてくる。


(………………優しい人だな)


 きっと、人の気持ちに寄り添える人なのだろう。

 押し付ける好意ではない、相手の意志をちゃんと確認しようという様子が、その言葉からはっきりと窺えた。



「ううん、声かけてくれて本当にありがとう。荷物を持ってくれることは凄く助かるから」


「なら、良かった。というか、場所だけ教えてくれれば俺が一人で持ってくけど?」


 

 やはりというべきか、彼は見返りを求めてはこないようだ。

 恩を着せようだとか、カッコいいとこを見せようだとか、そんなことは全く考えていなくて。

 ただ、自分が正しいと思うことをしようとしている。

 

 それに、気を遣うのが面倒だと自分に言い訳しつつも、なんだかんだ私がそれを求めていないというところに重点を置いてくれているようだった。



「ちゃんと行くよ。そもそも私が頼まれたことだから」


 

 だけど、私にも意地がある。

 自分が引き受けた仕事を、ただ人に押し付けるなんてことはしたくない。

 たとえ、それを相手が気にしないのだとしても、絶対に。



「ごめん。ちょっと、蓮見さんのこと誤解してたよ」


「…………ううん、私の方こそごめんね。あんまり、氷室君のことわかってなかった」


  

 きっと、お互いがお互いのことを先入観で見ていたのだろう。

 でも、その勘違いの糸は解け、少しだけでも近づくことができたようだ。


(……疑って、ごめんなさい)


 そして私は、心の中だけでもう一度謝った。

 これまでを精算するための、自分なりのけじめとして。




 









「これで終わりか?なら、そろそろ俺は帰るよ」


「うん。ありがとう」


「どういたしまして。じゃあ、また明日」


 

 荷物を運び終わるとすぐに、彼が別れの言葉を伝えてくる。 

 連絡先を教えて欲しいとか、一緒に下校しようとか、そんなことを言わないのは当然わかっていた。

 でも、今はそれが少しだけ寂しい。


(もう少し、知ってみたかったんだけどな)


 もし言われていたら、どうしていたのだろう。

 その答えは、分からない。

 そして、積み重ねた言葉のせいで、彼の中の善意が好意に変わってしまうのかも、今はまだ。



「…………本当にありがとう。また、明日」


 

 だから、今は明日会う約束だけを彼としよう。

 これまでの作業ではない、私の言葉で、私の気持ちで、ちゃんと。






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