第8話 限界突破者(変態的な意味で)


 夕方を過ぎた頃、蘭子は朝とは違う車に乗って戻って来た。だいぶ時間があいたのは万が一の場合を考慮して、追跡されないように色々してきたかららしい。

 玄関先にドンッ、とキャリーケースとボストンバッグを置きながら「結構大変だったんですよ?」と倒れ伏す。

 音からしてかなりの荷物が詰まっていそうだ。玄関で床に座り込んだ蘭子に居間で休んでいるように言ってキャリーケースに手を掛ける。


「これ、部屋に運んじゃうね?」

「あ、いいよリョウちゃんには持たせられないよ!」

「大丈夫だよこれくら――イッッ!?」


 持ち上げようとして、一瞬腰がいかれたかと思った。

 想像の3倍重たかった。

 持てないわけではないが、中に漬物石でも入っているのだろうか。


「よくこんなの持ってこれましたね……」

「ガンバリました……」


 もはや恥も外聞もなく蘭子が床で真っ白に燃え尽きたまま床を這っている。


「じゃ、行きますね」

「あ、ちょっと待って――」


 全身に力を籠めてキャリーケースを一気に持ち上げる。指に食い込む感触と、腕が地面に引っ張られるかのような痛みがあるが、ギリギリで何とか持てる。

 キャリーケースを落とさないように階段を一歩一歩慎重に上った。家の短い階段がこんなに長く感じたのは初めてだ。

 登り切って「ふぅ」と一息つくと、後ろを登ってきていたななせが驚いた顔をしていた。


「リョウちゃんって、意外と力持ちなんだねぇ」


 まずい、疑われただろうか。


「き、筋トレとかしてるからね!」


 咄嗟に出たのはそんな言葉だったが、どれほどの意味があったのか。

 さらに突っ込まれる前にキャリーケースを転がして部屋まで持っていく。

 ほとんど物のない部屋の真ん中まで持っていったところで、いつでも開けるようにキャリーケースを横に置く。


「ねぇななせ、これっていったい何が入って――ッ!?」


 いるの? と尋ねようとしたが、背後からの軽い衝撃と柔らかい感触に全身が硬直した。

 ふわりと香る甘い匂い。

 体に回された細い腕。


「なな、せ?」


 ななせが背後から抱き着いていた。

 ぎゅっ、と押し当てられた背中の感触が、リョウの鼓動を早くさせた。


「あたし、分かったんだ。リョウちゃんってさ」

「っ!?」


 背後から、耳元で囁くように話しかけて来るななせ。

 まさかバレたのか!?

 ドクッ、と大きく跳ねた心臓が今度は止まった気がした。


「ホント腕細いのに見た目より筋力あるんだねぇ! びっくりしちゃったよ」

「あ、そう?」


 予想とは全然違った言葉に目が点になってしまう。

 何だそんなことか、とほっと胸をなでおろす。

 だがそれがよくなかった。


「とうっ!」

「え?」


 勢いを付けたななせがリョウを背後のベッドへと引っ張ったのだ。

 気を取られていたリョウはなすすべもなくベッドに背後から倒れ込む形となってしまう。そしてその上から馬乗りになっているななせ。


「えーっと、これは一体」

「そりゃもちろん、剥くために決まってんじゃん!」

「おいちょっと待とうか!?」


 勢いよく服の裾に手を掛けたななせの腕をリョウががっしと止める。


「こんなかわいい推しが目の前にいるのに手を出さないなんてことがあっていいだろうか、いやない!」

「反語で強調しないで! あとそれ犯罪だから――って言うかなんでこんなに力強いの!?」


 細いとはいえ男の腕だ。階段を重たいキャリーケースを持って登るくらいのこともできる。だと言うのに目の前の女の子の腕を止めるだけで精一杯になっていた。


「はぁはぁ、リョウちゃん……リョウちゃん!」

「ちょ、ななせ! 眼、眼がイってるから!」


 漫画だったら確実にハートマークが浮かんでいそうな眼だった。あと口からは実際によだれが垂れていた。


「リョウちゃんリョウちゃんリョウちゃんリョウちゃんリョウちゃん……!」


 ダメだ完全に正気を失っている。

 服の裾は徐々に持ち上げられようとしている。

 もし完全にひん剥かれれば、真っ平な胸を見られて男だとバレてしまうだろう。そうなったら社会的にもVTUBER人生的にも終わりだ。

 一緒に生活していたらいつかは危ない状況もあるかもしれないとは一瞬考えた。だがまさか初日から本人が正気を失って襲ってくるなんて考えてもいなかった。いや、誰がこんな状況予想できるだろうか。


「んー! 正気に戻ってよ、ななせ!」

「ぐぇへへ、良いではないか良いではないか!」

「おかしいどうしてこうなった!?」


 もしこうなるなら性別が逆のはずでは!?

 荒い息を吐きながら、よだれを垂らして服を捲ろうとするななせを前にして、リョウが考えていたのはヒロイン顔負けなセリフだった。

 徐々に腕に力が入らなくなってきた。

 頭の一部ではもうこのまま見られてもいいんじゃないかと思えてさえ来ていた。

 ななせにとってリョウはガチ恋しているVTUBERだ。

 そして同時に同業者でもある。

 男だとバレてももしかしたらそんなに拒否反応はないかもしれない。


「リョウちゃん! 安心して女の子同士だから気持ちいところいっぱい知ってるから! 初めてだったらちょっと感じにくいかもしれないけどすぐ開発してあげるからね!」


 いや、断じて無理!

 そう思いながらもリョウはななせの体を押し返し切れずにいた。腕にかかっているななせの体は細く軽い。無理やりに力を入れたら壊してしまいそうで、どうしていいかわからなかったのだ。

 しかも正気を失っているせいか女性の割に力が出ているときた。

 はぁはぁという吐息がヘソにかかり、あと少しで負けてしまいそうだ。

 もうダメだ、そう思った時に救世主が現れた。


「何をやっているんですかななせさん!」

「ぎゃっはん!?」


 変な声を上げて体を横に倒すななせ。


「ら、蘭子さん!」


 背後に立っていたのは蘭子だった。蔑むような視線が、ベッドに倒れ伏したななせに注がれていた。


「まったく、あれほど他の女性タレントに手を出さないように言ったのに。契約書の内容をお忘れですか?」


 契約という言葉にななせがピクリと反応し、ばねのように起き上がって床に正座した。その目にはさっきまでの狂気は感じられなかった。どうやら正気に戻ったようだ。


「あ、いやその、ほら! リョウちゃんはWORLD.LINKのタレントじゃないし!」

「言い訳無用です。もし次同じことがあったら上に報告しますからね」

「うっ、はいすみませんでした……」

「謝るべきは私にじゃないでしょう」


 その言葉に床に正座したまま向きを変えたななせがリョウに向き直って頭を下げた。


「ゴメンね、リョウちゃん。あたし可愛い女の子相手だとたまに度が過ぎちゃうことがあって……本当にゴメンね」

「えーっと、もしかしてななせって」

「ガチガチに女の子が好きな女の子ですよ。ななせさんはね」

「えへへ~」


 照れたように笑うななせだが、その事実はリョウの心胆を寒からしめるには十分な内容だ。


「ですからななせさんとは契約時に『弊社のタレントに手を出した場合クビ』と約束をしてあるんです」

「ぶー、だからこうしてスキンシップ程度にとどめてるんじゃーん」

「いや、ボク完全に襲われてたと思うけどね?」

「ななせさん、他所様のタレントさんに手を出した場合は……」

「未遂! 今日は未遂だから!」


 蘭子のため息交じりの言葉に、慌てて叫ぶななせ。まぁ確かに未遂ではあったな、と思って蘭子の視線に頷きを返す。


「はぁ、仕方ありませんね。もしリョウさんに迷惑をかけるようなことがあったら、本当に上に報告しなければならなくなりますからね」

「はーい、わっかりましたー!」


 元気な返事が逆に不安をあおる。

 本当に反省しているのだろうかこの人は。

 とりあえず荷物をそのままにして3人で階段を降りる。

 キッチンへ向かう途中で蘭子が足を止めた。


「私はそろそろ社に戻ります」

「えー? もう行っちゃうの?」

「すみません、私はまだ仕事があるので」

「あたしが活動休止してる間位休めばいいのに」

「そしたら誰がストーカーの対策をするんですか?」

「そう言えばそうだね」

「はぁ、ななせさん。リョウさんの言うことをよく聞いて大人しく生活するんですよ?」

「ちょ、蘭子さん子どもじゃないんだから!?」

「碌に自活出来ない人を大人とは認めませんから」

「えー?」


 ぐだぐだと甘えるななせを無視して蘭子は靴を履き玄関に手を掛ける。同じように靴を履いて、外まで見送りに出ようとしたリョウを止めた。


「ここでいいです。誰の目があるか分かりませんから」

「そうですか……いえ、そうですね」

「ではすみませんがななせさんの事をよろしくお願いします」

「蘭子さん、またね」

「ええ、それではお2人ともお気をつけて」


 ぺこりと頭を下げると、蘭子はあっさりと家を出た。

 少しの間をあけて、車の発進する音。

 静かになって、家は2人きりになった。


(あれ? そう言えば今更だけど同年代の女の子と自分の家で2人っきりで生活って?)


 そのことを自覚すると心臓が急に鼓動を速めた。

 これまでリョウは誰かと恋人関係になったことはない。女の子はどちらかというと同性の友達といった関係になることが多く、同性から告白された経験の方が多いと言う恋愛がらみではトラウマ物の経験ばかりだった。

 リョウが恋愛という物を遠ざけるのにさほど時間はかからなかった。

 ななせの置かれた状況と、青羽社長からの手紙のこともあって今の今までそのことを自覚していなかった。

 昼間は大丈夫だったのだから、夜という時間がいけないのかもしれない。

 そう考えていた時だった。


「ね、リョウちゃん」

「何?」

「今更だけどホントに良かったの?」


 少しためらいがちな声だった。


「本当に今更だね」

「えへへ、夜にこうして2人っきりだと思うと何か特別な感じがしちゃって」


 どうやらななせも同じ感覚だったようだ。


「……ま、とりあえず一緒に生活する以上ルールは作らないといけないね」

「あれ? リョウちゃん照れてる? 顔赤いよ」

「ななせはボクの部屋進入禁止。ボディタッチ禁止」

「え!? ちょっと待って待って!」


 後ろで叫ぶななせを連れながら、キッチンへ向かった。

 暖かい飲み物でも飲みながら、今後の話をするために。

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