花は嵐~青木ヶ原御前試合~

柳田知雪

序章 桜の示す名


 桜並木を風が吹き抜ける。春の匂いを運ぶ風は、ひとひらの紙を攫っていった。


「あ、ごめん。待ってて」


 紙の持ち主である男──西園寺さいおんじ雅人まさとは、隣にいる身重の妻の葉子ようこに断りを入れて紙を追った。紙へと手を伸ばすが、風はいたずらにその手を避ける。

 風の行きついた先は、ひときわ大きな桜の木だった。その根元で腰を下ろしていた和服の男が、飛んできた紙をそっと手の平に乗せる。


「すみません、それ私ので……」

『生まれるのは、男の子かな』

「え?」


 突然の質問に、もうすぐ父になる雅人は虚を突かれ目を丸くした。桜の前に腰を下ろす彼は顔の雰囲気は若いが、落ち着いた口調のせいか妙に老成した印象を与える。

 そんな彼は、手に乗せた紙を雅人へと差し出した。


『いやなに、簡単な推測だ。君がお腹の大きな女性と歩いていた。だから、この紙にたくさん書いてある名前は、生まれてくる子の名前候補なんだろうと。名前はどれも男の子の印象が強かったものだから、てっきりそうなのかと思ったが、違ったかな?』


 紙を受け取りながら、雅人はようやく緊張を解いて顔を綻ばせる。


「いえ、その通りです! なんだか、探偵さんみたいですね」

『うはははは! 俺が探偵とは面白い。それで、名前は決まりそうか?』

「それが、どれも迷ってしまって……」

『ふむ……俺は、この名前なんて好きだがな』


 ひとつの名前を差した彼の指は、顔の印象よりも筋張ってごつごつとしていた。

 指差された名前は──宮人。


西園寺宮人みやひと、いい響きだ』

「宮人か……って、あれ? 苗字教えましたっけ?」


 雅人が顔を上げた時には、まるで桜に攫われてしまったかのように彼の姿は消えていた。


「どうしたの? 狐につままれたような顔して」


 後ろからゆっくり歩いてきた葉子が、どこかぼんやりとした雅人の肩を叩く。


「あ、いや……」


 雅人は桜の木を見上げ、先ほどまで話していた青年の姿を思い浮かべようとする。

 しかし、霧がかかるように記憶の輪郭がぼやけて、ふっと溜息をついた。


「狐じゃなくて、桜の妖精か……いや、妖怪かも」

「えぇ? 何それ」


 くすくすと笑う彼女に、雅人は手の中にある紙を見せた。


「生まれてくる子の名前、宮人はどうかな? いい響きだって、桜のお墨付きだよ」

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