かぐやを月には還さない

維 黎

第1話 私が推しと出会った日

「ッ――はぁ……はッ――は、ゲホッ、ごほッ……」


 激しい運動をすれば呼吸は激しく速くなる。苦しくて呼吸をしたいのに「ハァ、ハァ」と当たり前のように息を吸えないもどかしさ。膝が笑っていた。

 運動不足や年齢を鑑みればおかしなことでもないが、私自身無自覚だったことは否めない。

 建設中――いや、ここ1ヵ月ほど進捗していないところを見ると建設途中という表現が正しいだろうか。

 下から見上げた時はそう高いとは思えなかったが、実際階段を上ってみれば目的の階までは届かず息切れする無様さ。

 後に言い訳をするとしたら後先何も考えずとにかく速く、そして早く。辿り着く為にそれだけを必死だったのだ。


 建設途中のビル。

 最上階ではない階層フロア。人のシルエット

 表情などは伺い知れなかったが、はっきりとそれが女性であることは理解できた。


――飛び降りる!?


 午前零時を過ぎた時刻に、灯り一つ点いていない暗闇の建設途中のビルに立っている姿を見れば、そんな考えが浮かんでも不思議はない。

 事実、結論をいえば実際に飛び降りるつもりだったと知ることになる。

 必死だった。いや、より正確にいえば必死になれた。心が無感となって久しい私が。


 いつの頃からか好奇心や興味、好きという感情。そういった心の動きが少なくなってきたことを私は自覚するようになった。

 10代、20代の頃にはたくさんあった。

 好きなアイドル、バンド、推しの漫画や小説。

 行きたい場所もあった。夏は海、山にも行ったし、冬はスキーやスノボに行くのは常だった。

 30代には結婚をしてより一層仕事に励み、また『家』のこともそれなりにするようにもなった。

 40代、独り身に戻ってから数年。環境の変化や時勢から職場と自宅との行き来だけの単調な生活リズム。

 徐々に活力や気力も薄れ、生きる為に生きている状態の中。

 

 今日という日に会社からの帰り道。

 街灯とは違う光が辺りを照らすのを、何事かと見上げてみれば雲に隠れていた月が覗いただけ。

 それがなければ気付かなかった。気付けなかった。




「しっかりしろッ!!」


 自分自身を叱咤する。

 ガクガクと震える膝を抑え込み、時に拳で叩いて活を入れる。

 上った先にいるだろう女性を思い、無理やり脚を動かし、騙し騙し呼吸をしてようやくと辿り着く。

 

「待ってくれッ!!」


 荒れた呼吸にも声を詰まらせずにはっきりと言い切れたのは何の奇跡か。

 どう説得するかなど考えなかったし、考える暇もなかった。

 月空を見上げて彼女を見つけた時、私は何も考えずに走り出したのだから。

 死なせたくないと思ったわけではないだろう。

 私はただただ恐怖した。

 人の死を。

 誰かのではなく誰であっても自分の知覚範囲で死なれることに恐怖した。

 道徳や人道とは違う次元で私は彼女を説得する。


「死んでしまうというなら、君の人生ッ!! 最後に一週間だけ私に使ってくれないか!!」


 とくにどうこうして欲しいと思ったわけではない。

 一週間という時間に何も意味はない。

 咄嗟アドリブで出た言葉であって、頭で考えた言葉ではなく、今、目の前で飛び降りることを躊躇させる為に突拍子もない言葉を使って注意を惹きたかったんだと思う。

 私は土下座をしたつもりは毛頭なかったのだが、無理をした体を休ませる体勢として両ひざと手の平をついて息を整えた。さすがに建設中の建物の床に寝転ぶわけにはいかなかったから。


 私は彼女の背中に向かって叫んだが、しばらくして彼女は体を半身捻るようにして顔を見せてくれた。

 昏いビルのテナント。

 外灯りを受けて青白い顔とただ光だけを反射し、感情いろのないガラス玉のような瞳を向けて。


「――なに……」


 最後まで聞き取れなかったはずなのに、なぜだか私は『何するの?』と彼女が言ったと理解した。


「え?」


 反面、理解できなかった。彼女が何を言っているのかを。


『何するの?』


 彼女の言葉を頭の中で反芻して思い至ると同時に冷や汗が出る。彼女の人生を自分に使ってもらう。

 どうしろというのか。

 私は咄嗟に浮かんだことを深く吟味することなく、それを話しながら形にしていく。

 そして――。


 彼女は私に近づくと四つん這いの私を引き起こすことに最初の時間を使ってくれた。

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