第95話 生い立ち(ピア視点)



 自我を持った時から、私にはなにもなかった。


 両親や兄弟もいなければ、名前もない。気が付いたらずっと孤児院にいて、ただそこで奴隷のように暮らしていた。

 毎日風呂に入れるような恵まれた環境ではなかったけれど、薄汚れた格好でも私はとても綺麗だったらしい。このポルタニア皇国ではもともと女は生きにくいけれど、最下層の美少女である私はもっと最悪。性的搾取の対象にしかならないからだ。


 こんなクソみたいな世界でどうしたら自分の身を守れるのか。私は考えながら生きてきた。足掻かずに流されるようにして娼婦になるなんて、絶対に嫌だもの。


 孤児院のバカな男の子達をかわし、気色の悪い院長を避けているだけではもうどうにもならなくなった頃、私は自分の力に気付いた。

 キッカケもやはりクソみたいなことだ。年長の男の子に物置小屋に閉じ込められて床に押し倒されたとき、怒りのあまり私は叫んだ。


「バッカじゃねーの!? 私みたいなガキになに発情してんだよ、クソ野郎! 私に触るんじゃねぇ!」


 口ではそう言えたけれど、十歳にも満たない私を搾取しようとするバカは十五歳で、体格や力の差なんて歴然としていた。

 悔しい、悔しい、悔しいと心が唸り声を上げている。それなのに頭の一部が、もう抵抗を諦めていた。暴れまわったところでもっと酷くされるだけじゃないか、貞操くらい死ぬよりマシだろって。

 けれど世界は私に味方をした。

 バカな男は体を硬直させ、私に指一本触れることが出来なくなったのだ。


 私には他人を操る力がある。


 その力は、私の生活を一変させた。





 孤児院の男も女も大人達も、すべてが私の思うがままになった。

 だれもが私をチヤホヤし、私にどんな労働もさせなくなった。たいへん気分がいい。

 私は自分の力を使っていった。孤児院の外の人間達もどんどん私に優しくなり、だれもが私に気に入られようと優しい言葉を囁き、いろんな物を差し出してくる。

 私はそれがとても愉快でたまらなかった。バカみたい。昨日までは私を見下していたくせに。可笑しくて可笑しくて、腹の奥底で怒りが燃え続ける。

 私はただ単純にこの世界が憎くて憎くて、こんなふうに滑稽な復讐しか出来ないくせに、他者を見下しているバカだ。私は私自身のことも含めて人間が嫌いという、とても面倒くさい女だった。


 そんな私を変えてくださったのは、ゴブ様だった。


 ある晴れた日のこと。私はパン屋の息子から貢がれたパンを頬張りながら道を歩いていた。

 ちょうど大通りと交差する地点で、私は豪華な飾りのついた馬車に撥ね飛ばされた。


「ちょっと、痛いじゃない! 打ち所が悪ければ死んでたんですけど!? どこに目ぇつけてんだよオラァッ!」


 きっと金持ちの馬車だ。慰謝料を巻き上げてやろう。私の力を使えば半永久的に金品をせしめることが出来るもの。

 私は馬車の扉をバンバン叩き、オラオラオラァッ! と恫喝する。


 鬱陶しそうな表情で馬車から出てきたのは、天上人だった。


 その御方のあまりの美しさに、私の呼吸は一瞬止まった。

 磨き抜かれて艶やかな褐色の肌に、オレンジのように鮮やかな髪色。鳥の止まり木にだってなりそうなほど長い鼻に、豆のように小粒な瞳がキラキラと輝いている。こんなに儚げな美しさを持つ男の子なんて、私は見たことがなかった。


 彼は面倒くさそうに私を見下ろすと、側に居た従者から革袋を受け取り、それを私の顔へと投げつけた。革袋の中身はぎっちり詰まった金貨だったのだけど、鼻に強かにぶつけられてめちゃくちゃ痛かった。


「ガキ、これで満足か? ならさっさと去れ。僕に手間をかけさせるな」


 全然満足なんかじゃない。お金なんてもはやどうでもいい。

 この美しい御方の側に居られるなら、奴隷だってなんだっていい。喜んで娼婦にだってなってやる。

 クソみたいなこの世界で、ただただ、貴方だけが輝いている。


「どうか私を雇ってください!!」


 私は出し惜しみせず自分の能力を見せて、その御方に雇われることになった。


 ゴブリンクス・ポルタニア第二皇子。

 この国で一番麗しい皇子様だった。





 ゴブ様から『ピア』という名前を与えられた私は、ゴブ様のお側で侍女のふりをしながら色んな人たちを操っていく仕事を与えられた。

 ゴブ様は世界を統一し、ポルタニア皇族の美しさを広めようという偉大な目標を持っていらっしゃった。


「それは素晴らしいお考えですねっ!」


 私は城で見かける貴族令嬢や侍女を観察し、美少女顔にふさわしい愛らしい性格を装うことが出来るようになっていた。それもこれもゴブ様を篭絡する為である。


「ああ。まずは手始めにシャリオット王国を属国にしてやるのさ」


 しかしゴブ様は女性に関してとてもストイックな所があり、私がいくら可愛い子ぶっても興味を抱くことはなかった。ゴブ様に群がるほかの女達と同様に。


 私にはもちろんゴブ様のお気持ちを操って、私だけを愛させることは出来たのだと思う。少なくともこの時点では。

 でも私はゴブ様だけは操りたくなかった。そんな紛い物の気持ちをゴブ様に植え付けたところで、虚しくなるだけだということは分かっていたからだ。

 それに他者を操れば操るほど、私は疲れが抜けなくなってきた。精神状態もあまり良くなくて、常にイライラした気持ちを抱えるようになってきた。だんだん自分の力を使うのが億劫になってきたのだ。


 けれど、そんなある日のこと。

 ゴブ様はついに心を寄せる女が出来てしまったのだ。


「あんなに美しい人を見たのは初めてだ……」

「ゴブ様、どうしたんですかぁ~? なんだかシャリオット王国から帰国してから変ですよ? 傀儡くんオークハルト殿下にはお会いできたんですよね?」

「まさしく女神だった……」


 自室のソファーに深く腰をかけ、赤い顔でぽーっとなっているゴブ様。

 そんな気の抜けたお姿は初めて見た。

 ほかの周囲の従者たちに視線を向けてみると、彼らもまた初めて見るゴブ様のお姿に困惑しているようだった。


 シャリオット王国へゴブ様に随行した従者たちに話を聞けばーーーなんとゴブ様はあっちの国の令嬢に一目惚れしてきたらしい。


 こんなに可愛い私にさえ手を出さないゴブ様が? ポルタニア皇国のどんな令嬢にも冷たく接するゴブ様が? 一目惚れをした???


 バカみたいに呆けたあと、私の中に沸き上がるのは見たこともない令嬢に対する激しい憎しみだった。

 絶対に許さない。

 私のゴブ様をたぶらかすなんて、どんな売女よ。

 ゴブ様が目を奪われるほどの美貌で、侯爵令嬢という地位で、おまけに傀儡くんオークハルト殿下の婚約者候補だなんて。神から全身全霊で愛されて何もかも持っているような女なんて大っ嫌い。

 その女のすべてを壊してやりたい。


「僕は決めたぞ! シャリオット王国へ留学する!」


 ゴブ様はその令嬢を手に入れるためにデーモンズ学園に入学すると言う。

 そして私も連れて行く、と。


「ピア、貴様には男爵令嬢の地位を与えてやる。僕と共に学園に入学し、オークを落とせ。女神との仲を引き裂くんだ。そして婚約者候補から下ろされた女神を僕が慰め、手に入れる。貴様はそのままオークの正妃となり、僕の指示に従ってシャリオット王国を属国にしろ。一石二鳥だ」


 アボット男爵家を買収したゴブ様は、様々な設定を私に与えて、平民上がりの庶子『ピア・アボット男爵令嬢』を作り出した。

 私はゴブ様の指示に忠実に従うふりをしながら、その裏では令嬢に対する復讐を企てて学園へと入学した。





 ココレット・ブロッサム侯爵令嬢。

 その女が私に顔を向けたその瞬間から、私はその女に対するどんな復讐も成就しないことを悟ってしまった。

 せっかく天真爛漫な無邪気な少女を装って、最高の出会いをオークハルト殿下に演出してやったのに。


「あ、お連れ様、わたしもご一緒したらダメです、か……」


 そう言って覗き込んだ令嬢の顔はーーーもはや人間じゃなかった。


 透き通る白い肌も、長い睫毛に縁取られたペリドットの瞳も、薄紅色の頬も鮮やかな唇も。風にそよぐローズピンクの髪からは優しい香りがして、もうこんな人見たことない。

 女神じゃん。

 クソみたいな下界に間違って降りてきた女神じゃん。女神じゃなかったら精霊じゃん。


 私は美しすぎる恋敵を前に、もはや絶句しか出来なかった。


 女は私に穏やかに微笑みかける。


「ごめんなさいね、アボット様。オーク様には待ち人がいらっしゃるの。お一人で会場へ行くのがご不安なら、在校生に案内を頼みましょう。

 ……どなたか、彼女の案内をお願いできるかしら?」


 仕草も淑女のお手本そのもので、声まで綺麗ってなんなのこの女。

 悔しい、完全に負けてる、ゴブ様が一目惚れするはずだ、ムカつく、許せない、腹が立つ、復讐だ、勝てるわけないじゃん、アンタなんて大嫌い!

 ぐるぐるぐるぐる、感情が波立つ。


 私の負け戦はこうして始まった。

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