第16話 ブロッサム侯爵家の夏の庭(ラファエル視点)



 本日はココと以前から約束していた、ブロッサム侯爵家でのお茶会だ。


 王都にあるブロッサム侯爵家のタウンハウスには、前回の人生で何度か訪ねたことがある。そのほとんどが夜会だったからか、それともブロッサム侯爵の凍りついた表情や、あの彼の貼り付いたような笑顔に迎え入れられていたせいか、とても暗く寂い気配のする屋敷だった。


 けれど今日の午後に訪ねたブロッサム侯爵家の屋敷は、夏の明るい日差しとそれに伴って落ちる濃い影に彩られて、眩いほどに鮮やかだった。

 前庭に植えられたヒマワリやマリーゴルド、サルビアなどの情熱的な色合いの花々が咲き乱れ、短く刈り取られた芝生の緑が視界に飛び込んでくる。

 そして乳白色の石で造られた屋敷は、けっして豪華絢爛ではないが、家族と穏やかに暮らすのにふさわしい、とても住み心地の良さそうな建物に見えた。


「我がブロッサム家へようこそ、ラファエル殿下」

「侯爵、本日はお招きいただきありがとう」


 出迎えてくれたブロッサム侯爵は緊張したように肩が強張っていたが、私を見る眼差しは穏やかだった。やはり前回の侯爵とはまるで別人だ。

 周囲に並ぶ執事や使用人たちの目にも、不思議なほどに私に対する嫌悪の色が見られない。こんな不細工を見れば、侍女の一人やふたりは倒れてもおかしくないはずなのだけど。

 私と共にやって来たフォルトも、不思議そうに周囲の人々を観察している。


「娘は庭で殿下を待っております」


 侯爵はそう言って私たちの案内を使用人に任せると、仕事に戻っていった。


 屋敷の中から庭へと降りられるテラスへ案内されると、前庭よりもさらにたくさんの花々や木々に囲まれた庭が現れる。王宮の庭師たちが細部まで計算して作った庭とはまた趣が違って、どこか牧歌的な雰囲気のある庭だ。いちばん大きな木にはブランコまで作られている。

 ココはその庭の中の涼しげな木陰に、テーブルや椅子を用意して私を待っていてくれた。


「いらっしゃいませっ、エル様!」


 ココが愛らしく手を振っている。


 爽やかなサマードレスに合わせて、いつもは緩やかに垂らしているローズピンクの髪が丁寧に編み込まれてまとめられていた。さらし出されたうなじがとても綺麗で、思わず頬が熱くなって視線を逸らしてしまう。

 もう何度もココに会っているのに、いまだに彼女の姿に慣れることが出来ない。どんな表情を見ても胸が高鳴り、どんな格好をしていても見惚れてしまう。

 

 ……今日は張り切ってココの瞳と同じペリドットのカフスボタンを着けてきたけれど、今更ながら恥ずかしくなってくる。

 私なんかがお洒落をしても焼け石に水どころか、勘違い野郎にしか思われないのではないか? どんなに身綺麗にしてもココに釣り合うわけがないのだから。


 ぐるぐる考えて返事の出来ない私のもとへ、ココが歩いてくる。

 ココは私の手を取ると、こてんと首を傾げて笑った。


「さぁ、エル様、炎天下の移動で喉が乾きましたでしょう? お茶の準備はもう整っておりますの。今日はオレンジたっぷりのアイスティーをご用意いたしましたわ」

「あ、……ああ、うん」

「お茶菓子もたくさんご用意いたしましたからね。料理長にわがままを言って、五種類も用意していただいたんです。もちろん甘いものの他に軽食もございますわ」

「うん……、ありがとう」

「あら、エル様!」


 ココは私の手首に視線を向けた。そして両手で掴んだ私の手を、自分の目線の高さまで持ち上げると、じーっとシャツの袖を見つめた。ーーーカフスボタンに気が付いたのだ。

 恥ずかしくて視線をさ迷わせてしまう私に、ココが目元をほころばせる。


「嬉しいです、エル様。お側に居られないときでも私のことを思い出してくださいね?」

「……私にはココのことを忘れる瞬間すらないよ」

「まぁ、情熱的なお言葉」


 ココがクスクスと笑って、そっと私のカフスボタンを撫でる。日差しに当たったペリドットがキラキラ光っていた。


「私もエル様の瞳の色の宝石をなにか身に付けたいわね……」


 ココが小さな声でぽそりと呟く。なので私はココの手を握り返し、


「なら今度、私から何かきみに贈ろう」


 と告げた。


 ココはちょっと驚いたように目を見開く。彼女の潤んだ黄緑色の瞳はやはり宝石なんかよりもずっと瑞々しく輝いていた。

 それから恥ずかしそうに小さく頷く。


「催促したみたいでお恥ずかしいですけど、ぜひ、エル様に選んでいただけたものを身に付けたいです」

「女性に個人的な贈り物をしたことなどないから、センスが悪いかもしれないけれど……」

「どんなものでも着こなして見せますわっ!」


 そう胸を張る彼女の様子に、思わず納得してしまう。私のセンスがどれほど悪かろうと、ココの圧倒的な美貌の前ではマイナスにすらならないだろう。


 そんなことを話ながらお茶の席に案内され、そばかす顔の侍女がサーブしてくれたオレンジアイスティーに口をつける。甘酸っぱくて舌にうれしかった。

 向かいの席に座るココがお茶菓子について色々と説明をしてくれる。私は説明されるがままにお茶菓子に口を運んだ。

 王宮で出るもののほうが材料も料理人の技術も上のはずなのに、侯爵家のお茶菓子の方がずっと美味しく感じる。ーーーこの屋敷はあまりにも居心地がいいのだ。


 きっとココがここに居るからだ。

 ココが生き延びてくれたから、ブロッサム侯爵家はこんなにも幸福な時が流れているのだ。

 私は彼女を見つめ、二度目の人生の奇跡をまた噛み締める。


「エル様、実はこのあとに紹介させていただきたい子がいますの」

「紹介……?」

「わたしがエル様の婚約者候補になったので、跡継ぎに養子を貰ったのです。とても可愛い義弟ですの!」


 跡継ぎ、養子、義弟。

 まさかそれは……。

 私の脳裏に、一人の青年の姿が蘇る。いつだって張り付けたような笑みを浮かべ、翡翠色の瞳だけが凍りついていた彼の姿がーーー…。


「お義姉さまっ! 授業が終わりました!」

「あ、エル様、あの子です」


 テラスから転がるように駆けてくる少年の姿に、私は呆然と目を見開く。

 あの白髪に、翡翠色の瞳、そしてなにより私と同じくらい醜い顔立ちの男の子。

 間違いようもない。彼だ。

 前回の人生では心の凍りついた青年だったレイモンド・ブロッサムが、なぜだか心からの笑みでこちらに走ってきてーーーココの腕の中へと飛び込んだ。


「レイモンド? お客様の前でしょう? エル様にご挨拶しましょう」

「はい、お義姉さま」


 レイモンドはココから体を離すと姿勢を正し、私にキラキラ輝く瞳を向けた。


「ラファエル殿下、お会いできて大変光栄です。義弟のレイモンドと申します」


 そう頭を下げるレイモンドを見て、私は「ああ」「うん……」などとあやふやな返事をしてしまう。


 彼もまた、前回の彼とは違いすぎるようだ……。





 私が前回の人生でレイモンド・ブロッサムに出会ったのは学園の図書館でのことだ。


 二学年下のレイモンドは入学当初からその醜い容姿と、なぜか半分に割れたキツネのお面で顔の左半分を隠しているという珍妙さから、悪目立ちをしていた。

 成績は学年トップどころか全学年でもトップだったようだ。

 なんでも彼は書物を読めば一度ですべてを暗記し、忘れることもないという才能を持っていて、入学時には全学年分の教科書をすべて覚えてしまっていたそうだ。

 そんなレイモンドはほとんど授業には出席せず、代わりに図書館で日がな一日読書をしていた。


 学園の図書館は地下二階地上三階建ての大きな建物で、王宮にある図書館のつぎに蔵書量の多い施設だ。王宮の図書館はどちらかというと国に関する歴史や政治、法律関係の蔵書が多いのに対して、学園の図書館の方は最新の学問や研究に関する書物が多かった。

 レイモンドはその蔵書のすべてを在学四年間の間に読破しようと、毎日足繁く通っていた。たまたま私が図書館を利用した際に、彼と目が合ったのが交遊の始まりだ。


 私とレイモンドの友情は歪なものだった。

 醜さゆえの絶望が私たちを結びつけていたが、ひとつだけ解り合えない所があった。

 彼は私と違って、母親からの愛情を知っていたのである。


「このお面は僕の母が手作りしてくれたものです。訳あって壊されてしまったのですが……、まぁ、壊した実行犯も、指示を出した犯人たちも全員、数年かけて家ごと破滅させてやりましたけどね」


 悪い顔でレイモンドは笑う。


「母はこのお面をお守りだと言っていました。僕を悪意ある人から守り、僕を受け入れてくれる優しい人に出会えるよう、願いをかけて作ったと……。

 実際お守りとしての効果はまるでなかったのですが」


 それでも大事そうに、レイモンドは半分だけのお面を撫でる。


「それでもこのお面だけが、僕を唯一愛してくれた母の遺品なのです。永遠に母の死に囚われて生きるのだとしても、手放すことが出来ないのです」


 そう言って貼りつけたような笑みを浮かべるレイモンドのことが、私は羨ましくてたまらなかった。

 私には母の愛情すら与えられなかったのだと、突きつけられて苦しかった。


 レイモンドだってとても不幸だ。

 醜さゆえに他者から傷付けられて生きてきた。養父であるブロッサム侯爵は彼に興味を向けず、ただただ跡継ぎ教育を詰め込むだけで。使用人たちからも疎まれて。学園でも周囲から爪弾きにされて。

 でも、でも、それでも、レイモンドは母に愛されていた。

 それが羨ましくて、妬ましくて。

 そんなことを考える自分に自己嫌悪を抱く。

 私はレイモンドと一緒に居ることが、時々ほんとうに苦しかった。


 学園を卒業してからも、レイモンドとの交流は続いた。

 社交界の陰湿さに揉まれた私とレイモンドは、どちらも学生の頃より暗い目をしていただろう。

 ある夜会の席でレイモンドはいつものように暗い笑みを浮かべながら言った。


「母が死んでから、もう何年も泣けていません。泣きたくても涙が出てこないのです。きっと枯れ果ててしまったのでしょうね」


 その日も私たちを見るなり令嬢たちが倒れ、騒ぎになったばかりだった。そのことに悲しむ心すら失ってしまったのだとレイモンドは言う。


「涙どころか、もう本当の、心からの笑みすら浮かべることはないのかもしれません」


 私たちの心はすり減り、疲れきっていた。世界のすべてを暗い眼差しで見つめていた。呪っていた。

 だからだろう、レイモンドは王太子の座を失った私を匿い、反乱軍を作ることにも協力してくれたのだ。


 断頭台で処刑される直前、レイモンドは静かにこう呟いた。


「早く母さんのもとへ帰りたい……」


 帰りたい場所が、人がいるレイモンドのことが、私は最期まで羨ましかった。





「レイモンドは本当に頭の良い子なんです。本を読めばなんでも暗記できてしまうんですよ。この子が跡を継いでくれれば我が家は安泰ですわ」

「お義姉さまが喜んでくださるなら、いくらだって頑張りますっ」

「喜ぶのはわたしだけじゃないわよ。お父様も使用人たちも領民も、優秀なレイモンドが領地を守ってくれればみんなが喜ぶわ」


 ココに頭を撫でられて、レイモンドが頬を上気させて微笑んでいる。

 彼の心からの笑みと言うのはこういうものだったのかと、前回との違いに私はとても驚いている。

 とんでもなく醜い少年だが、貼りつけたような笑顔よりも今の方がずっと良い。翡翠色の瞳が蕩けるように輝いているのはそんなに悪いものではなかった。


「……レイモンド、きみはブロッサム侯爵家の養子に来て良かったかい?」


 答えなどわかりきっていたけれど、私は彼にそう問うた。

 レイモンドは一瞬不思議そうに瞳を瞬かせ、けれどすぐさま無垢な子供の笑みを浮かべる。


「はい! もちろんですっ!」


 そう頷くレイモンドに、今回は羨ましいと言うよりも微笑ましい気持ちを感じる。良かったね、と笑いかけてあげる心の余裕すらあった。


 一つひとつ、私のなかで前回の人生の苦しみが解けていく。

 ココ、きみが生きていてくれたお陰で。

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