ReProject: ARK -異世界の英雄-

うちやまだあつろう

第一章 転移者『アキラ』

1

 並んで干された白いシーツが、初秋の風に揺れている。ほのかな柔軟剤の香りに包まれながら、月の浮かんだ青空を眺めた。


「ほら、兄ちゃん。ゆらゆらしてて海みたいでしょ」


 横で寝転がる直哉なおやが、頭上で波打つシーツを見て言った。八歳の目を通すと、何でもないシーツが大海原に見えるらしい。

 コンクリートの床からぼんやりとした熱を背中に感じながら、あきらは「知ってるか? 海って青いんだぜ」と答える。すると、直哉は小さい唇を目一杯尖らせた。


「そんくらい知ってるよ。でも僕にとって、このシーツは海だし、物干し竿は水平線なの。こうやって寝転がるだけで、僕は病院にいながら海にも行けるんだ」


 嬉しそうに言う直哉の言葉を、彰は黙って聞いていた。

 直哉は本物の海を知らない。生まれつき体の弱かった彼は、その人生のほとんどを病院で過ごしてきたのだ。


 カモメの代わりにカラスが鳴いた。白い水平線に目を凝らすと、小さな飛行機が雲を吐きながら飛んでいた。

 二人はしばらく穏やかな海に浮かんでいた。


「僕さ、星空が見てみたい」


 不意に直哉が言った。


「今夜にでも、この屋上に来れば良いじゃんか。俺が先生にお願いしてやろうか?」

「この辺、夜も明るすぎるんだ。満天の星空を見てみたいんだよ」

「満天の星空かぁ…………。俺も見たことねーなぁ」


 彰は白い波の向こう、どこまでも広がる青空に手を伸ばした。


「…………そうだな。退院出来たら、星を見に行こう」

「え? 本当?」

「たぶん、ちょっと山奥まで行けば見えるだろ。だから、先生の言うことちゃんと聞いて、さっさと病気治せよ」


 それを聞くと、直哉は嬉しそうに頷いた。


 ◇◇◇


 いつの夢だろうか。結局、まだ星を見る約束は果たせていない。

 起き上がる前に大きく息を吸うと、何故か土の臭いがした。少し疑問に感じながらも、瞼をゆっくりと持ち上げる。

 白い天井にシーリングライト。そんな見慣れた光景が広がっているはずだった。


「…………あれ?」


 視界を縁取る生い茂った枝葉。ビー玉を散りばめたような星空に、ぽっかりと丸い月が浮かんでいる。目を擦ろうと腕を持ち上げると、手からパラパラと土が落ちた。


「森……?」


 ぽつりと呟いた声に応えるように、風に揺られた木々がざわざわと揺れた。


 夏の終わりの涼しい風。どこかで聞こえるフクロウの鳴き声。背中に感じる柔らかい土の感触。五感から送られてくる膨大な情報量が、これが現実であることを訴えてくる。

 酷い風邪をひいたときのように体が重たかった。起こすだけでも一苦労だ。寝る前のことを思い出そうにも、記憶がぼんやりとしていて上手く思い出せない。



「キィッ……キキッ」


 不意に動物の鳴き声がして顔を上げた。目の前にいたのは一匹のサル。ただ、恐ろしく奇妙な外見をしたサルだった。

 目は燃えるように赤く、体の毛はむしり取ったように禿げている。何より奇妙だったのは、眉間から伸びる小さな赤黒い角。生まれてこの方、角のあるサルというのは聞いたことが無い。

 辛うじてサルと認識できるが、別の生き物と言われれば納得してしまいそうな姿だった。

 どうやら群れで行動しているらしい。木の上にもいくつか赤い眼が浮かび上っている。


 しばらく観察してみたかったが、それは叶わなかった。というのも、そのサルが彰を睨みながらゆっくりと牙を剥いたからである。その口元から、ボタボタと唾液が滴り落ちるのを見て、彰もようやく状況を理解した。


 こいつら、俺を食う気だ。


 咄嗟に手元に落ちていた小石を投げた。あらぬ方向へ飛んで行ってしまったが、サルの視線は一瞬逸れる。同時に、彰は弾かれたように走り出した。

 しかし、都会暮らしの彰に森で走った経験など無い。

 平坦な道ならばサルより速いかもしれないが、障害物も多く、傾斜もある森の中ではそうはいかない。蛇のようにうねった木の根は、寝起きでおぼつかない彰の足を簡単に捉えた。


「うわッ!」


 斜面を少し転がると、大きな岩にぶつかって止まった。その目の前で跳躍する黒い塊。どうやら思ったよりも離せていなかったらしい。

 彰は襲い来る獣を必死に避けると、すぐに立ち上がって走り出した。


「だ、誰か! 助けて!」


 走りながら叫んだせいで情けない声しか出ないが、そんなことを気にしていられる余裕はない。ひたすら悲鳴を上げながら、木々の間を抜けて斜面を転がるように駆け抜けていった。


「――ッてぇ!」


 突然視界が開けた。バランスを崩した彰は、踏み固められた地面の上に叩きつけられる。

 心臓の鼓動が耳の奥まで響いていた。からからに渇いた喉が水分を求めてえずく。もう走るどころか、立ち上がるだけの体力もない。

 まもなく、茂みの中から数匹のサルが姿を現した。勝利を確信したのか、こちらの様子を窺いつつ、ゆっくりと歩いてくる。


 しかし突然、目の前を真赤な炎の壁が遮った。


「大丈夫か!」


 男の図太い声が響いた。

 それを合図に、サルが炎の壁から飛び出してくる。だが、同時に彰の目の前に大きな人影が立ちはだかった。


 鋭く走る白刃。彰の顔に生暖かい液体が飛び散る。それが血だと分かった瞬間、真横にどさりと獣の死体が落ちてきた。微かに肉の焼ける臭いがする。


「そのまま座ってろよ!」


 月の光に照らされながら、男は流れるような手つきで大ぶりな剣を操っていた。サルも次から次へと襲い掛かってくるが、彼はその攻撃はおろか、飛び散る返り血さえ躱している。彰は彼の動きに見惚れて、立ち上がろうとさえ思わなかった。


 やがて、いくつかサルの死体が積みあがると、辺りはすっかりと静まり返ってしまった。


「立てるか?」


 男は剣の血をボロ布で拭いながら言った。


「にしても驚いたぜ。突然森の中から飛び出してくるもんだからなぁ………………いつまで寝てるつもりだ?」


 彼は呆けている彰の顔を覗き込む。ボサボサの髪に伸び放題の無精髭。先ほどの上品な剣捌きには似合わない顔つきだ。


「あぁ…………、大丈夫。立てるよ」


 彰はぼんやりとしたまま答えた。男は「そうか」と答えて剣を腰の鞘へ納めると、地面へ置いていた古いマントを羽織る。その格好が、さも当然であるかのように。

 現代日本でマントを羽織って生活している人間と言えば、スーパーヒーローに憧れる幼稚園児か、ファンタジーを見すぎた中学生くらいだ。まして、これほど大きな剣を持っていれば、たちまち警察が飛んでくるだろう。


 目が覚めてから、何もかもが奇妙だった。

 見上げると、嘘のように綺麗な星空が広がっていた。この景色をそのまま見せたなら、直哉はどれだけ喜ぶだろうか。次は本物の大海原へ行きたいと言うかもしれない。

 彰は少し笑うと、届きもしない星へ手を伸ばした。

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