9-3 : 〝あばよ〟




 ◆ ◇ ◆




「――はぁ゛……はぁ゛……っ」



 痛む身体にむち打って、絡まる脚を引きずって、逃亡を図ったジェッツが膝に両手を突いていた。


 激痛と息切れで額に浮いた脂汗が、乱れた髪を伝ってボタボタと滴り落ちる。


 全身にみなぎっていたあの強烈な万能感は、今はもうない。

 深酔いがめたような、薬物による幻覚症状がきれたような、どうしようもない喪失感だけがその身にのしかかっている。


 膝が笑う。

 もう立っていることもできず、ジェッツはドサリと尻餅をついた。


 背後にもたれかかると、そこには冷たい石の感触が――――――慰霊碑、、、が、あった。


 ジェッツが逃亡の末に辿たどり着いた場所は、大崩落事故十年前の犠牲者たちをまつる慰霊区だった。



「……。…………思い知らせて、やりたかったんだ……」



 ジェッツが、独白してゆく。



「こんな石の塔を、〝慰霊碑〟だなんてよ……大層なもんを、こさえた気になって……それで、全部、なかったことにしやがって……この下に、埋まったままの奴らのことを、こんな小綺麗こぎれいな公園にしちまいやがった、レスローに……思い出させて、やりたかったんだよ……」



 くっくと、ジェッツはあざわらった。


 それは硬質岩盤〈鬼泥岩きでいがん〉に阻まれて、一人の遺体も遺族の元へ帰せなかった鉱脈都市の無能を笑ったのか。

 それとも、復讐ふくしゅう心ごとすべてを打ち砕かれた、己の不運を嘆いてか。



「〝毒ヘビとすんだ喧嘩けんかは水に流せ〟なんて……馬鹿な決まり文句も、あったもんだ……終わってなんか、なかった……俺の、喧嘩けんかは……この十年、ずっと……」



 目を閉じ、いまだ日食の影差す天を見上げ、ジェッツの意識だけが、横を向く。



「だから、俺ぁよ……自分てめぇ十年けんかに、けりをつけて……勝手に未来まえに進んでいきやがる、お前みたいな野郎が……反吐へどが出るほど、大っ嫌いなんだ……」



 その先に、誰がいるのか……――ジェッツにはもう、わかりきっていた。



「――馬鹿は、お前のほうだろ……ジェッツ」



 この場へと追いついた、サイハの声。


 互いに、追って追われてここまで辿たどり着いたわけではない。


 ただジェッツは、〝ここで待てばサイハが来る〟と確信していて。


 サイハは、〝ここでジェッツが待っている〟と知っていた。


 ……それだけのこと。


 サイハが言葉を続ける。



「お前が誰をこの下、、、に置き去りにしちまったかなんて、オレが知るわけないけどな…………もう、自由にしてやれよ。その人のことも。自分てめぇのことも」



 サイハの声は、ジェッツを糾弾するようでも、親身に言い聞かせるようでもあった。


 目を閉じたまま、ジェッツが痛む腹を震わせてまた笑う。



「はは、は……若造が、この俺に、説教垂れやがる……〈PDマテリアル〉CEOも、落ちたもんだ……」



 ジェッツが重いまぶたを開き、サイハをじっと見た。



「……。……サイハ……お前は、何を、のこされた……?」



 ジェッツのその問いは、前口上を多分に省いたものだった。


 だがサイハには――同じ事故で、同じように大切な人を失ったサイハには、ジェッツが何をいているのかが、理解できて。



「オレにのこされたのは、義親父おやじ約束ゆめと、〈レスロー号ロマン〉だ。――十年、オレが突っ走るには、それで十分だった」



「は、はは……ああ、本当に、めでたい奴だ……馬鹿野郎で、幸せな奴だよ、お前……」



 ヘラヘラと笑い続けるジェッツの目は乾いていたが、サイハにはどうしても、その男がむせび泣いているようにしか見えなくて。



「……。……俺には、何も……何も、のこらなかったんだ……あのが、俺のすべてだった……俺の命よりも、ずっと大切な人だった……」

 ジェッツがいとおしそうに、地面をでて。

「だから、〝ジェッツ〟なんて名前の野郎は……十年前に、とっくにくたばってたんだ……今の俺は、そいつの抜け殻……地べたに取りかれた、何もない、空っぽなだけの男だ……」



「…………」



 懺悔ざんげするような、救いを求めるようなジェッツの言葉に、けれどサイハは何も応えない。


 この男の言うとおり、ジェッツには何も、、ないのだ。

 慰めも、叱責しっせきも、どんな言葉も、その空白を埋めることはできはしない。

 ならばサイハに、これ以上口にすべきことは何もなかった。



「……ふんっ……こんなときだけ、物わかりのいい、チンピラだ……気に入らんよ、尚更なおさらに……」



 そんなサイハを見て、ジェッツが鼻で笑った。


 そして、唐突に。



「ああ、そう、だな……――それなら、最後に一つ、ゲームをしよう……」



 そう切り出したジェッツの手元から日時計が消えていることに、サイハが気づくより早く。


 ドスリと、サイハの脚に鋭い痛みが走った。



「う……っ?!」



 突然のことに、サイハは思わず片膝を突く。


 右の太股ふとももに目をやると、そこにはバタフライナイフが突き刺さっていた。


 もはや立ち上がる体力もないジェッツに、そんな奇襲は不可能なはず――



「――……ルグントか!? まだ、こんな……っ!」

 何が起きたかを予感して、サイハがうなった。



「今更、種を隠す必要も、ないな……そいつが、ルグントの、第二の権能……〝隠遁いんとん〟だ……」



 最後の攻撃手段であるはずのそれを、ジェッツはあえて子細にサイハへ聞かせる。



「〝隠遁それ〟を発現中の、ルグントは……何ものだろうが、、、、、、、感知できない、、、、、、……人間の五感にも……〈解体屋〉の、〝蒸気妖精ノーブル検出器〟にもだ……――奴には、ナイフを三本、持たせた……。最後まで生きてりゃ……お前の勝ち。そうでなければ……俺の勝ちだ……」



 ジェッツが熱に浮かされるように、カッと目を見開く。血走ったその双眸そうぼうに、サイハの姿を焼きつけて。



「お前が、俺を差し置いて……〝流れ〟を、作りやがるというんなら……〝渦〟の中心に立つ男だと、いうんなら……これで、確かめさせろ……。そうすりゃ俺も、初めて……諦めが、つく……」



 ジェッツの言葉が終わらぬうちに、サイハが膝を突いたまま身体を真横にひねった。



 ……ドスリッ!



「うっ、ぐっ……!?」



 サイハの左腕に二本目のナイフが突き立つ。

 じっとしていたなら、肺を一突きにされていた軌跡だった。



「ふん……勘のいい、野郎だ……」



「ジェッツ……そうまでして……! そうまでできる意地があったんなら……もっと、ましな十年も……あったはずだろが……っ!」



日時計ルグントを、拾ったとき……俺は俺の人生を、復讐ふくしゅうささげたんだ……悔いは、ない。誰にも、否定させん……帰る家を、なくした俺の……これが、できるたった一つの、ことだった……」



 眠たそうに項垂うなだれて、かすれた声で受け答えするジェッツ。

 そこには一片の迷いもない。



「……御託は、もう、いいだろう……――次で、決着だ、サイハ……」



「………………」



 ジェッツとはこれまで、因縁を感じ続けてきたサイハである。

 今更、和解は望まない。


 ただ、この男をここまで突き動かしたものが何だったのか……それだけは知っておかなければならないと。


 そしてサイハは、改めて自分とこの男が似た者同士であったのだと理解する。

 鏡写しのようにそっくりで、正反対で――それゆえに相容あいいれぬ者同士だったのだと。


 答えは、得た。


 ならばもう――――――やることは、決まっている。



「………………」



 いつかと同じ、ナイフの刺さった身体を引きずり、立ち上がり……


 ……サイハが、拳を構えた。



「……。…………。………………………………………………こいよ、ヘビ野郎……」



 沈黙と、

 心臓の鼓動と、

 乾いた荒野の、風の音――





















 ――――――――――――――――――――――――――――――――そして、





















 ……ビシャッ。


 その権能、〝隠遁いんとん〟によって知覚を逃れたルグントのナイフが、サイハの首をき切った。


 が。


 それは〈隠遁いんとん公〉が狙い定めていたものよりも、はるかに浅く――



 ――ゴスッ!



 刹那を挟み、ナイフと交差したサイハの右拳が、ルグントの顔面を正面から打ち抜いた。



「……っ……」



 ドサリッ……。



 仰向あおむけに卒倒した〝顔のない男ルグント〟の手から、血濡ちぬれたナイフがこぼれ落ちる。


 そして、この場に最後まで立ってみせたのは――――――――――サイハだった。



「…………。…………ああ………………そうかい……」



 ジェッツが納得するように、表情を緩めた。


 震える手を、ボロボロになったスーツへ伸ばす。


 取り出したのは、先の激戦中に握り潰した最後の葉巻。


 それを口にくわえると、ジェッツは上手うまかないガスライターをガシュッ……ガシュッ……と何度もやって、血の染みた葉巻に、やっとのことで火をける。



「……………………………………………………………………ふぅーっ…………」



 不味まずいと知っていながら、人けと貫禄かんろくづけと中毒とで止められなくなっていた紫煙を、今だけは美味うまそうに吸って。


 日食の闇に閉ざされた空をぼんやりと眺めてから、ジェッツは、倒れたままでいる秘書の男を見た。



「……。……ルグント……悪かったな……こんな操者ドライバが、お前の主人で……」



「……何をおっしゃるかと思えば」

 大の字に倒れているルグントが、それでも声だけは秘書然とさせて。

「この〈隠遁いんとん公〉ルグント、主の悲願を成就できなかった無念こそあれ……――貴方あなたとともに歩んだ十年を悔いたことなど、ただの一度もありはしません」



「………………」

 それを聞いたジェッツは、しばし驚いたふうで目を丸くしていた。



 これまでただの道具、ただの部下としてぞんざいに扱ってきた主従関係。

 嫌われることが大前提の十年を歩んできたジェッツにとって、ルグントのその本音はひどく意外なものだった。



「…………ああ、そうか……お前が……お前だけが……ずっと俺と、同じ場所にいてくれていたんだな……」



 ふっと、そんなことにすら気づけなかった自分を、ジェッツは笑った。



「今更だが、礼を言う……世話になった、ルグント……」



勿体もったいないお言葉です、ジェッツ……。…………――それでは、私は、お先に…………失礼します……」



 ルグントの身体が、淡い光に包まれる。

 ヒトの形を失って、小さな日時計へと姿を変えてゆく。



 ……ポキンッ……。



 透明な、澄んだ音を立てて。

 真っ二つに割れたその〈蒸気妖精ノーブル〉は……それきり二度と、しゃべることも輝くこともしなかった。


 ふぅーっ……と、ジェッツが長く細い紫煙を吐く――――友を、弔うように。



「…………ああ……これで、本当に……独りっきりだ……」



 ジェッツが、不思議な表情を浮かべてサイハを見た。


 無表情のような、微笑ほほえんでいるような……


 サイハがこれまで、誰の顔にも見たことのない表情だった。



「……! ジェッツ!」



 そしてサイハが、〝止めなければ〟と直感して前に踏みだし、

 けれど、脚の傷でふらりと倒れた直後。




               足元が、グラグラと揺れた。




 サイハの見やる先で、慰霊碑が傾く。


 地面がゆがみ、陥没してゆく。






 ジェッツは、サイハが追いつくとっくの前に、なし遂げていたのだ。


 ルグントの最後の力を振り絞って。

 彼の悲願であった、大深度〈鬼泥岩きでいがん層〉をさえ貫く、深い深い奈落の穴を。


 日食が終わり、第二の月が離れてゆく。


 木漏れ日のように差し込んだ陽光に照らされて、いっそ清々すがすがしくさえも見える表情で、ジェッツが最後に、一言だけ告げた。





















「――――――――――――――――――――――――――あばよ、モグラ野郎」





















 そして……



 せきを切ったように、ガラガラと音を立て……



 大地が、崩れ落ちていった……

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