5-5 : 〝ブチリッ〟
四人目の人物がこうもり傘から雨粒を落とし、床に倒れた扉を革靴で踏んだ。
「本日は
「……あー……ここって喫煙オーケー? それとも禁煙? ここで吸ってもいいか? いい? よしいいなありがとうすごくいい店だ」
誰の同意も得ないまま、ガシュ……とガスライターで葉巻に火をつけ。
「……ふっー……。……あぁーっ……生き返る……」
「お待ちしておりました、
相手が人心地着いたのを見計らい、そして秘書の男はきっちりと頭を下げながら、〈ぽかぽかオケラ亭〉にジェッツ・ヤコブソンその人を迎えた。
「ん、ご苦労さん」
ふぅーっと秘書の男へ紫煙を吹きつけながら、ジェッツが
「やりゃできるじゃんかよぉ。
「お
ジュウッ。
それは、ジェッツが火の
「……っ……CEOっ……こ、れは……っ」
「なぁ……なぁなぁ、なぁー?
「……申し訳、ありませんっ……処分は、後ほど、謹んで……っ」
葉巻を押しつけられながらも、秘書の男は動じずに受け答えする。異常な光景だった。
「あぁ……まいいや。それより用件を進めよう。企業のトップは暇じゃあない」
ジェッツが唐突に、カウンターを振り向いて。
「そうですよねぇ? クマ社長?」
ヘビのように鋭い目が、クマ社長の丸い目を真っ
「ジェッツ……わしに何の用やんな」
「ん? んー……あぁ、ここってあれか、食堂なの? へーっ、ふーん……」
ジェッツはクマ社長を無視して、今度はメナリィのほうをじっと見る。
「お姉ちゃん、お勧めは?」
「え、あ……お勧めは〝モグラコロッケ〟です、けど……」
「ほぉー……ああ、だいじょぶだいじょぶ。飯はすませてきてる。お構いなく、いやほんとに。〝本日閉店〟って外にあったのは見えてたんだ。蹴破ったのはまぁ、演出の一環なわけだが?
ジェッツが一息に
天井に向けて、ジェッツがふぅーっともう一度紫煙を吐き出す。店内は
そのまま…………ギョロリッ。
ジェッツの血走った目だけが、二人を
「…………エーミール女史。あの
それはまるで、空中を漂う煙すら停止するような。
胃がキリキリと
「……。……何の話をしよんね――」
「ああ、そういうのいいっすよ? クマ社長。お互い茶番はそろそろ
背もたれに寄りかかり、秘書の男が向かいにいるのも構わずジェッツが両脚を投げ出す。
「クマ社長。あんたのこと、この数日
「相変わらずヘビみたいに物陰でチョロチョロしょんのが得意やんな、ジェッツ。ほんで? その何とかいう姉ちゃんと、あんさんが何だ言うねんや?」
「あら、まだ
ジェッツが身振り手振りで、ペラペラと
「先日、うちに
あくまで営業スマイルを浮かべて事情を語るジェッツであったが、言葉の端々で
「知らん言うたんが聞こえんかったんけ?」
ジェッツのヘビ
クマ社長の小さな目は笑っているが、蓄えた
「おー怖……あんたに
わずかに首の角度を変えると、ジェッツはメナリィのいる方向へふぅーっと紫煙を吐いた。
「……はっ……はっ……!」
メナリィが、顔を真っ青にしていた。
よろりと足元すら落ち着かない。
ジェッツの尋問に
「メ、メナリィ……! 大丈夫け?!」
クマ社長がメナリィを抱き寄せる。
それを見ていたジェッツが、すべてを察して目を細めた。
「……オーゥケーィ。グッジョブ、すばらしい。エーミール女史との再会は
満足するように何度も
ヘビの
「その様子じゃ、あのクソアマを通り越して
「ジェッツ! おんどれ、そこまで
とうとう堪忍袋の緒が切れたクマ社長が、殺気も
が。
ジェッツのほうは全く動じる様子もなく、名残惜しそうに葉巻に口をつけるだけ。
「……さて。引き揚げだ、ルグント」
何者かの、名を呼んで。
直後、グラリと。
クマ社長の視界が揺れた。
クマ社長の大柄な両脚から、
傾いてゆく世界の中で、クマ社長は背後に、あの秘書の男の姿を見た。
――あんさん……いつから……そこに、おったんね……。
片時も目を
終始テーブル席に座っていた秘書の男が動いた瞬間を、クマ社長は知覚できなかった。
〝なぜ〟……その問いかけが、意識を失ったクマ社長の口から
ジェッツの生爪のない、黒鉄を埋め込んだ指先が伸びて……
……やがて、冷たい雨が上がっていった。
◆ ◇ ◆
「――はっ……! はっ……!」
チュンチュンと、小鳥が鳴くばかりの街並みを、勇んで走り抜ける人影があった。
まだ夜気の残る路地には、昨夜の雨の忘れ形見のように霧が漂う。
「できた……っ、できたぞ……!」
上がる息に、弾む声。
「やっと、完成した……! あいつらのお陰だっ……十年がかりの、オレの夢……!
転びそうになりながら、しかし彼は決して足を緩めない。
向かう先は、〈ぽかぽかオケラ亭〉。
そして店の裏口を、勢いよく開けて――
「――メナリィ! 聞いてくれ! お前に、見せたいものが――」
サイハが、目にした先。
壊された正面玄関から、霧混じりの風がサイハの頬を
「……ぇ……」
サイハが、喉を鳴らす。
忘我の淵で漏れたそれは、声にすらならなかった。
……〈ぽかぽかオケラ亭〉には、争った跡が残っていた。
蹴破られた扉。
散乱した椅子。
棚から落ちた食器の山。
そして荒れ放題になった店内のその片隅で、クマ社長が頭から血を流して床に倒れ、うっうっと声を殺して泣いていた。
見違えてしまったその場所に、しかしメナリィの気配だけが、どこにも残っていなかった。
――【来い。〈
かつてサイハたちが皆で夕食を囲ったテーブルに、クマ社長の血をインク代わりにして。
その書き置きと、葉巻の吸い殻が転がっていた。
「…………………………………………………………」
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
……………………………………………………………………………………ブチリッ。
何かが、切れる音が聞こえて。
サイハの目にはもう…………何も見えてはいなかった。
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