暁の魔剣

綿野 明

一 黒衣の魔術師



 空に漆黒の亀裂が走ったのは今から六年前、緑暦三千二百四年のことだった。まるで湖面の氷が割れるように晴れた冬の青空へ大きなひびが入り、そして漏れ出す黒い闇の中心から、異界の竜が現れた。


 闇そのもののような黒い体躯を持つ巨大な竜は地を震わす産声の咆哮を上げ、そして黒い炎を吐いた。その一息で、小国ではあるが魔術文化豊かなルダンは灰燼に帰した。ルダンが地図から消される間も無く、隣国レンドも溶け消えた。美しい布織物と宝飾の国だった。世界に激震が走った。これは予言されていた終末の訪れだと、人々は口々に囁き合った。


 そして竜は「終末ファゲル」と呼ばれるようになった。


 ファゲルはいくつもの国をその炎で黒い火山硝子へと変えながら北上し、大国グィアが誇る世界最大の湖、アル湖のほとりに落ち着いた。喉元に迫った邪竜にグィアの王は大軍を差し向けたが、魔術も大砲も爆弾も艶やかな闇色の鱗に弾かれ、ことごとく消し炭にされた。否、大地ごと黒き炎に溶かされ、消し炭すら残らなかった。


 そして抵抗と混乱、絶望の果てに、人々が縋ったのは宗教だった。王は創世の女神が生み出したとされる聖剣シルレインを、大神官らによって選ばれた一人の若者に与えることにした。誠実で見目麗しい、救世の勇者――人々へ最後の気休めを与える、生贄の勇者が誕生した瞬間である。





「それでハイハイと頷いて偶像役を引き受けたってわけ? 勇者なんて名目だけの実質生贄で、死ぬと分かりきっていて旅立つと? 救いようのない馬鹿だね君は」

「……誰だ、お前は」


 勇者リードは困惑に眉をひそめた。彼はいま盛大な見送りを背に生まれ育った王都を発ち、橋を渡って平原を横切る街道に差し掛かるところだ。どうか世界をお救いください勇者様、と追いかけ纏わりついてくる懇願の声をようやく振り切ったかと思えば、ふらりと木の陰から現れた黒い人影。


 真っ黒な毛並みの馬を引いたその青年は一体どんな染料で染めたのか、夜の闇のように光を反射しない奇妙な漆黒のマントを着ていた。否、青年とは言ったが、正確に言うならば目深に被ったフードと長く垂れた黒髪で顔は見えない。声からして青年と思われる、というだけだ。


「絵に描いたような美しい金髪碧眼に、装飾過多な鎧と純白のマント……まさに飾り立てられたハリボテの偶像って感じだね」


 声からしてどうやら若く、そして失礼な人間らしい。


「……何者かと訊いている」


 尋ねるが、男は声音に笑みを含ませてこう言った。


「ねえ。君の聖剣と僕の魔剣、どっちが強いか勝負しないかい?」

「しない」


 顔が見えないせいか、鬱陶しさよりも不気味さの方が勝る。いい加減正体を暴いてやろうと睨み上げれば、男はフードの作る影の中からにやりと暗い笑みを覗かせた。長い前髪の間に光る銀色の瞳。一瞬垣間見えて、すぐに隠される。やはり、知らない顔だ。


 考えて、無視することに決めた。王に与えられた立派な体躯の白馬ヴァトに乗って、ひとけのない街道へ駆け出す。流石は城で訓練された馬だ、鞍やら何やらをけばけばしく飾り立てられても全く不機嫌になっていないし、初対面のリードの言うことも難なくきいてくれる。こんな時でなければ、素晴らしい馬を手に入れたと興奮しただろうに。


 しかし黒マントの男の馬も、どうやらヴァトに負けず劣らずの駿馬らしい。軽やかな足取りでぴたりと後を追ってくる。というか、なぜしつこく後をついてくるのか。敵意こそ感じないが、正直言ってかなり気持ちが悪い。


 街が見えない場所まで来たところで、リードは馬を降りると装飾ばかり大仰で実用性の皆無な全身鎧をむしり取って茂みに隠した。少し迷ったが刺繍だらけの重たい服も脱いで、用意していた軽装に着替える。不審な黒尽くめの男がうろうろと歩き回りながら口を出してくるのを、話半分に聞き流す。


「清廉な偶像様でも流石にそのガラクタは捨てるんだ。そこまで愚かなお人好しではなかったようで安心したよ」

「この重量では馬が気の毒だ」

「おや、そっちか」


 軽薄な口調だが、教養を感じさせる発音だ。声は低めで艶がある。背はリードよりも僅かに高く、マントの膨らみからして腰に剣を佩いている。彼の言葉を信じるならば魔剣。ブーツは上等な革製で、衣服の縫製もきちんとしている様子だ。


 上から下まで視線を走らせ、腕を組んで問う。


「追い剥ぎではなさそうだが、何が目的だ?」

「君について行こうかなと思って」

「は?」

「僕、ファゲルを見てみたいんだよね」

「終末の竜を……見たい?」


 思わずぽかんとしていると、男はフンと鼻を鳴らして「間抜けな顔だ」とせせら笑った。


「僕はユーン、魔術師だ。世界の謎に……今は特に異界から現れし未知の生命体ファゲルに興味がある」

「魔術師……?」


 剣と思わしき布の膨らみを見ながら眉間の皺を深くすると、ユーンと名乗った男は片眉を上げてばさりとマントを払って見せた。中まで黒尽くめだ。腰には真っ黒い鞘に収められた細身の長剣。柄には緻密な魔法陣の彫り込まれた大きな宝玉。


「魔術師だけど、剣も使う。用心棒に守ってもらうのは趣味じゃないんだ」

「はあ」

「これからよろしく」

「いや、困るんだが……」

「流石にアル湖へ向かう馬車も隊商もいないからね。いやあ助かったよ、一人で夜営は大変だもの」


 つまりこの男は竜に対する好奇心を募らせ、自ら破滅の地へ出向こうというのか。とても本当とは思えないし、本当だとしたら正気とは思えない。


「死ぬぞ」

「かもね」

「馬鹿なことはやめておけ」

「自分の意志ですらない君ほど馬鹿馬鹿しくはないさ」

「私には聖剣がある。だが、お前は違うだろう。お前のことまで守ってやれるかわからんぞ。私とて、ファゲルと差し違えることになるかもしれん」

「え?」

「ん?」


 リードの鮮やかな青い視線と、ユーンの見開かれた銀の視線が交差する。驚いた様子の魔術師だか魔剣士だかに、勇者が眉をひそめる。


「何だ?」

「……国王が君を体裁よく偶像に祭り上げてさ、いっときの気休めとして犠牲にしようとしてるのに……気づいてないわけ?」

「陛下はそうだろうな。だが剣は本物だぞ」

「それは……本物の聖剣って意味?」

「初代国王に与えられた女神の聖剣シルレインだ。あらゆる邪な魔法を切り伏せる」

「……マジで?」

「ああ。実際に騎士団と王宮魔術師達による検証実験が幾度も行われたが、その力は紛れもなく」

「いや、そうじゃなく……人間の作った優秀な性能の魔剣じゃなくて、本当に、神の与えた聖剣だと思ってるわけ? 国王のことは信用してないのに?」

「聖剣を保管していたのは王宮ではなく神殿だぞ」


 なんて冒涜的な思考をしているんだ……とリードがため息をつくと、ユーンは長い前髪の間から信じられないと言わんばかりの丸い目でまじまじと彼を見つめた。


「うわ……本物だ」

「ああ、その通りだ」

「この人、本当の本気で信じてるんだ……」


 丸い目が半月型に細められ、ユーンは「ふふ、ふふふ……」と声を出して笑い始めた。リードは荷物の整理を終えて馬へ跨り直し、体を二つ折りにしてくすくすやっている失礼極まりない男を見下ろした。


「お前の思想がどうであれ、私は他者の信仰を嘲笑うような人間と旅はできない。諦めて街へ帰れ」

「あ、嫌だな待ってよ……もう笑わないからさ。ふふ、いや、信仰に縋る側ならともかく、この終末の時代に縋られる側になって、生贄にされて、それでも神を信じてるなんて、ふふ、純粋な人なんだなって思っただけさ」

「今から戻れば、暗くなる前に街に着くだろう」

「いや、待ってってば。だって君はその聖剣でファゲルを倒すか刺し違えるかするんだろう? 僕はその前にかの竜をこの目で見ておかないといけないんだよ。奴を見ずには死ねないって僕の知的好奇心が訴えてる」

「知るか。帰れ」


 それからしばらく馬上で押し問答を繰り広げたが、結局彼は何を言われてもニヤついた軽口ばかり叩いて少しも譲歩せず、リードの後をしつこくついてきた。そうしているうちに日が傾いてきて、獣のうろつく夜の平原の闇の中にひとり放り出すわけにもいかず、勇者は怪しげな自称魔術師を天幕に泊めてやり、夕食も半分わけてやるはめになった。


 まさかこの調子でどこまでもついてくるのではなかろうかと、とても嫌な予感がした。





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