その恋は正しく終わって、その愛は間違ってはじまった

つかさ

第1話

 午後9時。

 真っ白な制服にエプロンをかけた私は額に滲む汗を拭きながら、だいぶ遅めの夕飯作りに勤しんでいる。シャー、シャーと等間隔に音が鳴るようにフライパンの上で香ばしい匂いを放つ牛肉と野菜を炒める。

私はこの時間が好き。目も耳も鼻それとたまに舌も、目の前の料理に夢中になってくれるから。余計な考えごとをする余裕をくれないから。


 人それぞれ、自分の居場所というものがどこかにある。

 自分の部屋、学校の教室、ステージの上、グラウンドの中央、街中のゲームセンター、夕暮れの河川敷、愛しい人の隣。

 家では片親の母と喧嘩三昧。つまらない高校はサボりがち。いろんなことがどうでもよくなって友達も趣味も放り投げた私にとっての居場所がここ。


ガチャリと扉が開く音がした。

私はその音に合わせて、コンロの火を止める。オイスターソースの香りが食欲をそそりそうな青椒肉絲を皿に盛り付けて、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。家主が手狭なダイニングに現れると同時に料理と冷たいビールを提供するための無駄のない動き。


 むっ……これは。


「ほら、もう少しでベッドだから」

「あーっ、ここひんやりして冷たそう〜。せんぱい、大丈夫れす。わたしここで寝れますから」

「ここは廊下。バカ言ってないで、ほら……」


 ぐいっと下に引っ張られて形の崩れたスーツを着ているおにーさんと、ぐでんぐでんに酔っ払って袖にしがみついているおねーさんがもつれそうになりながら入ってきた。


「また、泥酔するまでたくさん飲んだんだ。おねーさん弱いんだから止めてよね、って言ったのに」


 料理をテーブルに置いて、すっかり冷めた気持ちで責めるとおにーさんは苦笑いを浮かべる。


「いや、こいつも仕事が大変そうだからさ。気が済むようにしてあげたくって」

「本音は?」

「すみません。酔ったこいつの勢いに勝てませんでした」

「……とりあえず、ベッドに寝かせてあげて。後は私が見とくから」

「いつも、ごめんな」


 おにーさん、おねーさんと呼んでいるけど、私たち3人は家族でもなんでもない。そんな存在に思えるからそう呼んでいるだけ。


 おにーさんは私の母親が派遣社員で働いているとこの社員さん。

おねーさんはおにーさんの高校時代の後輩で、別の会社の人。社会人になってから偶然再会してから、時折こうやって飲みにおにーさんを(無理矢理)誘っている。

そして、私はそんな2人の間になんか挟まっているお邪魔虫。

側から見れば2人がいい感じなのはよくわかる。


おにーさんの家に入り浸るようになったのは、忘年会で酔い潰れた母をおにーさんが介抱してくれた時から。ウチから歩いてこれる距離なので、うまいこと言って合鍵もらって料理&掃除担当として居座らせてもらっている。母からは放任されているというか、むしろ公認されている。最初はおにーさんを納得させるのに苦労したけど。


どうせ飲んだくれたおねーさんの愚痴に付き合ってたいして食べてないだろうと踏んで作った青椒肉絲のお皿はあっという間に空になった。


「おにーさん。缶ビール飲み終わったらそこに置いとい……」


 流していた蛇口を閉じて振り返ると、子供みたいなかわいい寝息をたてて眠るもうすぐ30を迎えようとしているくたびれた人がいた。

 あーあ、寝るときはベットで寝てほしいのに……まぁ、今は占領されてるからソファしかないけど。

 寝室からブランケットを持ってきてくたびれたスーツの上にかける。


 ということは、今この家で起きているのは私だけ。

 それはつまり、この2人に何をしてもバレない。私だけの秘密にできるっていうこと。

 このよこしまで道徳的じゃない歪な気持ちを。


 私はおにーさんとおねーさんが好きだ。


 男の人も女の人も好きになるなんてことは、これが生まれて初めてだった。しかも、高校生と社会人。

 それが普通のことなのか、良いことなのか、そんな他人目線の判断基準を多少は考えることもあったけど、私にとってこれは、世間一般が思い描くような年相応の青春をゴミ箱に捨ててまで追いかけたいものだった。

 でも、結局現実は現実で。どれだけ熟れてももぎ取られてはいけない果実が2つ、私の心に吊り下がったまま。



 明日は土曜日。学校は……まぁ、適当な時間に行けばいいか。

 1つシミのついたエプロンを洗濯カゴに突っ込んで、私はベッドで寝ているおねーさんの隣にあるソファに向かう。

 身をかがめて顔を覗き込んでみる。艶やかな黒髪に窓から差し込む月明かりが溶け込んで淡く輝く。端正な顔立ちには幼さもわずかに残っていて、学校の先輩と間違えてしまいそう。なんて言ったら、喜んでくれるかな。

 後ろ髪を引かれ思いでそっと顔を離す。そうするだけの理性のストックはまだ持っていた。

 うん。おねーさんはぐっすりと気持ちよさそうに眠ってる。これなら大丈夫そう––––


 あれっ?


 体のバランスがぐらりと斜め前に崩れる。その方向にあるのはすっかりしわくちゃになったベッドで、もちろんすでに先客が1人。

 覗いていた顔がさらに近くなる。かすかに残る香水の匂いと、たっぷり残ったお酒の臭い。


「……えらい子だね」

「おっ、起きてたの?」

「だって、化粧まだ落としてないから」


 そう言うおねーさんの整った顔をよく見ると、たしかに眉も頬も唇もほのかに彩られていた。

 別に社会人なのだから、仕事へ行くために化粧をするのは何ら不思議なことじゃない。

 だけど、それにしては少しばかり艶やかだ。頬や唇なんかは近づかないとわからないかもしれない。それでも、近くに寄れば気づけてしまう。

 おねーさんのちょっとした本気に。


「先輩にはうまいことスルーされたけど、マイちゃんには効いてるみたい」

「……え?」


 おねーさんの口から出た名前が私の名前であることを理解するのに数秒の時間を必要とするほど、私の頭の中は混乱していた。


「私のこと、好き、なんだよね?」


 思わず身体の中から熱が溢れていく。

 首筋から背中からしっとりと冷たい汗が流れるのがわかる。

 心臓が校庭を全力疾走した後みたいに跳ね上がる。

 正面なんて向けるはずもなく、目の前の人がどんな顔でこっちを見ているかはわからない。


「そんなこと……」

「隠していてもわかるよ」


 2人で寝るには少しだけ窮屈なベッド。わずかにはみ出た背中の感覚がまるで断崖絶壁にいるように思わせてくる。

 この気持ちは伝わってはいけない。2人の邪魔をしてはいけない。だから、誤魔化し通さないと––––


「マイちゃんのこともずっと見ていたから、気づいちゃった」


 息が止まる。

 今の私の湯だった脳みそは、その言葉を一瞬にして都合の良いように変換してしまう。

 そして、また数秒遅れて、気づく。


「私のこと“も”?」


 そこでようやく想い人の顔を見る。月は雲に隠れて、暗闇に慣れてきたじぶんの両眼で捉えた輪郭の中には、いつもみたいな明るく無邪気そうな笑顔がうっすらと浮かんでいた。


「そうだよ。私もマイちゃんと同じ。先輩のことも好きだから」

「えっ……」

「2人とも好き。一応、先に惚れたのは先輩の方だよ。でも、マイちゃんも一目惚れしちゃった。かわいいし、しっかり者だし、私に似て捻くれているとこも。


 ここまでくると、私はもう眠っていて、これが夢なんじゃないかと思えてきた。

おねーさんと両想いだったこと、ライバルだったこと、全部バレていたこと、一気に明かされる。おまけに一目惚れだなんて……。さすがにパンクしてしまいそう。 


「じゃあ、証明して。少なくとも私が好きってことくらいは」

 これは虚勢なんだろうか。それとも、


「いいよ」

「んむっ……」


 覆うように腰へと回された右手の温もりと、締め付けるように寄せられた身体の猛熱と、張り付いた唇から伝わる呪いみたいな甘い毒が、一瞬にして思考や感情をドロドロに溶かす。

 おまけに今まで私を縛っていた罪悪感や背徳感が甘い蜜になって喉の奥へゆっくり染み込んでいく。

 私の奥底に入り込むように見つめるおねーさんの瞳は、こわいほどに輝いていて、ため息が出るくらいきれいだった。


「ぷはぁ……。もう……、わかったから」


 気持ちとは裏腹にこういう返ししか出来ないのが、捻くれてるっていうことなんだろう。


「ちょっと刺激が強すぎた?」

「別に、これくらい」

「ふふっ。そっか」


 絶対にバレバレな私の強がりを、おねーさんは友達に向けるような無邪気な笑顔で迎える。


「ねぇ。一緒に先輩を落としてみない?」


 そして、そのままの表情で、まるでいたずらを思いついたようにおねーさんは言った。


「みんなで両想いになっちゃえば良いんだよ。もし、そうなれなくても私とマイちゃんは両想い。保険も効いてて問題なし」

「そういうのって常識的に良くないんじゃ……」

「すでに私たちの関係が常識的に良くないんだけどね」

「それは……」


 そう。私はすでに片足どころか両足を踏み込んでしまっている。


「それにさ。もう面倒なんだよね。良い悪い、正しい間違い、許されてない、常識的じゃない、そんな他人目線の基準なんて。私は自分の物差しで始めて、終わらせたいの」


 いろんなことが経験浅い私にはその言葉の重みをわかりきれない。

 だけど、自分の手ではじめてしまったのなら……ううん、違う。まだ。


「あのさ。もう一回、して」


 一度、受け入れてしまえば、あとは容易い。

  痺れるような熱さが身体中を駆け巡る。


 これではじまった。

 だから、最後まで……。


 どうか、「はじめなければよかった」なんて後悔しませんように。

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