珈琲屋さんの気になる彼は私以外にも笑顔を振りまく

愛上夫

はじまりの珈琲

 前書き


 この作品をお手に取っていただき、誠にありがとうございます。


 私の2作品目となります。珈琲に合うようゆったりと落ち着いた作品にしてみました。どうぞ珈琲を片手に読んでいただければと思います。



◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 ……気が付くと、いつもそこに寄っている。



 ありふれた町の、ありふれた喫茶店。


 だけど私にとってそこは、唯一無二の場所で……。



 この世で一番、落ち着ける場所だった。



 ……カランッ。



「こんにちは~」



 華やかな笑顔で、私は挨拶をする。



 扉を開けて鳴る呼び鈴。


 鼻に届く珈琲の香り。


 ふつふつと湧きたつお湯の音。


 どこかの国のクラシック調の音楽が、静かに店内を満たしていた。



 そのどれもが、私にとっては心地よくて……。



 ……でも。



「あぁ、いらっしゃい」



 そう言った彼の、穏やかな笑顔が……一番落ち着いた。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 春の陽気が訪れた、ある晴れた日の朝。



 私は学校へと続く坂道を、少しだけ重い足取りで歩いている。



 平均的な身長に、出るところも出ていない普通の体つき。


 冴えない顔つきに、赤みがかった朽葉色くちばいろの髪。


 それが私、湊萌香みなともかだった……。



 今は5月。高校に入学してひと月も経つというのに、未だに友達は0人。その証拠に、周りは賑やかに、やれ昨日のテレビがどうだの彼氏彼女がどうだのと、談笑しながら歩いているというのに、私の周りには誰もいない。



「……はぁ」



 入学式の自己紹介であがってしまって、言葉を噛みまくったのが原因だろう。「気弱」そんなレッテルが貼られた違いない。


 その後も何人かの生徒が話しかけに来てはくれたが、ろくに相槌を打つことも出来ず。


 後ろの方から「もういいんじゃない」そんな言葉がちらっと聞こえた時は、この性格を呪いたくなった。



(……高校生になったら、少しはマシになるかと思ったんだけどな)



 中学生の頃もこんな感じだった。


 周りからは暗いだの、愛想が無いだの言われ続けて3年間。その間に根付いてしまった根暗根性は、どうやら高校生になっても抜けないらしい。


 高校生になったら自分を変えようと、思い切って地元から遠く離れた学校を選び、一人暮らしを始め、今度こそ友達を作ろうと意気込んだものの、結果は惨敗。結局、あの義母から逃げるような形になってしまった。



(……うっ)



 ……嫌な顔を思い出した。



 義母は嫌いだ。いや、嫌いになったの間違いか。



 私がまだ小さな頃に、私を産んでくれた母が病気で亡くなったそうだ。


 そうだ、というのは本当に小さかった頃で、その時の事を私は覚えていない。


 それから暫くは、父が私を男手1人で育ててくれたのだけれど、やはり母性というものが恋しかったのだろう。私が小学2年生の頃に、あの義母と再婚した。


 最初の頃は優しかった。私を本当の娘のように扱ってくれて。私も懐いていたし、父もそれを見て安心した様子だった。



 けれど再婚してから2年後、父も病気で亡くなってしまった。


 それから義母は途端に冷めて、私に見向きもしなくなった。結局私は父のおまけだったのだろう。優しくしてくれたのも、父のご機嫌を取る為。


 それから私は、優しくしてくれても最初の内だけではないかと、人と関わりを持つのを恐れるようになり、そして今に至る。


 別にそれを義母のせいにする訳でもないし、出来ればこんな性格は何とか改善したい。けれど義母の、あのヒステリックで甲高い声は本当に耳を塞ぎたくなる。


 何故父はこんな女と再婚したのか? もしかしなくても私にしたように、父の前でも猫をかぶっていたのだろう。


 だからこうして一人で暮らしていても、別段寂しさを感じる事は無い。あの家にいるよりも数倍マシである。


 義母も厄介払いが出来ると思ったのだろう。私がこの町に住むと言っても大して反対もせず、必要最低限の生活費だけ与えて、さっさと出て行けと言わんばかりに荷物を今住んでいる部屋に送った。見送りにも来やしない。



「……ふぅ」



 ……考えていたらまた、陰鬱な気分になってくる。


 いけないっ! と、私は首を横に振ってその嫌な気分を振り払う。こんな事を考えてしまうから、いつまで経ってもこの根暗根性が抜けないのだ。



「よしっ!」



 くよくよと考えるのはやめよう! そう気合を入れて声を出すと、周りを歩いていた生徒たちがその声に反応して、こちらに目を向ける。



「~~~~っ!」



 私は大勢の視線を受け、恥ずかしくて俯いてしまう。決意はしてみたが、道のりは長いようだ。



 その視線から逃げるように、私は坂道を駆けあがっていった。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「…………」



 学校に登校してきた私は教室の前に立つと、その扉を開けるのに一瞬躊躇する。この学校に入学してから、ほとんど毎日こんな感じだ。



「あはははっ、それでさぁ~」


「え~、それ本当?」



 教室の中からは、そんな楽しく話す声が聞こえてくる。


 ここで私がこの扉を開ければ、その楽しそうな雰囲気を壊してしまわないだろうか? そう考えてしまうと、今すぐ帰りたくなった。



 けれど――。



「何してるの?」


「……え?」



 後ろから声をかけられる。酷く眠たげな、男子の声だった。



「教室、入れないんだけど」


「あ、う、うん。ごめん……」


「…………」



 そう謝って私は退くが、その男子は何も言わずに扉を開け、教室へと入っていく。



 その男子の名前は霧島史郎きりしましろうくん。


 中性的な顔立ちだが、いつも眠そうにしており、髪も寝ぐせが目立つ。


 身長はやや高めだが細身で、ぱっと見女子と言われても信じてしまいそう。



 そして席替えで隣同士になった、無愛想な同級生。



 隣になった時、私は勇気を出して「よ、よろしく……」と挨拶をしたけれど、霧島くんはこちらをちらりと見て「うん……」と返すだけ。興味が無いようだった。


 それから数週間、隣で霧島くんを見てきたが、無愛想ここに極まれり。笑ったところなんて少しも見たことがないし、きっとこれからも、そんな時は来ないだろう。



 それはともかく、折角扉が開いたのだ。私は悪いとは思いながらも、霧島くんの背中に隠れるようにして、自分の席に向かう。


 するとそれに気が付いたのだろう。霧島くんは立ち止まるとこちらに振り向き、訝しむように尋ねる。



「……何?」


「い、いや、隣だし……」


「……そう」



 そう言って霧島くんは、私に興味を失くしたようで、自分の席に着席する。その隣に、私も。



「すぅ、すぅ……」


「……また」


 席に着くとすぐさま寝息を立てた霧島くん。いつもこんな感じだけど、普段は家でどんなことをしているのだろう。



 私は少しだけ、この無愛想な同級生に興味を持った。


 というのも私は、隣になった時から霧島くんに少しだけ、何故だか懐かしさを感じている。



 別に生き別れの兄妹というわけでもなければ、昔遊んだ幼馴染というわけでもない。出会ったのだってこの高校に入学してからだ。それなのに、私はこの無愛想な同級生に、妙な落ち着きを覚えている。



(なんでなんだろう……ん?)



 ふわっと、窓から吹き込んできた風に乗って、霧島くんから香る懐かしい匂い。小さい頃、どこかで嗅いだことのある香り。どこで嗅いだのだろう?


 懐かしくて、落ち着いて……だけど悲しくて、思い出そうとすると途端に涙が出そうになる。



 その原因となっている霧島くんを見る。



「すぅ、すぅ……」


「……はぁ」



 霧島くんは未だに寝息を立てていた……。


 それを見たら何だか馬鹿らしくなってきて、気にしないようにしようと、私はもやもやとした気分をため息と共に吐き出した。


 そして始業を告げる、耳が痛くなりそうな鐘の音がけたたましく鳴り響き、いつもと変わらない、そんな一日が始まった。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「……重っ」



 放課後、私はパンパンに詰まった買い物袋を持ちながら、帰り道を歩いている。


 義母から毎月支払われる生活費は、家賃と光熱費、それにほんの少しの食費だけなので、こうして特売日の日にまとめ買いしなければ、お金を貯めることが出来ないのだ。


 いずれあの家を出て、独り立ちしようと思っている私にそれは痛い。早くバイトを見つけなければ……。


 一応、面接は受けているのだが、はきはきと話せない人はちょっと……。という理由でどこも断られている。友達云々とかだけではなく、生活の為にも本当に何とかしないといけない。



 けれど今はこうして、少しでも節約することしかお金を貯める方法が思いつかないのだから、文句を言わずに荷物を運ぶしかない。



「ああ、でもやっぱり重いなぁ。こういう時、男の人は――」



 ……私はそこまで言いかけて、やめた。父の事を思い出したからだ。



 父と二人で暮らしていた時は、買い物の帰り道は二人で袋を持って歩いていた。


 見上げた父の表情は穏やかで、優しくて……。そんな父を見る私も、きっとそんな表情だったのだろう。父はいつも私を「愛している」そう言ってくれていた。私も、そんな優しい父が大好きだった。 



 私の頭を撫でてくれた、暖かくて大きな手が好きだった。


 私をおぶってくれた、広い背中が好きだった。


 私を愛していると言った、のんびりとして落ち着く声が好きだった。



 ……そして、その穏やかで優しい笑顔が、一番好きだった。



 けれどそんな父は、私を残してこの世を去ってしまった。


 病気が見つかった時にはもう手の施しようが無くて、もって半年、そうお医者様から言われた。


 ベッドに横たわり、寝たきりになる父の姿。痩せ細くなっていく度に、大好きだったその笑顔が陰っていって、見ていて辛くなった。



『うぇぇんっ、お父さん死んじゃやだぁっ!!』



 そして父が亡くなるその日、私はベッドの横で顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。


 泣いてる私の頭を、父はこれで最後だからと、辛いだろうに笑顔を見せながら撫でる。



『……なぁ萌香、これからも、ずっと――』



 そして亡くなる直前、父は私にある言葉を残した。



 けれど私は悲しくて、泣き叫んで……。



 父の最後の言葉を、聞けなかった。



 あの時父は何と言ったのだろう? 考えても考えても、思い出すのは大好きだったあの笑顔だけ。



「……ぐすっ」



 その顔を思い出すと、また悲しくなってきて、私は鼻をずずっと啜った。



 するとその時――。



「すんっ……ん? 何、この匂い」



 ほのかに香る良い匂いが、鼻の中に入ってくる。


 何処からか漂ってきた、香ばしくて甘い匂い。一瞬パン屋さんかな? とも思ったけど、その中には花のような華やかな香りも混じっている。



「それに、何だか懐かしいような……」



 私はその懐かしさを感じる匂いに釣られて、いつもの道から少し外れた。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




 匂いに釣られて少し歩くと、閑散とした住宅街に、ぽつんと1軒の小さな喫茶店があった。洋風の建物で、どこにでもある普通の喫茶店だ。



(あぁ、だから懐かしく感じたんだ……)



 先程から香っていた匂いの正体がわかった。何故懐かしく感じたのかも。



 父が好きだったそれ。いつも飲んでいた。私も1度だけ飲んだことがあるけど、子供の舌に、それは苦すぎて……。そんな事があったから、私はその飲み物はあまり好きでは無かった。



 大好きだった父を思い出させる、懐かしい飲み物。



 ――珈琲だ。



 私はそのお店に近づいて行く。入り口にはコーヒーカップの絵とともに、お店の名前だろうか『Calmate』と書かれた看板があった。前に本で見たことがある。確かスペイン語で、〝落ち着く〟だっただろうか。


 何となく気になって、その看板を横目に、私はお店の扉を開けた。



 カランッ。



 扉を開けた瞬間、心地の良い呼び鈴の音が鳴る。


 そして店内に漂う珈琲の良い香りに、耳に届く静かなクラッシック調の音楽。



 ……あぁ、確かにこれは、落ち着くな。



 その居心地の良い空間に、私は暫し浸る。



「いらっしゃいませ」


「――!?」



 すると私が入ってきたことに気が付いて、カウンターの方から、お店の人が挨拶をする。この空間に浸って放心していた私は、その突然の声に驚いた。



「……あれ、湊さん?」


「え? 霧島くん?」



 カウンターの奥にいたお店の人を見て、私は再び驚く。そこいたのは、制服の上に黒いエプロンをかけた、隣の席の霧島くんだったからだ。


 ただ霧島くんは、いつもは眠そうな目を今ははっきりと開けていて、寝ぐせだらけだった髪も、きちんと整えている。学校の時とはまるで別人だ。



「えっと……霧島くん、ここでバイトしているの?」


「ていうか、ここに住んでる」


「へぇ~。霧島くんの家って、喫茶店だったんだ」


「俺の家っていうより、爺さんの家、兼店かな」


「お爺さん?」



 首を傾げた私に、霧島くんは話始める。


 何でも、霧島くんはバリスタになることが夢らしく、実家を離れて、喫茶店を営んでいるお爺さんの元へやってきたのだとか。だから高校も、この店から通えるあそこにしたらしい。



 何だかいつもよりも、口数が多い気がする。そんな自分に気が付いたのか、霧島くんはこほんっと咳ばらいをすると、話を途中で切りやめた。



「俺の事はどうでも良いんだけど……湊さん、何か頼むの?」


「……え?」


「珈琲、飲みに来たんじゃないの?」


「あ、あ~……」


「……?」


「ご、ごめん……私、珈琲飲めないんだ」



 私はバツの悪そうな声を上げ、素直に珈琲が飲めない事を伝えた。



「……ふぅん」



 けれど霧島くんは、では何でここに来たんだ? とは言わず、何か考えるような仕草をする。



「……何で、飲めないの?」


「え?」


「珈琲……何で飲めないのか、理由を教えてくれる?」



 変わりに霧島くんはそう尋ねてくる。その目は、何故だか真剣だ。でも怒っているようには感じない。



「~~~~っ」



 私はその真剣な視線を受けて、子供っぽいと思われないかと、少し恥ずかしがりながらその理由を答える。



「に、苦いから、です……」


「……そう」



 それを聞いても、霧島くんは表情を変えない。



「えっと、霧島くん?」


「……まぁ、そういう人は沢山いるよね」



 霧島くんは、少しだけ寂しそうに、その言葉をぽつりと零す。


 けれど何か会得したのか、「うん」と頷いて、カチャカチャと手元で何かし始めた。



「え、何してるの?」


「飲んで欲しい珈琲があるんだ。湊さんに、飲ませてあげようと思って」


「……へ?」



 霧島くんは何を言っているのだろう? 今さっき飲めないと言ったばかりなのに……。


 そんな私の視線に気が付いているのかいないのか、霧島くんは手際よく準備を進める。



「あ、お金はいいよ。俺が勝手にやっていることだし。それに、今から淹れる珈琲は店じゃ出さない奴だから」


「え? そ、そう。それなら……」



 試しに飲んでみるのも良いかな。と、私はそれ以上は何も言わず、霧島くんの作業風景を見守った。何だか、凄く楽しそうにしているからだ。



 霧島くんは冷蔵庫からアルミの保存袋を取り出すと、その口を開ける。開いた瞬間、華やかで甘い香りが辺りに広がった。



(す、凄い良い匂い……)



 その香りに、心を奪われそうになる。


 そして霧島くんはその中にある珈琲の豆を、しゃらしゃらと器に移していく。よく写真などで見る、茶色い粒々とした豆。けれど写真で見るよりも、少し色が薄い。



 その豆を、今度は機械の中に入れていく。


 ガガガーッと、小気味のよい音を立てながら、豆が粉状に挽かれていく。そして先程よりも、さらに強い香りが鼻腔をくすぐる。


 今度は我慢が出来ず、私は気になって身を乗り出してしまった。



「どうかした?」


「あ、いや、凄い良い匂いだから……」


「……嗅いでみる?」



 そう言って霧島くんは、粉状になった珈琲豆を私の鼻先へと近づける。



「すんすん……わ、わぁ~」



 花のような香りと、果実のような甘酸っぱい匂いが鼻から入ってきて、脳を刺激する。いつまでも嗅いでいたい。そんな匂いだ。私は暫しその香りを堪能する。


 すると霧島くんは困ったようにこう言う。



「……ごめん、気に入ってくれるのはありがたいんだけど、もう良い?」


「あ、ご、ごめんっ!」



 謝る私を見て、霧島くんは器を離す。私はそれを、少々名残惜しそうに見ていた。



「……飲む時も良い香りだから、少し待ってて」



 そう言って霧島くんは、ガラスのサーバーを取り出し、その上に円錐型のドリッパーを置く。花のような模様が内側に刻まれた、プラスチック製のドリッパーだ。


 そしてケトルを手に持ち、ドリッパーにセットした紙に1回、2回とお湯をかけて濡らす。


 次に珈琲の粉をその中に入れ、ドリッパーの根元を持ってゆすり、粉を平らにならしていく。



「じゃあ、淹れていくよ」


「う、うん……」



 いよいよ珈琲にお湯を注ぐ時。ここまででも、その味に期待が膨らんでいた。



 1投目の蒸らし、それに2投目はゆっくりと細く、渦を描くように。蒸らしの時に、粉の時とはまた違った香りが花開く。



 そして3投目。


 3投目はやや早く、4投目に至っては渦を描かず、中心に注ぐだけだった。



 ドリッパーの下からつーと、線を引くようにお湯が落ちていき、それがぽた、ぽたっと一滴一滴になって暫くしてから、霧島くんはサーバーからドリッパーを外した。


 そしてサーバーを軽く回して中身を混ぜ、それをカップに注いで完成。



「お待たせしました」



 そう言って霧島くんは、私の前にカップを置く。



「あ、ありがとう」



 私はカップを手に取る。淹れたてだからだろう。手のひらに、珈琲の暖かさが伝わった。



 すんすん、と香りを嗅ぐ。


 芳酵で花のような優しい香り。百合やジャスミンみたいな、白い花が思い浮かんだ。その香りを顔中に浴びながら、私は珈琲を口に近づける。



「い、いただきます」


「どうぞ」



 霧島くんは後片付けをする手元を見てそう言う。こちらを見ないのは、きっと私が味を楽しむのを邪魔しない為、気を使ってくれているのだろう。



 カップの淵を口に含んでずっ、と一口。



「っ!」



 その瞬間、口の中に華やかで優しい、フルーツの……ベリーにも似た甘酸っぱさが広がる。全然苦くない。珈琲というよりも、紅茶に近いかもしれない。



「お、美味しい……」



 思わず、そんな言葉がぼそっと出る。珈琲は苦い、という概念が覆され、この味の虜になってしまいそうだ。私は夢中になって二口目も口にする。


 するとそんな私を、霧島くんが何やら意味ありげに見る。



「な、何?」



 もしかして、何か変だったのだろうか? 私は不安になって尋ねる。



 しかし、霧島くんは……。



「……良かった」


「……へ?」



 と、少しだけ微笑んでそう言う。普段なら考えられないその表情に、私はつい、素っ頓狂な声を上げてしまった。



「湊さん、学校じゃ笑わないから。笑っている顔が見れて、安心したというか……」



 それはこっちの台詞だと言いたい。けれど……。



「私、笑ってる?」


「うん。気づいてないの?」


「う、うん……」



 私は自然と、自分の頬に手を当てる。そんな事してもわかるわけは無いが、何だか本当に顔がほころんでいるような気がした。



「……きっと、この珈琲が美味しかったからかな」


「…………」



 そう口にして私は、まだ半分ほど中身が入ったカップを見る。



「……ありがとうね、ごちそうしてくれて。本当に美味しい」


「…………」



 私は精一杯の笑顔でお礼を言った。その言葉に、霧島くんは答えない。その代わりに――。



「……その珈琲さ」


「え?」



 代わりに霧島くんは、静かに語り始める。



「その珈琲、エチオピアのモカ・イルガチェフェっていうんだ」


「……モカ?」



 私と同じ名前、偶然……だろうか?



「湊さんと同じ名前だね。……その珈琲、飲んでみてわかったと思うけど、華やかな感じがしたでしょ?」


「……うん」



 どうやら偶然ではなかったらしい。私の名前を知っていた上で、この珈琲を淹れてくれたのだろう。


 けれど、何が言いたいのかよくわからない。それに、霧島くんとまとも会話をすることが初めてだから、私も何と答えていいのかわからない。


 その真意を探そうと、じっと私は霧島くんを見つめる。


 そして私に見つめられたのが恥ずかしかったのか、霧島くんは照れたように頭の後ろを掻きながら、こんな事を口にする。



「湊さんにこれを飲ませたかったのは、何というか……湊さんには、この珈琲みたいに、華やかな笑顔が似合うと思って……」


「……へ?」



 いきなりのその発言に私は驚き、次いでぼっと音が出そうなくらい顔を赤く染める。そんな私を見て、霧島くんは苦笑する。


 そして穏やかな口調で、こう口にした。



「俺は……湊さんは、笑っていた方が良いと思うよ」


「……え?」


「湊さんには、華やかな笑顔でいて欲しい、かな?」



 ……その言葉を聞いた瞬間、私の中に、父との暖かい思い出が流れ込んでくる。



 あれは、私がまだ小さかった頃。父と義母が再婚する前の事だ。私は自分の名前が、何故〝萌香〟なのか、父に尋ねたことがあった。



『ねぇお父さん。何で私の名前は萌香なの?』


『ん~。そうだなぁ……』



 父は言葉を探すように上を見上げると、私の頭を撫でながらこう言う。



『お父さんの好きな珈琲に〝モカ〟ていうのがあるんだ。その珈琲は華やかな味で……。だから萌香にも、そんな華やかな笑顔でいて欲しいから、この名前にしたんだよ』



 そう言って父は私の頭を優しくなでる。その心地よさに、私は目を細めた。



『だから萌香、これからも、お父さんが好きな……そんな笑顔でいてくれ』


『うんっ!』


『はははっ、約束だぞぉ~』



 父と交わした、大切な約束。だけど、父が亡くなってから、そんな約束をしたことも忘れてしまっていた。



 今の私を見たら、きっと父は悲しむだろう。それを考えたら……。




「……湊さん?」


「……えっ?」



 かけられる声に、はっと意識を戻される。


 声をかけてきた霧島くんは、心配そうにこちらを見ていた。



「何で、泣いてるの?」


「……泣いて、る?」



 私はそっと目元を触れる。その手には、確かに涙で濡れた感触があった。



「……え?」



 そして自分が泣いてることを自覚してしまったら、もうその涙は止まることを知らないように、ぼろぼろと目から溢れてくる。



「あ、あれ。何で、こんな……」



 拭っても拭っても涙は溢れてくる。次第に私は、霧島くんに見られまいと顔を手で覆ってしまい、声を上げて泣き始める。



「ぐすっ……ひぐっ、お父、さんっ」




 ……きっと亡くなる直前、父はこう言ったのではないだろうか。



『……なぁ萌香、これからも、ずっと、お父さんが好きな、笑顔でいてくれ』



 優しかった父が最後に言ったその言葉。きっと自分が死んでしまっても、私には変わらず笑顔でいて欲しいと願ったのだろう。けれど私はそんな父の願いを、泣き叫んで聞けなかった。


 そして父と約束をしたことも忘れて、毎日毎日、暗い事を考えて、次第に笑うことさえ忘れていた。



 ……馬鹿だ、私。



 こんなんじゃ、父に顔向けなんてできない。



「うっ、うぅぅ……お父、さん。お父さんっ、ごめん、ごめんなさいっ」



 そして私は、目の前に霧島くんがいることも忘れて、その涙が枯れ果てるまで泣き続けた。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇




「……落ち着いた? 湊さん?」


「……うん。ごめんね、いきなり泣いちゃって」


「ううん。平気だよ」



 暫く泣き続けて、もう涙も出なくなった頃。泣きつかれて落ち着いた私は、霧島くんから借りたハンカチで赤くなった目元を拭って、弱々しい声でそう言った。



「私、お父さん、いないんだ」


「…………」



 そして私は、霧島くんに泣いた訳を話し始める。


 霧島くんは終始、何も言わずに黙って私の言葉を聞いてくれていていて、それが今はとてもありがたかった。



「……私、これからどうすればいいんだろう」



 そしてあらかた事情を話し終えた後、私は俯きながらぽつりと零す。その言葉は、霧島くんに言ったのか、それとも自分自身に言ったのか。



「……私、お父さんとの約束、守れなかった。あの日からずっと、暗いままで……」



 それを言うと、もう涙は枯れ果てたと思ったのに、また目が潤んでくる。関係の無い霧島くんにこんな事言うのはおかしいとは思っているけど、今のこの気持ちを誰かに聞いてほしかった。



「…………」



 霧島くんは何を言うでも無く、私の言葉を真剣に聞いてくれている。もしかしたら、本当はとても優しいのかもしれない。あまり話した事の無い私のこんな話を、真剣に聞いてくれて……。



 けれど、いつまでもその優しさに甘える訳にはいかないと、私は自嘲気味に笑う。



「……ごめんね。こんな事、霧島くんに話すことじゃないよね」


「…………」



 その言葉を聞いてもなお、霧島くんは私から目を逸らさない。そして今まで塞いでいた口を開くと、こう言う。



「……これから、また始めればいいんじゃないかな?」


「……え?」


「お父さんとの約束を思い出したのなら、これからまた、お父さんが願ったように笑えばいいんじゃないかな? 湊さんは、昔はそんなふうに笑っていたんでしょ? なら時間が経っていたとしても、また笑えるようになるよ」


 

 そう言って霧島くんは、飲みかけの珈琲を指差す。



「……その珈琲。それを飲んで、湊さん美味しいって笑ってくれたでしょ? なら大丈夫。これからまた頑張って、始められるよ」


「…………」



 霧島くんの言葉を聞いて、私はすっかり冷め切ってしまったカップを手に取る。



 そして一口。



「……美味しい」



 時間が経っても、なお変わらないその華やかさに、自然と笑みが溢れる。



「……うん。私、頑張ってみるよ」



 なら私もこの珈琲のように、時間が経っていたとしても、また笑えるようになるかもしれない。霧島くんの言葉に勇気を貰えた私は頷き、残った珈琲を大事に、ゆっくりと飲み干した。






「……今日はありがとう」


「いいよ、別に」



 珈琲を飲み終えた私は立ち上がると、帰り支度を済ませ、お礼を言って出口へと向かう。



「……ん?」



 するとその扉に、入ってきた時には裏手にあって見えなかった文字が目に入る。


 私はその文字を指差すと、苦笑しながら霧島くんに問いかける。



「……さっき、笑って欲しいって言ったのは……これ?」


「ん?」



 私の問いかけに、霧島くんもその文字を見る。



 そこにはスペイン語でこう刻まれていた。




『Que este café te haga sonreír』




「あ〜」



 それを見た霧島くんも、困ったように苦笑する。



「それ、爺さんが書いたんだ。さっきのは、俺の本心だよ」


「……そう」



 よかった……と、私は胸を撫で下ろす。


 そして私は、扉を開ける前に振り返り、ひと言。



「……また、来てもいい?」


「……うん、いいよ」



 霧島くんは頷き、穏やかで優しい笑顔を見せて、こう口にする。



「また話したい事があれば、いつでも来てよ。俺はここで珈琲を淹れて、いつでも待ってるから」


「っ!?」



 どことなく、父に似たその笑顔。それを見た瞬間、トクンっと胸が高鳴り、顔が熱くなる。



「う、うん、ありがとう。じゃ、じゃあ、また明日、学校で」



 私は赤くなった顔を隠すように振り返り、扉を開けてそそくさと店を出た。




◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 翌日。私はいつものように、教室の扉の前に立っていた。


 中からは、やはりいつものようにクラスメイトたちの笑い声が聞こえる。けれど今日は、昨日までとは違い、卑屈めいたりしない。


 私は「よしっ」と意気込むと、教室の扉をガラリと開ける。



「あははっ、でさぁ〜。……? 湊、さん?」


「…………」



 先程まで楽しげに話していたクラスメイト。入学してすぐの頃、私に話しかけてくれた子たちだ。その子たちは目の前に立つ私を不思議そうに見ている。



「……っ」



 そんな視線を浴びて、私は……。



「お、おはようっ」



 と、ぎこちないながらも笑顔で挨拶をする。


 それを受けてその子たちは、少々驚きはしたものの、やがて笑って挨拶を返してくれた。



「おはよう、湊さん」


「う、うん。あの……私も、入ってもいい?」


「いいよ。私も、湊さんとはちゃんとお話したかったんだ」


「うん。ありがとう。それじゃぁ……」



 そうして私は、遠慮がちではあるが、皆の輪に入る。


 会話の内容には付いてはいけなかったけど、それでも話を振ってくれたり、聞いてくれたり。皆は、私を受け入れてくれた。勇気を出して良かったと、本当に思う。


 その後暫く話し続けていると、HR直前になって、霧島くんが教室に入ってきた。いつも通り、眠そうにしながら欠伸を咬み殺している。


 霧島くんが来た事に気がついた私は、皆に「また後でね」と断ってから自分の席へと着席すると、隣で机に突っ伏して寝ようとしている霧島くんに挨拶をした。



「お、おはよう。霧島くん」


「……ん? あぁ、おはよう」



 そう返して霧島くんはまた寝ようとする。いつも通りの無愛想な態度。昨日とはまるで別人だ。


 何でいつもこんなに眠そうにしているのだろう? 昨日話してみて、少しだけ話しかけやすくなった私は、霧島くんに尋ねる。



「何で、いつもそんなに眠そうなの?」


「……ん?」



 うつ伏せていた顔を上げて、霧島くんはこちらを見る。やっぱり眠そうだ。


 そして欠伸を一つして、私の問いかけに答える。



「朝は店の準備で早いし、夜は遅くまで珈琲を淹れる練習してるから……」


「そ、そうなんだ……」


「うん。制服でやってるから、珈琲の匂い付いてるでしょ」



 確かによく嗅いでみれば、霧島くんからした匂いは珈琲の匂いだった。だから霧島くんに、不思議と懐かしさを感じたのだろう。



 大好きだった父を思い出させる、懐かしい香り。


 そして昨日見せてくれた、あの笑顔。何で学校では見せないのだろう?



「~~~~っ」



 それに、昨日私に言ってくれたあの言葉。思い出したら顔が赤くなる。



 もしかしたら、私だから笑ってくれたのだろうか。少しだけ期待して、私は問いかける。



「……ねぇ霧島くん」


「……うん?」


「何で、学校では笑わないの?」


「……え?」


「だって、お店ではあんなに優しい笑顔を、見せてくれたのに……」



 私のその問いかけに、霧島くんは不思議そうな顔をすると、何事も無いように答える。



「だって、お客さんの前じゃ愛想良くしないといけないでしょ?」


「……へ?」



 期待とは違う言葉に、私は素っ頓狂な声を上げる。



「え、じゃ、じゃあ、他のお客さんにも、あぁいう風に笑ったりするの?」


「接客業だからね」


「……あはは」


「……?」



 何だ、そんな事か。


 よくよく考えればそうだろう。あの時の霧島くんの笑顔に魅せられて、少し浮かれていた。


 きっと霧島くんは今日もあのお店で、あの優しい笑顔を振りまくのだろう。



 それは、私じゃない他の誰か……。



「…………」



 ……でも。



「……あ、あのさ」



 学校では見れないけど。



「……何?」



 あのお店に行けば、またあの笑顔に会える。



「きょ、今日もお店……行ってもいい?」



 ……学校帰りにふらりと立ち寄った、小さな喫茶店。



 そこで珈琲を淹れていた、隣の席の無愛想な同級生。



「そ、その……珈琲、また飲みたいなぁ、なんて」



 彼が淹れてくれた珈琲の暖かさと、その味。



「だ、駄目……かな?」



 そして初めて見せてくれた、このクラスで私だけが知っている、優しい笑顔。



「…………」



 だけどその笑顔は、私だけに向けられたものでは無くて……。



「……うん、いいよ。待ってる」



 ……そう言って、彼は優しく微笑む。



「っ!?」



 その笑顔を見て、ドキリと心臓が跳ね上がり、顔が熱くなる。昨日と同じ……。



 (な、何これ……)



 初めて感じた、暖かい気持ち。


 この気持ちが何なのか、今は分からない。




 ……けど。




「……う、うん」




 いつかこの笑顔を、私だけに向けてほしいな。






Que este café te haga sonreír


~この珈琲があなたを笑顔にしてくれますように~





◇ ◇ ◇ ◇ ◇



 後書き


 この作品をご覧いただき、誠にありがとうございます。


 私の好きな珈琲とラブコメを合わせたいと思って書いた作品です。上手くまとめられているか不安ですがいかがでしたか?


 少しでも感じていただけるものがあれば、評価やご感想、レビューなどをしていただければ幸いです。よろしくお願いします。(※作者はこの作品を落ち着いた雰囲気にしたいと思っています。批判等、乱暴な言葉使いのコメントは一切お断りしておりますのでご了承ください)


 感想を書きづらければ、好きな珈琲を書いてくださるだけでも結構です。作者が反応します。


 それから下の方に、今回紹介した珈琲について書かせていただいています。ご興味がございましたら是非。


 最後に。もしかしたら、今後この物語の続きを書くかもしれません。ですので今回はこの言葉で……。



 それでは皆様、またのご来店をお待ちしております。




~本日の珈琲~


エチオピア・モカ・イルガチェフェ


 芳酵で、百合やジャスミンなどの白い花が思い浮かぶ、フローラルな香りが特徴です。その味はアールグレイなどの紅茶に近く、冷めるとベリーにも似た、豊かでまろやかな甘い酸味が印象に残ります。苦みは少なく、酸味が苦手という方にも飲んでいただきたい上質な珈琲です。


 エチオピアは珈琲発祥の地と言われており、今もなお野生のコーヒーノキが茂っています。その歴史は古く9世紀までさかのぼります。珈琲の起源とされる伝説には大きく分けて3つありますが、その1つがエチオピアのカルディ伝説です。9世紀のエチオピアで、ヤギ飼いのカルディという少年がある日、ヤギが興奮して飛び跳ねている姿に気が付きます。それを修道僧に相談したところ、ヤギが樹になっている赤い実を食べた後に飛び跳ねることがわかりました。この赤い実が珈琲の実です。試しにカルディもその実を食べたところ気分がスッキリとし、以来その実を修道院の夜業の眠気覚ましに使われるようになったのが珈琲の始まりです。


 この始まりの珈琲、皆様も是非口にしてみてはいかがでしょうか?



 ※作中で紹介した抽出レシピはあくまでも一例です。豆の状態、使用する器具、淹れる方によって違いはありますので、あらかじめご了承ください。

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珈琲屋さんの気になる彼は私以外にも笑顔を振りまく 愛上夫 @aiueo74158

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