第20話

 とある金曜日の放課後。

 俺は一人で下校の準備をしていた。今日の下校は一人だ。

 下校路が俺と同じ友人は少なく、その友人の一人である菊市きくいちは、今日は学校に居残るそうだ。

 菊市が居残りすると聞くと補習を思い浮かべるが、今日はそうではなかった。

 忘れていた宿題をするわけでもなく、ましてや自主的に勉強するわけでもない。


「今日はプールの解放日だぜ? そんなの、行かないわけがない」


 無駄に「わけ」の部分を強調して抑揚をつける菊市。

 彼の目が例のごとく不謹慎ふきんしんに輝く。


「泳ぐの?」


「いや、泳がない。見学しに行くだけだ。女子の水着姿をな!」


 菊市の最後の一文句は声を殺して宣言されたが、やたらと語調が強められていた。


 ああ、分かっていたさ。目的は分かっていたが、せめて泳げよ。少しは人目をはばかれ。わざわざ解放されたプールに行って泳がないなんて、下心の大暴露じゃないか。


「じゃ、そゆことでー」


 そんなに急いで行かなくても……。


 一人残された俺は、さて帰るか、と右手に持つかばんを右肩にひっかけて立ち上がった。

 そのとき、意外な人物に声をかけられた。


隼人はやと君、付き合ってくれないか?」


 見ると、谷良内やらうちが俺の横に立っていた。

 さっきチラリと視界に入ったときには下校の準備を終えている様子だったが、鞄は机の上に置いているようで、手ぶらの彼がまっすぐ俺を見ていた。

 少し茶色味の入った黒髪は前も横も後ろも長めで先生に風紀を注意されかねないほどだ。

 そんな長髪を暖簾のれんくぐるようにかき上げて、その内側にあった凛々りりしく開かれた瞳で俺を見ている。何か俺に重要な用事でもあるのだろうか。


「ああ、べつにいいけど」


「ホント⁉」


「うん」


 彼はすぐに自分の鞄を取りに戻り、俺の元へと戻ってきた。

 最初から鞄を持っていればいいのに、などと思うが、それは言わない。それを言うほどには俺と谷良内の仲は深くない。

 彼が鞄を取りに戻ったとき、女子が一人、彼に声をかけていた。だが谷良内は片手を挙げて何かを断る素振りを見せた。きっと「一緒に帰らない?」とでも誘われたのだろう。さすがイケメン君。


「じゃあ、行こうか」


 俺は手持ち鞄を肩にひっさげたまま、先に教室から出ようとした。そのとき、さっき谷良内に声をかけていた女子から声をかけられた。


「ねえ、ちょっと、染紅しぐれ君!」


「え、何?」


「あまり谷良内君を独り占めしないでくれない?」


 おっと! 独り占めだと?

 声をかけてきたのは谷良内のほうだし、だいいち、俺がいままでに谷良内と行動したことが一度でもあったか?


「江口さん、そういう谷良内君の敵を作るようなことを言うのはやめたほうがいいよ」


 俺に声をかけた女子が口を開くが、出そうとした言葉を見失い、そのまま口を閉じた。


「ごめんね、江口さん。それじゃあ」


 彼女は棒立ちしたまま、イケメンの爽やかな笑顔を見送った。


 俺は校門を出た。

 谷良内がどこへ行きたいのか知らないので、彼が追いついてくるのを待った。

 俺は彼の歩く方向に、彼に並んで歩く。


「ああ、びっくりした。谷良内君、女子からの人気すごいね。江口さんの誘いを断ってよかったの?」


 女子の誘いを断って男子への誘いを優先させるなんて、菊市みたいにいかがわしい場所に行くつもりなんじゃないだろうな、などと勝手な妄想をする。


「いやぁ……でも、隼人君なら僕の気持ちは分かるんじゃないかな? 隼人君って、僕と同じな気がするんだ」


「同じ? 何が?」


「いや、うん……」


 何だ? 言うのもはばかられるようなことなのか?


 まさか、姉のことか⁉


 おまえも家では恐怖の大王だか女王だかに仕えているのか⁉

 一般的な人権を持ちながらにして奴隷状態の気持ちを共有できる逸材だというのか⁉


「あ、とりあえず、ここ入ろうよ」


 あ、ここ……、入りたくねー……。


 ここというのは例の喫茶店だった。姉と吉村兄の決戦場となったあの喫茶店だ。絶対に俺の顔も覚えられている。目をつけられている。

 嫌だなぁ……。


「別の店にしない?」


「いや、ここがいいんだ。お勧めのメニューがあってね。正直に言うと、この前ようやく全メニューを制覇して、やっといちばんおいしいコーヒーを割り出したんだ。それをご馳走したい」


 えー……。そこまでしたの? それを聞いたら断れないじゃん。

 しかも、なんで俺に? おまえのことが大好きな女子にご馳走してやれよ。

 ああ、実験台か。いちばんおいしいといっても味覚は人それぞれだから、コーヒーの味が確かなものか確かめたいということだな?


「どうしても、ここ?」


「どうしても。ここじゃないと意味がない」


 まあ、俺も鬼ではない。

 ご馳走ちそうしてくれるというのなら、ご馳走されてやることに、やぶさかではない。


「だが、ことわ……」


「ゴホッ! ゴホゴホッ! ゲホォッ!」


「わっ、おいっ、大丈夫か⁉ 分かった、ここに入って休もう!」


 ごめん、先生。俺は鬼にはなれなかったよ。


 俺は谷良内の脇を引き上げ、チリンチリンという鈴の音に迎えられて入店した。


「ふぅ……」


 彼のせきは水を飲むと落ち着いたようだ。

 彼はコップをゆっくり下ろすと、白いビニールを引き千切り、薄いおしぼりを出して口元をいた。


「もう大丈夫なの?」


「ああ、うん。僕は肺が弱くてね。空気が悪かったり、ストレスを感じたりすると、咳が止まらなくなるんだ。ひどいときには呼吸困難になることもある」


 困ったものだよ、という苦笑を浮かべ、谷良内は再び水を口に運んだ。


「じゃあ、最悪の場合、救急車を呼ばなきゃならないってことか」


「それより、ストレスを遠ざけて予防することが重要だよ」


「まあ、風邪や花粉症もそうだしな」


 ここでふと気づく。

 俺と谷良内が座っている場所は、姉と吉村兄が暴れた、あの席である。

 俺が谷良内なら呼吸困難で死んでいるところだ。


「ご注文をおうかがいします」


 水を運んできたのとは違うウエイトレスがオーダーを取りにきた。

 あ、このウエイトレス、俺のこと二度見しやがった。


「カフェオレを二つ」


 谷良内よ、それがおまえの全メニュー制覇の成果なのか。


「カフェオレをお二つですね? かしこまりました」


 ウエイトレスよ、去り際に俺の顔をチラッと見ていくな。俺は暴れねーよ。


「隼人君、さっきの店員さんと何かあった?」


「いや、べつに……」


 この店のメニューを制覇したということは、谷良内はここの常連客ということだ。店員が俺の顔を覚えているのなら、俺と一緒にいる谷良内も、せっかく常連になった店に目を付けられかねない。

 ま、いまさらそんなことを考えても遅いわけで、考えるのはやめにしよう。


「ところで、谷良内君はなんで俺が君と同じだって分かったの? 誰かから聞いた?」


 姉は巧妙に自分の本性を隠している。家族以外で姉の本性を知っているのは、俺の知る限りではあずさちゃんと吉村兄妹くらいのものだ。

 仮に朱里しゅりが姉の本性を言いふらしているとしても、すでにガッチリと固められた姉の人望をくつがえせるはずがない。

 誰も信じないのだ。

 実際、実弟じっていの俺が言っても「姉の素質や才能に嫉妬しっとすんな」という一言で片付けられる。

 そういう確執かくしつに守られた姉の本性を見抜いたのだとしたら、谷良内はすごい奴だ。


 あ、そういえば谷良内はここの常連客だったな。

 もしかして吉村兄との抗争のときに店にいたのか?


「ああ、やっぱり僕と同じなんだね。最初はなんとなく、そうかもって思っただけなんだ。隼人君の彩芽あやめさんへの接し方を見て、そう思ったんだよ」


 接し方? 何を言っているんだ?


「梓ちゃん? 梓ちゃんから聞いたの?」


 後から彩芽さんと呼んだほうがよかったか、などと思ったが、谷良内は菊市みたいな嫉妬は見せなかった。

 修学旅行の行先の話を聞いていたのなら、俺が彩芽さんのことを梓ちゃんと呼んでいることは谷良内も知っているはずだ。


「いや、彩芽さんとは隼人君のことを話したことはないけれど、隼人君が彩芽さんと会話する様子を見て、もしかしたら、と思ったんだ。男子から絶大な人気の、あの彩芽さんと話している隼人君は、まるで普通に男子と話しているみたいに平然としていた。でも後ろの席の菊市君と話しているときは、ときどき顔を赤らめてさえいた。それでピンと来たんだ」


「ん? んん? んんん?」


 こいつ、いったい何を言っているんだ⁉


「つまり、そこで隼人君が僕と同じ同性愛者なんじゃないかって気づいたんだ。現に、僕の愛の告白を受け入れてくれたよね?」


「同性愛者⁉ 告白⁉ え、まさか、付き合ってくれないかって、あれのこと⁉」


「うん!」


 なんてこった……。こいつ、本気か?

 顔を赤らめていやがる……。


 俺が同性愛者だなんて、とんでもない勘違いだ。


「いやいやいや、あれはどこかに行くから、それに付き合ってくれっていう話だろ? 大勢の人がいる中で軽い感じで放たれたあの言葉が、愛の告白になるわけがないでしょ。あの状況下にあってあれが愛の告白だったなんて、ちょっとした意地悪クイズだよ」


「いやぁ、だって人が大勢いたからさ。周りの人たちに愛の告白だとバレないように、周りの人が単なる同伴の誘いだと勘違いするように、わざとそういう告白の仕方をしたんだ」


「それ、相手の俺も気づかないよ。気づくわけがない。意味ないじゃん!」


「えーっ⁉ 同じ同性愛者なら気づいてもらえると思ったんだけどなぁ。少なくとも、ドキッとしてくれたでしょ?」


「しねーよ! あと、俺、同性愛者じゃないから!」


 谷良内が固まった。

 ネジが外れたように口を開いたまま閉じなくなった。

 垂れ下がった前髪の隙間で、焦点の定まらない様子で瞳が揺れている。


 というか、姉はぜんぜん関係なかった。


 ショックだ。

 いろんな意味で、ショックだ。


 それにしてもこいつ、いわゆるホモだったとは。イケメンのくせにもったいない。

 あ、こいつ、修学旅行のグループで俺と一緒になりたいって言ったのは、梓ちゃん狙いじゃなくて本当に俺と一緒になりたかったのか。

 こいつは正直なことしか言っていないのにだまされた気分だ。チクショー。


「ちょ、ちょっと待って。確認させて。隼人君、本当に同性愛者じゃないの?」


「違うよ」


「照れて本当のことが言えないとかじゃなくて?」


「本当に違う」


 再び彼は停止した。


「お待たせいたしました。カフェラテでございます」


 俺と谷良内の前に白いカップが置かれた。受け皿には葉っぱのロゴが入っている。


「いただきまーす」


 ああ、気まずいよなぁ。

 あ、俺はどうでもいいとしか思っていないけれど、谷良内にとっては気まずいだろうなぁ。


「でも、僕は告白をした。それで、隼人君は『べつにいいけど』と了承した。その事実は変わらないよね?」


 ブハッと思わずラテを吹いてしまった。

 おしぼりでテーブルを拭きながら谷良内の顔を見ると、彼の顔は紅潮こうちょうし、瞳は輝いていた。

 こいつ、さては開き直った? しかも強引に俺と結びつこうとしている?

 とんでもない奴だ。


「それは同行の了承だろ。無意味だ」


「既成事実は存在する。過去は変えられないんだよ、隼人君」


「そんな『嘘』の一言で吹き飛ぶような既成事実になんの力もないよ」


「そんな! 隼人君は……、うっ、ゲホッ、ゴホッゴホッ!」


 谷良内から咳が出はじめた。

 ストレスからくるあの激しい咳だ。


「おい、大丈夫か?」


「ゲホッ、嘘……じゃ……ない……ゴホッ……よね?」


「俺はおまえとは付き合わん!」


「ゴホゴホッ、ゴボォッ!」


「お、おい……」


「嘘……じゃ……ゲホォッ」


「わ、分かった、分かった! 嘘じゃないから!」


「ホント⁉」


 あれ? 咳がやんだ?

 こいつ、まさか……。


「咳、止まったの?」


「あ、うん。ストレスが消えると止まるんだ」


 こいつはつまり、都合が悪くなると咳をするということだ。

 しかしながら演技にしてはリアルな咳だった。

 どうもこいつは肺の調子を操れるようで、あんまりストレスをかけると間接的な加害者になりかねない。

 なんと厄介な奴。


「嘘じゃないんだね? つまり、隼人君と僕が恋人関係だと認めるんだね?」


「いや、付き合うことに了承したわけで、その付き合いってのは、友達付き合い……」


「ゲホゲホゲホッ! ゴホッ!」


「あー、もう! じゃあ友達以上、恋人未満で手を打たないか?」


「ゴフッ、ゴフッ、もう一声」


 もう一声ってなんだよ。値切り交渉じゃないんだから。


「じゃあ親友以上、恋人未満」


「ゴホン、ゴホン、未満じゃなくて……」


「親友以上、恋人以下?」


「そう!」


 以下なら恋人も含まれるってか?

 ……バカか!


「おまえ、それで納得すんの?」


「それで納得する。僕もそれくらいの譲歩じょうほはするよ。あ、ライバルの菊市君は場合によっては蹴落けおとすことになるけど、いいよね?」


「知らん! 好きにしろ。あいつは踏まれたがっていたから、好きなだけ踏んでやれ」


「え、まさか、彼もこっちの人? あー、いや、でも僕は隼人君だけって決めているから」


 …………。


 はあ。もう、溜息しか出ない。


「ゲフッ」


 あ、ゲップは出た。

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