第8話
「ところで、俺ってなんで
「
「ああ、うん……梓ちゃん」
梓ちゃんの白い肌が桃色に染まっている。両手はまっすぐに膝におり、口がとんがって、目線が下に落ちている。
自分が呼んでほしいと言ったのに、実際に呼ばれたら恥ずかしいらしい。
「あのね、
そっちは言っても恥ずかしくないのか、視線を逸らさず真顔で俺に力説してくる。
これは俺が恥ずかしがったら失礼に当たるのだろうか。
落ち着かない気持ちで俺は梓ちゃんの目を見て、ちゃんと話を聞いていますアピールをした。
「何か質問は?」
そりゃあ、ありますとも。山ほど。
「じゃあ、ちょっと
梓ちゃんは困ったように固い動きで後頭部をかきサイドテールを揺らす。
それはどうも俺の質問に答えがたいとか、そういうことではなく、どこか呆れた様子に見えた。
「何からって、隼人君、狙われている自覚がないの? 吉村さんに決まっているじゃない。吉村さんの性欲が日に日に強くなっていっているのが、私にははっきりと分かるわ。もう、いつ隼人君の家に侵入して夜這いに及んでもおかしくないくらいよ。だからこうして隼人君を避難させ、なおかつ私の監視下に置いているんじゃないの」
えーっと、梓ちゃんは、思い込みの激しい娘なのかな?
いま俺が置かれている状況を考えると、吉村さんよりも梓ちゃんのほうが俺にとって危険な気がするのだが。
監視って何? 俺を見張るの? 俺が寝ているところを、まさか梓ちゃんは寝ずに見張るつもりか?
それに俺は毎晩梓ちゃんの家に来なければならないの?
それだけは勘弁してほしい。
面倒っていうのもあるし、女の子の部屋に泊まることにも抵抗があるし、それより何より、それらの問題がどうでもいいくらいに重要なことがある。
夜、家を抜け出すときの苦労だ。
二日以上連続で姉に見つからずに家を抜け出すのは、まず不可能なことだ。二日目で確実に目をつけられ、三日目で尾行される。
「明日はいいよね?」
「駄目よ! 毎晩よ!」
俺のことを毎晩監視するなどと言っている梓ちゃんのことを、俺は怖いと思った。
だが、それ以上に梓ちゃんが姉に目をつけられたときの、梓ちゃんの末路が怖ろしい。姉にどんな仕打ちをされるのか。
ゴミ捨て場に捨てられたボロボロの人形のような姿が想像にかたくない。
「梓ちゃん。悪いけど、それはお断りだよ。だいいち、吉村さんは梓ちゃんの部屋に侵入できたとしても、俺の部屋には絶対に侵入できないよ」
「え、なんで?」
そんなの、姉がいるからに決まっている。
侵入者なんて姉のかっこうの
「それはね、怪物がいるからさ」
「怪物?」
梓ちゃんは首を
説明を要求されている。
怪物と表現したのはまずかっただろうか。いまさら「姉のことだ」などとは言えない。どういうルートで姉の耳に届くか知れたものではないからだ。
「まあ、番犬みたいなものだよ」
「隼人君の家、犬なんて飼ってなかったよね」
知ってんのかよ。
確かめたのか? 恐ろしい娘だ。
「いや、番犬っていうのは例えだよ。詳しくは言えない。梓ちゃん、俺との付き合いがあれば、いずれは分かるよ」
「つ、つ……付き合うの?」
そこに反応するのか? 真顔で赤面している梓ちゃん。貞操とかなんの臆面もなしに口走るくせに。
やっぱり変わった娘だ。
「友人として」
「そ、そうだよね……」
手はまっすぐに膝におり、目線が下に落ちている。ただし、今度は口を結んでいる。
しゅんとしている様子だが、その内面を断定できるほど俺は梓ちゃんのことを知らない。
そのとき、ギッ、ギッ、ギッという階段を登る足音が聞こえてきた。
梓ちゃんのお母さんが紅茶でも持ってきてくれたのかと思ったが、そうではなかった。梓ちゃんは足音が誰のものか判別できるらしく、非常に慌てた様子で立ち上がった。
「大変! お父さんが来る……」
梓ちゃんは声を殺した。
俺は梓ちゃんに釣られて立ち上がった。
「
したほうがいいかな?
そう訊こうと思ったが、途中で
「隠れて!」
そういうことをすると、あとでややこしいことになる気がする。
しかし梓ちゃんの慌てぶりを見ると、梓ちゃんのお父さんがよほど厳格な人で、俺の姉のようにヤバイ人なのかもしれない、などと思ってしまう。
梓ちゃんは
小さい布切れが盛大に舞う。
その光景に見とれる暇もなく、俺は梓ちゃんにグイッと力強く腕を引かれた。
「入って!」
「え……」
部屋にはもっと隠れる場所がある。クローゼットは大きい。ベッドの下は浅くて
それなのに、よりによって箪笥の中というのは、かくれんぼをするにしても奇抜すぎる隠れ場所だ。
「いいから早く!」
俺は身体を折り曲げて、引き出しの中に身を納めた。
梓ちゃんが身体を低くして突進し、引き出しを無理矢理閉めた。
「梓、いるのか? いるよな、開けなさい」
俺は箪笥が
息遣いを抑えようとすればするほど息が荒くなってしまう気がする。そうしてどんどん息苦しくなる。
「何、お父さん?」
梓ちゃんが部屋の戸を開けた音がした。
梓ちゃんのお父さんの年季の入った低い声が、戸のフィルターなしで聞こえてくるようになった。
「いや、心配になってな。梓の部屋に強盗が侵入していないかって」
それは心配しすぎだろ。
俺と梓ちゃんの会話がわずかに下の階に漏れたのか?
それとも俺は妙な物音を立てたっけ?
心当たりはない。
「もう! いい加減にしてよ、お父さん。しょっちゅう私の部屋に強盗がいないか確認しにくるけど、そもそもうちに泥棒が入ったことはないでしょ?」
しょっちゅう来ているのか?
心配しすぎだろ。
あんたがそんなんだから娘も妙な心配性というか、心配症にかかってしまうんだぞ。
というか、どう考えても娘の部屋に入る口実じゃないか。
「その油断が命取りになるんだ。いくら用心しても用心しすぎってことはない」
いいえ、しすぎです。
「ちょ、ちょっと!」
「なんだ? 今日はやけに嫌がるな。そういうときに限って強盗がどこかに
彩芽父は部屋の散らかりを梓ちゃんに注意しつつ、室内を前進して床を軋ませた。
ん? おいおいおい! マジかよ。
なんかいろいろと不穏な音がするぞ。
ギィー。
クローゼットを開く音。
バサッ。
布団をめくる音。
ガタン。
おそらく、テーブルの縁に頭を打った音。
「あとは……」
気配が近づいてくる。
ヤバイ。……ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!
「ちょっと、箪笥は駄目っ!」
「腕利きの賊ほど盲点を突くものだぞ、梓」
箪笥の取っ手に手がかけられたのが、中からでも分かる。箪笥に手が触れた音は、箪笥の中ではよく響く。暗いせいで音に敏感になっていることも手伝っているかもしれない。
「そこは自分で調べるからいいの! いくらお父さんでも私の下着を見るのは許さないよ!」
「下着なら部屋中に散らかっているじゃないか。あとでちゃんと片付けるんだぞ」
「だから部屋の下着も見ないで! 早く出ていってよ!」
もしかして、俺が詰められたのは下着を入れていた引き出しか? あれ? まだ下着が残っているぞ。なんだ、これ。これは下着じゃなくて、ただのヒモじゃないか?
バタン。
扉が勢いよく閉められた。
ガチッと勢いよく鍵の閉まる音もした。
「ごめんね。いま引き出すから」
息を殺す必要がなくなり、不足気味の酸素を取り入れると、息が荒くなった。
俺はいま、下着入れの中にいるのだ。早く息遣いを整えなければ変態と思われてしまう。
しかし次の梓ちゃんの言葉で、そんな心配事はあまりにも
「ごめん、開かない……」
ガタガタと梓ちゃんのあがく振動が伝わってくるが、俺のいる空間にはいつまで経っても光が差し込まない。
しまいには振動が衝撃に変わる。
梓ちゃんが箪笥を叩く音がする。
そして、音がしなくなる。
まさか、
「開かないの⁉ なんで?」
「分からない。こっちが訊きたいよ」
いいや、訊きたいのはこっちだよ!
押し込むときはすんなり入ったじゃないか。
俺の脳裏を不安な未来がさまざまによぎる。
どのパターンも絶望に沈んだ嫌なシナリオばかりだ。
「勘弁してくれ……」
俺はボソッとつぶやいたが、梓ちゃんの耳にはきっと届いていないだろう。べつに声を殺したわけではない。
ここまで意気消沈したのは久しぶりだ。
……たぶん久しぶりだったと思う。
「ちょっと待ってて。応援を呼んでくる」
なんだって⁉
まさか父親じゃないだろうな。父親じゃなかったとしても、この
階段を降りるドタドタ音とその振動は、戻ってきたときには二倍になっていた。
「お待たせ」
「あらあら、まるで下着泥棒に荒らされたような部屋ね」
透き通った女性の声。
彩芽母の声だ。
「そうかなぁ。下着泥棒が入ったら、部屋に下着は残らないんじゃない?」
そんな考察はどうでもいいから早く出してくれ。この際、彩芽母にこの醜態を見られたくないなどと、
「きっと泥棒さんにだって下着の好みくらいあるわよ」
「えー? 全部盗んで、あとで選り分ければいいんじゃないの?」
だぁあああっ! そんな議論はどうでもいいっ! そんなことより俺をここから出してくれ。
「全部盗んだら、かさばるでしょう? 泥棒は身軽でなければ務まらないわ。欲をかかず、少量をコツコツとくすねるのが鉄則よ」
あんたプロかぁあああああ⁉
「すごーい。お母さんプロみたーい」
「いいえアマチュアよ」
泥棒いたぁああああ!
この家、泥棒が入るどころか、泥棒住んでたよ!
「え、もしかしてお母さん……」
そりゃあ娘もドン引きだわな。実の母親が泥棒だったなんて。
「下着泥棒のアマチュアなの?」
「そんなわけないじゃない。当然お金よ」
「よかったー」
よくねーよ!
そして金銭泥棒も
「お父さんにあげた小遣いを少しずつ回収しているの。小額ずつだから、あんなお父さんでも気づいてないでしょ?」
いやいや、たぶん気づいてるよ。だからあんなに泥棒を警戒しているんだよ。
俺はそのことをあんたに気づいてほしいよ。
「おっほん! すんません。申し訳ないんですけど、僕をここから出してもらえませんか?」
滅茶苦茶恥ずかしいんですけど。
「あ、隼人君、ごめんなさい。すっかり忘れていたわ」
「ごめんなさいね。私はちゃんと忘れていなかったわよ」
おいっ!
忘れていた梓ちゃんもひどいけど、忘れていなかった彩芽母もひどくないか? 忘れていなかったなら、すぐに助けてくれよ。
ガタン、と俺の入った引き出しが揺れた。
大丈夫だろうか。
彩芽母の加勢でも開かず、結局、彩芽父を呼ぶ羽目になったりしないだろうか。
「コツがあるのよ。これはね、持ち上げて引くの。安物の木製箪笥だから、レール部分が摩擦ですぐにささくれちゃうのよねぇ。そのささくれ同士がひっかかるとこうなるの。中身が軽いと気づかないけれど、重いとカッチリはまっちゃったりするってわけ」
妙に詳しいな。何か重いものでも入れたことがあるのだろうか、などと回収される見込みのない伏線を張りたくなる。
「持ち上げながら引けばいいんだね?」
「一緒にやるわよ。せーの!」
「うぐっ」
うわっ、
しかも肩打った。上の引き出しの縁に肩打った。肩が痛い。
ようやく目が光に慣れてきて、目を開けられるようになってきた。
でもまだ眩しい。
視線が眩しい。
あんまり見ないで。
恥ずかしい。
梓ちゃん、それと梓ちゃんのお母さん、それと……。
「あ、どうも……」
俺の視線は釘付けになっていた。
目がカッチリと合っている。
さっきまでの箪笥の引き出しみたいにビクともせず固まっている。
梓ちゃんとお母さんとの間にある初見の……男性の顔と。
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