第7話

「ただいま」


 俺は表情だけでなく声にも気をつけて、形骸的けいがいてきに帰宅を告げた。

 父も母も礼儀作法に厳しいほうではないため無言でも構わないのだが、逆に姉が敏感に反応しそうで怖かった。


 幸い、姉はまだ帰っていなかった。

 自分では完璧な「ただいま」だったと思うが、鋭敏な洞察力を持つ姉なら、思いもよらない要因から俺の心の変動をとらえるかもしれない。


 靴を脱いで自分の部屋に向かおうとしたとき、ヴィイイン、ヴィイイン、と携帯電話のバイブレーションが俺の太腿ふとももをかすかに叩いた。

 二回の振動だけでやんだということは、プロバブリー、メールの着信である。


「ただいまー」


 俺の携帯電話がしずまった直後だった。姉が帰ってきたのだ。

 間一髪。

 もし姉に感づかれたら、メールの内容を確かめられかねない。


「おかえり」


「隼人、なんだか驚いてる。何があったの?」


 振り返ると、シュッとしぼられた姉の視線とかち合ってしまった。

 姉のセンサーは感度が高すぎる。

 しかもき方が厄介で、「何かあったの?」ではなく、「何があったの?」というふうに、何かがあった前提で訊いてくる。


「いや、べつに……。俺のすぐ後にお姉ちゃんも帰ってきたから、ちょっと驚いただけだよ」


「ふーん」


 そう言った姉は制服のリボンに手をかけながら俺の横を通りすぎた。

 メイビー、姉はすでに俺が何に驚いたと言ったのかを覚えていない。興味がなければ途中で話を聞かなくなるし、聞いているように見えても耳には入っていないことが多い。

 とりあえず、今回は姉をやり過ごせたようだ。


 俺は部屋にこもってメールのチェックをした。

 差出人は彩芽あやめさんだった。


 危なかった……。


 俺が女の子とメールのやりとりをしているなんて聞いたら、姉はかならず介入してくる。

 二人の関係を細かく聞き出し、気に食わなければ関係をぶち壊すし、面白ければかき回すし、興味が沸かなければ解放される。

 相手が彩芽さんなら、絶対に前者二つのどちらかだ。彩芽さんを姉の被害者にするわけにはいかない。

 仮に姉の前でメールの着信があっても、反応には気をつけようと肝に銘じた。


 ところで、肝心のメールの内容だが、うーむ、なになに?




 今晩10時に私の家に来てください。


 かしこ




 かしこ……じゃねーよ!

 いろいろと足りなさすぎだよ。


 まず俺の都合を考えていないし、それから、俺は彩芽さんの住所を知らない。知っているわけがない。

 ま、近代では便利なことに、携帯電話のナビ機能を利用すれば、固定電話の番号を入力するだけでその家まで道案内をしてくれる。

 電話番号は緊急連絡網にクラスメイト全員分が記載されているから、教えてもらわずとも彩芽さんの住所は調べがつくという寸法だ。


 ヴィイイン、ヴィイイン。


 お、彩芽さんからだ。

 きっと補足のメールだ。情報の不足に気づいたのだろう。




 PS 遅刻は厳禁です。




 おい! 何を補足してんだ、この人は! 姉並みに図々しいぞ。

 図々しさは、かわいくても許されないんだぞ、俺的に。


 いかん、いかん。図々しいのは俺のほうか。

 彩芽さんは善意で俺を呼んでくれているのだ、きっと。

 善意とは何だったかな……。

 俺の貞操を守る?

 ああ、どうでもいいなぁ。どうでもいい!

 だいいち家に来てくださいとしか書いていないのだから、俺を呼んだ本当の狙いは分からない。

 でも好意的であることには違いないのだ。行くしかないよな。


 さて、問題はどうやって姉に怪しまれずに家を出るかだ。しかも急がなければならない。

 彩芽さんの家までの距離を考えると、制服を着替える時間も惜しい。

 それにいまがチャンスだ。母には友達の家に行くと言い、姉が自室から出てくる前に外へ出てしまえば、もはやこっちのものだ。


 はたして俺は姉のセンサーにひっかかることなく外出することに成功した。


 警備をかいくぐって脱獄する囚人になった気分を、額の汗と一緒にぬぐって捨てる。

 携帯電話の電池残量と腕時計の秒針にせかされて、俺は小走り気味に液晶に示された矢印を辿った。


 ヴィイイン、ヴィイイン。


 ようやく彩芽さんの家らしき建物に到着し、表札が彩芽であることを確認したときだった。

 携帯電話にメールの着信があった。


 呼び鈴を鳴らさずに待機せよとのお達しだった。


 しかし、残念。

 俺はメールを見るより先に呼び鈴を鳴らすところまで終わらせてしまっていた。

 着信のタイミングからして、彩芽さんは俺の姿を確認しているのだろう。きっとにらまれているのだろうな、と憂鬱ゆううつになる。


 彩芽さんの家は築年数が若そうな白くて綺麗な一件家だった。二階建てで、屋根に並ぶのは亜麻色の瓦。

 人に例えるならば西洋の金髪美人みたいな家だ。


「はーい」


 透き通った明るい声がして、駆けてくる足音が響いた。

 チョコレート色の戸がゆっくり開くと、花柄の白いエプロンにピンクのスリッパ、ウェーブのかかったブロンドヘアーの女性が姿を現した。

 その彩芽さんは俺の知っている彩芽さんより少し背が高く、ほっそりとしていた。


「あら、どちら様? あずさのお友達?」


 その彩芽さんは彩芽さんのお母さんである。

 若々しくて、最初はお姉さんがいたのかと思ったが、彩芽さんに姉妹はいないことを俺は知っている。


「あ、はい。染紅しぐれです」


 俺が名乗ったとき、彩芽母の後ろからドタドタと高速の足音が近づいてくる。

 俺の知っている彩芽さんが息を切らしてやってきた。

 白のノースリーブに赤いチェックのスカート。耳が付いている兎さんのスリッパ。

 スリッパでドタドタ響いたということは、スリッパが薄いか、キック力が強いということだろう。

 なぜか俺の鼓動こどうが少し速い。彩芽さんが急いできた姿から疲労をトレースしてしまったのだろうか。怒られるかもしれないという恐怖心も少しはあったろう。

 あるいは、世にも珍しいサイドテールに心が高鳴ったのかもしれない。どうしても彩芽さんの白い肩と腕の生肌に目がいってしまう。

 べつに見ても後ろめたく感じる必要がないものしか見ていないはずなのに、不思議な罪悪感がある。


「上がって、隼人はやと君。早く!」


「え、え……」


 あせりの色を見せる彩芽さんの瞳と口調に急かされ戸惑っていると、彩芽さんは俺の腕を引いた。

 危うく玄関マットに泥を付けそうになり、慌てて靴を脱いだ。

 その隣では彩芽母も少し困惑している様子だった。

 彩芽母は落ち着いているように見えるが、実のところそれは動きが緩慢かんまんなだけだということに、表情を見てようやく気づく。


「どうしたの? ドラマでも始まるの?」


 玄関の掛け時計は22時まで1分を切っていた。

 彩芽さんは俺の腕を引き、廊下を走り、階段を駆け上がる。


「隼人君は狙われているの。だから隼人君が来たことは誰にも言わないで。お父さんにもね。あと靴を隠しておいて!」


 彩芽さんが階段の中腹から階下を覗き込むようにして声を張った。


「あら、まあ」


 娘の発言に対しては、彩芽母にあまり驚いた様子はなかった。娘のネジが飛んだような発言には慣れているという様子だった。

 狙われているというのは、さすがにおバカな言い訳だと思う。

 いや、もしかしたら、彩芽さんは本気で言っているのかもしれない。

 ただし、狙われているのは貞操だが。


「急いで! ちゃんと隠してよ!」


「はいはい」


 彩芽母はニコやかに俺たちを見送った。

 どこか勝手に得心とくしんしているような顔だった。

 きっと俺たちの関係を早とちりしている。


「ねえ、10時になったら何かあるの?」


 彩芽さんが部屋の扉を閉めたところで、俺は彼女の小さくはかなげな背中にたずねた。

 彩芽さんは白い小卓の前に、分厚く、小さく、燃えるように赤い座布団を置いた。座布団は派手だが、部屋にはよく馴染んでいた。

 つまりは部屋自体がド派手なのだ。


 壁紙は一面にピンクで、ピンクのベッドにはその枠組からお姫様みたいな白いレースのカーテンが垂れ下がっている。

 箪笥たんすは赤、棚はオレンジ、鏡のフレームは黄色、絨毯じゅうたんは緑、カーテンは水色生地きじに白の水玉模様。

 原色系の鮮やかで華やかな色ばかりでコーディネートされた部屋だ。

 カーテンの青と絨毯の緑が、さすがに赤系統しかないと気持ち悪いから導入されたのではないかとさえ思えてくる。


「お父さんが帰ってくるの」


 彩芽さんはコメカミを人差し指でかきながら言った。

 その表情を顔文字で言うのであれば、目は棒線で口は波線という感じだった。


「帰ってきちゃ駄目なの? 俺は挨拶あいさつしといたほうがいいんじゃない?」


 夜の10時きっかりに帰ってくることを彩芽さんが知っているということは、彩芽父は毎日同じ時間に業務を終え、いつも寄り道なんかせずに自宅へ直行しているということだろう。

 堅い人物だと予想される。

 それと彩芽さんの動揺ぶりから察するに、娘が男を連れ込んでいるところを発見したら、鬼の剣幕で怒鳴どなり散らすような人なのかもしれない。


 しかし彩芽さんの回答は、俺のそんな心配の外側からひっぱってきたものだった。


「挨拶はまだ早いと思う」


「まだ? 普通、挨拶は最初にすべきじゃないかな……」


 振り向いた彩芽さんの顔は、いぶかしさのために片眉が上がっていた。「なに言ってんだ、こいつ」という顔だった。

 きっと俺もいま同じ顔をしているはずだ。むしろ俺のほうがその顔をするにふさわしいはずなのだが。


「最初に⁉ それって、ちょっと段階を飛ばしすぎじゃない? だって、私たちはまだ……」


「まだ?」


 彩芽さんは目を見開いた。アングリとまではいかないが、口も大きく開いている。

 彩芽さんは何かに気づいた様子で赤面した。うつむいて右へ左へと視線のやり場をさがし、結局は俺を直視するという元のベクトルに納まった。


「まだ私の心の準備ができていないから!」


「ああ、それは待ったほうがいいね」


 彩芽さんの心の準備を待たなければ、彼女の無意識にド突かれてしまう。

 姉でもめったに出さないクリティカルヒットをそんなにしょっちゅう食らっていたら、さすがの俺でもひとたまりもない。


 ひとまず落ち着いた二人は、お互いに何を勘違いしていたのか十分に察しているだろう。互いに恥ずかしくなったが、俺たちの赤く染まった顔は、この部屋では目立つことはなく、むしろ溶け込むくらいだった。

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