第3話
その日、俺は再び
俺は帰りがけに気まぐれで校内を散歩していたのだが、取り巻きを連れた吉村さんが
ベタなことに放課後の体育館裏である。
しかし断っておく。俺はべつに
俺はこの修羅場に突撃することを即決した。
その理由は、俺に正義感という名の動機があるから、ということならばどれだけよかったか。
普通の人ならば、「見つけてしまったからには見て見ぬフリはできない」という正義感と、「しかし助けに入れば自分が痛い目を見るかもしれない」という保身との
そしてたいていの人は、自分の身かわいさが正義感に勝って、彩芽さんの姿を見なかったことにして逃げ去るところだろう。
しかし俺は逆。
自分の身かわいさが先にあって突入するのだ。彩芽さんはついでに助けるだけ。
動機が不純かもしれないが、客観的に見れば俺の行動は善行であり、つまりは一石二鳥である。
俺のこの動機説明は
いまは俺が修羅場に突入する時なのだ。
「何事だい? 君たちに不穏を感じるよ」
俺は彩芽さんに背を向け、吉村さんの前に立ちはだかった。
俺の前にはまず吉村さんが仁王立ちしていて、その後ろに色黒の女子三人が
その三人と彩芽さんは夏服、吉村さんは冬服だった。ちなみに俺も冬服。いまは春、衣替えの期間なのだ。
吉村さんの高級卵みたいな褐色肌は、
「なんだよ、おまえ。これはあたしとこいつの問題なんだよ」
俺の顔を下から上まで舐め上げるような視線。その鋭い眼光と、それに合わせた顔の上下運動にはなかなかの貫禄があり、
「二人の問題なのに、ここには俺以外に五人も人がいる。数が合わないね」
吉村さんが舌打ちをしてグイグイ俺に迫ってくる。
細めた目がヒクヒクしている。
「じゃあ、おまえから血祭りにあげてやる」
吉村さんが俺の胸倉を
この状況、吉村さんがまっさきに手を出したように見えて、実は俺が先手を取っていた。先手で防御した。俺はクロスさせた両手で自分の股間を覆い、膝をついた。
サンドバッグにしか成り得ない姿勢だが、それでいいのだ。
俺の完全防御の姿勢。股間は手の中にあり、
「なにそれ。相手が女だから手は出さないとか、紳士ぶってんの? バッカみたい」
吉村さんは後ろの三人に無言の合図を出した。後ろの三人に顔を向けて俺の方に頭を傾ける仕草は、いっせいに俺を攻撃しろという合図だ。
「そんな!
俺が膝をつく後方で彩芽さんがあたふたしている。
あたふたしている彩芽さんは貴重だ。何でも卒なくこなす彼女が珍しく
しかし、俺はそんな彼女のヒーローになるためにここにいるのではない。
吉村さんが言うように、相手が女だから手を出さないとか、暴力が嫌いだから喧嘩はしないとか、そういう綺麗なものではないのだ。
「これは俺の意志だよ。なんなら、彩芽さんも吉村さんたちに加わって俺を攻撃したって構わないよ」
その言葉に彩芽さんは余計に戸惑い、混乱した様子。
一方の吉村さんたちは全員が顔をしかめていた。
「うわっ、なに言ってんだこいつ。キモッ! ドMの変態かよ!」
「さてはドMを演出して、おまえを喜ばすまいとウチらが手を引くとでも思ったな?」
「テメーがいたぶられて喜ぼうが喜ぶまいが、おまえへの制裁はなくならないよ!」
吉村さんの取り巻きが牙を剥き出しにした獣のように吠える。
吉村さんは無言で一発、俺の頬をグーパンチした。
「言っておくが、断じて俺はドMなんかじゃない。だから悩ましいんだ。だからわざわざこんな面倒なことに首を突っ込んでいるんだ」
俺はさんざんになぶられた。
彩芽さんは最初こそは吉村さんにやめるよう言っていたが、吉村さんが「
吉村さんたちの攻撃はなかなかに重たく、
そして攻撃していた彼女たちのほうが肩で呼吸するくらい息があがっていた。
「何なんだよ、おまえっ! その目は! なんでそんなに輝いているんだよ! 喜ぶでもなく、苦しむでもなく、何かに挑戦しているようなその目! まるで私たちのほうが何かされているみたいじゃないの!」
感づかれたかなぁ、頃合かなぁ、などと俺も思いはじめていた。
そこで俺の考えていることが言葉となって出てくる。
「まさか、もう終わりなの? もっとエグいやり方なんていくらでもあるのに。教えてやろうか?」
俺のその言葉に四人が青ざめた。
誰が最初だったか、そのうちの三人が我先にと一目散に逃げていった。悲鳴と泥を跳ね上げての全力疾走だった。
「ああ、しまった……」
俺が何かやり返すと思われてしまったようだ。
彼女たちの体に教え込むとか、そういう意味ではなく、手法を教えてやるから俺の体に試してごらんよ、という意味だったのに。
「まぁけるかぁああああ!」
四人のうちの一人、残ったその一人はやはり吉村さんだった。
彼女も一度は身を引いて俺から距離を取ったが、その吉村さんが震えながら雄叫びをあげ、そして俺に突っ込んできた。
不意を突かれた俺は、「これはマズイ!」という状況に
何が起こったかというと、吉村さんが俺の手を股間から引き剥がしたのだ。
油断した。
防御が解かれた急所に、さて何が来る?
思いっきり蹴り上げられたりしたら、きっと俺は再起不能になるだろう。
想像すると身の毛もよだつおぞましい事態だ。
「――ッ!」
俺の股間に衝撃が走る。
吉村さんの右手が、俺の股間をグワシッと
そのときの吉村さん、鬼の
そしてその瞬間にカシャリーンという
鬼の顔がパッと消え、丸皿のように見開かれた吉村さんの目が俺の隣を見上げた。
そこには携帯電話を構えた彩芽さんが冷たい眼で立っていた。
「吉村さん、私はあなたのその姿を撮ったわ。カメラに収めたの。これがどういう意味か分かるよね?」
「あんた、あたしを脅す気⁉」
「武器にはしないわ。盾にするだけ。つまり、身を引いてって言っているの」
敵が吉村さん一人になったためか、彩芽さんも少々強気に出られたようだ。
俺の胸の辺りを
「清純で
吉村さんと彩芽さんの視線がぶつかり合う。
彩芽さんは右手に携帯を持ち、吉村さんは右手に……。
「吉村さん、いつまで掴んでいるんだい? そろそろ離してくれよ」
俺の言葉にハッとした吉村さんは、俺の股間から慌てて手を離して飛び退いた。
意外にも彼女は赤面していた。
ついさっきの不良少女の行動は、てっきり不良ゆえの性の乱れによる日常的なことだと思っていたが、そうではなかった。
彼女は激情に任せて大胆な行動を取ったにすぎず、実は彼女はとびっきりウブな女の子だったようだ。
だからこそ、彩芽さんの撮った写真は絶大な威力を発揮する。
吉村さんにはもう俺も彩芽さんも見えていない。
「もう、バカっ! 染紅のエッチーっ!」
吉村さんは絶叫しながら走って逃げていった。
エッチ? なぜ俺が……。
体育の着替えのときならまだしも、いまのは完全に吉村さんの暴走というか、自滅の気がする。
俺の股間がそんなに気持ち悪かったのだろうか。
「あ、あの……染紅君、大丈夫だった?」
「え、ああ、掴まれただけだったからね」
「あ、いや、べつにそこのことだけじゃなくて、全身……。結構痛めつけられていたから、怪我とかしてない?」
彩芽さんは頬をほんのり赤らめ、視線を逸らしながら言った。声は尻すぼみに小さくなる。
彼女も下系は苦手のようだ。
ただ、ここでも断っておくが、俺は下ネタが好きなわけではない。
吉村さんの股間掴みが想定外だったから、素で答えると股間の安否の返事になってしまっただけである。
「平気だよ」
そうは言ったものの、もしかしたら明日になれば身体中に
ただし、心のほうは平気という答えで間違いない。
「強いんだね、染紅君」
それは嫌でも
俺の姉だ。
俺は姉に鍛えられているから彩芽さんを助けたのではない。
姉との接触に備えて自分を鍛えるために、ただ自分の体に
俺は生活の中で、ただ苦労する選択肢を取ったり、あえて面倒な方法を取ったりすることが多い。
それは俺が自分の心と体を鍛えたいからで、それはすなわち、姉との生活に耐えるための訓練、対策、慣らし、あるいは一種の予防接種、防災措置のようなものである。
これを
特に心のほう。
だから常に覚悟を持ち、心身ともに鍛えておかなければならないのだ。そうでなければ死んでしまう、と最近では強迫観念すら
「ぜんぜん強くなんかないよ。だから、強くなるために自らに苦行を強いるんだ。君を助けるためとか、そんな
それを聞いた彩芽さんは、ニコッと笑った。
俺はしかしその笑顔に背筋を凍らせ、
例えるならば、鏡を見て首元にスズメバチがとまっているのを見つけてしまったような戦慄だった。
笑顔と戦慄、この因果関係はきっと、俺以外の誰にも理解できないだろう。
べつに彩芽さんが妙なオーラをまとっていたとか、そういうわけではない。
ただ、美人の笑顔というのが、俺の中では恐怖が訪れる前兆、その
ドキッとして喜ぶところを、ゾクッとして恐れるという体質は、完全に姉によってもたらされた俺独自の
「でも、ありがとう。こういうときは、真意が何にしても『君を助けたかった』でいいと思うよ。それに、染紅君は私を助けることを崇高だと言ってくれた。それって私が助かることを願っていたから出てきた言葉だよね」
再び身震いを強いられた。
俺はいつもバカ正直に「自分を鍛えるためにやったこと」と、相手の感謝の言葉を払いのけてしまうのだが、その言葉の意味を理解する者は少ない。
たいていは、わけも分からず「うん? まあ、いいや。ありがとう」で終わる。
だが、俺の事情を知らないはずの彩芽さんは、俺の言葉の意味を理解したうえで言葉をかけてくれた。
成績は上の中くらいの優等生、いわゆる才色兼備の美人秀才。言葉のバックグラウンドの理解力が素晴らしい。
まるで、誰かさんのようだ。
ただしその誰かさんは、言葉の裏に潜んでいる知られたくない事情まで
「それじゃあ、今日はありがとね、
彩芽さんは帰るとき、満面の笑顔で大きく手を振りながら、そう俺の名を呼んでいった。
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