第2話

 ああ、最悪だ。


 せっかくの休日を満喫しようと思ったら、しゃっくりが出て、気づけば月曜日になっていた。

 自分でも何を言っているのか分からないが、辻褄つじつま合わせなんかのために昨日という日を思い返すような愚行をやってはいけない。

 そんなことをしたら、間違いなく恐怖で震えが止まらなくなる。


 そういうわけで、俺にとっての忘却は現象ではなく行為であり、特技の一つでもある。

 コツは思い出そうとしないこと。

 ただし、気を抜くと大事なことまで忘れてしまう。


 ところで、達観したような思考を巡らせて気取っている俺だが、実はまだ中学生である。

 広蒼こうそう中学校、二年二組、染紅隼人。これでシグレハヤトと読む。


 俺はいま、非常に悩ましい状況にある。

 クラスの女子たちが下着姿で言い争いをしていて、俺がその様子を廊下から覗き見ているという状況である。

 俺を変態と呼んでくれるな。とにかく説明を聞いてほしい。


 次は二時限目で体育の授業なのだが、体育は二クラス合同でおこなわれ、体操服への着替えは男子が一組、女子が二組でおこなうことになっている。

 二組の俺は一組に移動しなければならないのだが、一時限目の国語の授業でウトウトしていたせいか、体操服を持っていくのを忘れてしまった。

 だから取りに戻ったわけだ。

 だが女子の着替えはすでに始まっており、教室に入ることができなかった。

 教室のカーテンがすべて閉まっていたら、それは男子禁制の立て札と同等の意味をなすのだ。

 着替えが終わった誰かに取ってきてもらえばいいのだが、姿を見せずに廊下から叫ぶと格好が悪いため、着替え終えた誰かが出てくるのを待っているというわけである。


 しかし、誰も出てこない。

 声はかすかに聞こえる。なにやら女子がもめているらしい。

 このままでは授業に遅れるという焦りもあり、状況を把握するため、仕方なく、あくまで仕方なく、本意ではないが仕方なく、俺は教室の中をそっと覗き見ることにした。


 喧嘩しているのは二人の女子だった。

 一人は横紙破りの鶏鳴狗盗けいめいくとうなヤンキー女子の吉村よしむら朱里しゅり。一組の女子。

 色黒の肌で髪が黄色いから一目で分かる。

 さらに彼女は長身で、淡い色のウェーブが平均女子より頭一つ分くらい抜きん出ている。

 胸も大きい。そのボリュームをフルーツに例えるならばメロンだ。イチゴ、ミカン、リンゴ、メロン、スイカと並べた場合のメロンである。

 その抜群と呼ぶにふさわしいスタイルに髪と肌も合わせ、彼女の存在感は圧倒的だった。


 もう一人は……。

 おっと、あれは彩芽あやめさんだ。品行方正、才色兼備、恬淡寡欲てんたんかよくという俺的理想三拍子のそろった女の子、彩芽あやめあずささん。俺のクラスメイト。

 艶のある黒髪は体育とあって普段のロングストレートがまとめられてポニーテールになっている。

 髪でサイドを隠す必要のない本物の小顔で、その小さい顔に並ぶ大きい瞳と小さい鼻と上品な口のバランスが美しい。

 しかも透き通るような白く滑らかな肌でコートされている。


 彩芽さんは俺たち二年男子の会話の中で最も名前が出てくる女子である。

 それはつまり、学年でいちばん人気があるということであり、すなわち最もかわいい娘ということだ。

 中学生における女子の人気なんて、上位になればなるほど性格など関係なく容姿に比例するものだと思う。「好きとかわいいとの違いって何だろう?」などと本気で相談してくるような輩がいるくらいなのだ。

 しかしながら、それでいて彩芽さんは性格の悪い子ではない。男子からはもちろん、女子からも好かれている。彼女に話しかける者は皆、笑顔か照れ顔かのどちらかだ。


 そんな人望も人気も厚い彩芽さんが、その華奢きゃしゃな体を不良女子の吉村さんに突き飛ばされ、精緻せいちに敷き詰められた木板の床に尻餅をついている。


 ああ、ショーツ越しの床は冷たいだろうなぁ。かわいそうに、彩芽さん……。


 ……淡いピンク……。


 おっと、駄目だ、駄目だ。みんなのアイドル彩芽さんの下着姿を断りもなくジロジロ見てはいけない。


 ただし、見過ごしてもいけない。この状況を!


 聞く限りでは彩芽さんは何も悪くない。吉村のヤツが嫉妬心からか一方的にナンクセをつけているだけだ。

 しかし仲裁に入ろうと俺なんかが二人の間に割って入った時点で、吉村さんどころか彩芽さんを含む女子全員を敵に回してしまう。

 こういうときの女子の団結力は恐ろしいことを俺は知っている。

 仮に俺がその代償を払ったとして、彩芽さんが根本的に救われるわけでもない。


 俺は扉の隙間をきっちり閉め、教室に背を向けて直立した。

 嘆息たんそくの混じった空気を吐き出してから新鮮な空気を吸い、声が教室方向へ飛ぶよう顔を傾け、手を添えて叫んだ。


「すいまっせーん! 体操服忘れたんで、取ってもらえますー?」


「あっ、はーい」


 傍観者の一人だった女子が返事をしてパタパタという足音とともに近づいてきた。

 カララと扉が少し開き、白い華奢な腕が飛び出した。

 細いのにフワッとしたその腕を俺の視線が辿ると、指からは縛り紐がぶら下がっていて、衣類の詰まった袋が下でゆっくり揺れていた。

 揺れている白地の袋にはピンクとイエローの小さな花が刺繍ししゅうしてあった。


「それ、俺のじゃないよ」


「あ、ごめんなさいっ。これ私のだった」


 おいっ、御茶目さんか!


 そりゃそうだ。俺が誰で、俺の体操服の場所がどこか、それを聞かずに持ってきたのだから、それはプロバブリー、俺のものではないはずだ。

 まあ、傍観者といえども緊張していたということだろう。救いの手を差し伸べてやりたくてもできない。できないものはできない。傍観者と言うと一方的に責め立てるような響きがあるが、関心を示さない者と、勇気が足りない者とをひとくくりにしてしまうのはよくないと思う。


「ちょっと待っててね」


 そう言って彼女は皆に早く着替えを済ませるよう呼びかけた。おかげで彩芽さんと吉村さんのいざこざはいったん流れることとなった。


 だが残念なことに、着替えるのが遅れた俺は体育の授業において遅刻という烙印らくいんを出席簿に押されることとなったのだった。

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