東雲

第1話 私

愛情を求めていたのかもしれない。

なぜあんなに感情的になってしまったのだろう。

私が主悪の根源なのかもしれないね。

大学入学と同時に付き合い始めた彼は、優しいをそのまま人間にしたような、私の理想の人物であった。

喧嘩もなく4年間を過ごし、卒業後すぐに婚約となった。それが大きな分岐点だった。しなければ良かった。ずっとカップルって呼ばれる中途関係の方が合っていたのかもしれないわ。

卒業して2人とも東京で就職、彼はエンジニア、私は輸入食品販売員。やりたかった仕事、でも劣悪な職場であった。平日はお互い夜遅くに帰宅、2人して夕食を食べる気力も、入浴する気力も皆無でそのまま眠りにつく。彼は早朝5時に部屋を出ていく。空気みたいな生活だ。顔を合わせるのは土日だけで、会話は無い。重たい瞼が沈下していく。

休日の朝は私にとっても彼にとっても、夜と変わりない。毎日が極夜のようだ。眼目は生きていない、屍と同様である。

私はそれでも彼と別れることができない。仕事もやめられない。こんな荒んだ雲のような夫婦生活でも愛はある。フケの付いた髪の毛をボリっと一掻きするたび、汚れが地を這う。

部屋にはゴミが溜まっていく。小蝿がうるさい。

失敗だった。大学4年間の幸せな日々を思い出すたび、ダム決壊のように涙腺が崩れ落ちる。

でも、それは私だけじゃない。彼も上司に無理矢理覚えさせられた煙草をベランダでシュパり、時折咳き込みながら鼻を啜っている。後ろ姿で見えないが、腕の動きからして私と同じなのだ。

失うことを許されない大切な「情」にロックがかけられ、2度と開けなくなっていた。

やがて愛も無くなるのか、恐ろしくてたまらない。

結婚して、早2年私は彼から退職報告を受けた。事前報告も無しにである。

彼の久しぶりの声を聞けたことよりも、耐え、溜め続けてきた怒りが私の正常制御を遂に奪った。


「ふざけるな!生活はどうすんだよてめぇ!私のしょっぱい給料でどう生活すればいい?久しぶりに喋ったと思ったらやめましただ?殺したい」


彼の土下座は貧相であった。眼下に映るあの愛した人の姿はどこにもない。小声ですみませんと連唱していた。

ハッとなった頃にはもう、髪を鷲掴みにして彼の顔を覗いていた。これは、私でもなかった。

潜んでいた別私を鎮めようと、掴んだ手を離し、和式トイレ座りをやめ、フローリングに両膝を跪かせ、彼の頭だけを抱擁した。彼の顔も泪も見えない。ただ震えだけが私の体を伝った。


目覚めた頃には、彼の姿はなく、涙のシミだけがフローリングにこびり付いていた。普通ならいないと探すのだが、日頃の疲労、昨夜の誤作動によるショックにより思考がそこまで追いついていなかった。

スマホの画面には、店長からのものすごい着信の数々、恐らく何してんだ的な電話だろう。ただ今の私には電話を折り返す気力さえない。意識が未だ朦朧としている。

意識が正常に機能し始めたのは、目覚めた午前10時から3時間後のことであった。立ち上がり、閉め切っていたカーテンを開け、1日の恵みを浴びる。溜まった50件もの着信履歴の一つをタップし、店長に電話を入れる。予想通り、ツノが生えていた。かなりご立腹の様子であった。

私は躊躇うことなく、退職しますの一言を呟きぶつ切りした。

それよりもいなくなった彼が気になる。彼の番号に何度も掛けたが一向に繋がる気配はない。

店長からの電話を着信拒否にし、あらゆる手段で連絡を試みる。SNSのDMや隣の住人、アパート近くの一軒家にお住まいの方やコンビニやスーパー、パチンコ店、交番、最寄駅。いくら探しても見つからぬまま、3ヶ月が過ぎた。実家にもいなかった。

私はまだこの世にいると信じていた。殺したいなんか言ったけど、本気ならもう殺めてる。


「戻ってきてよ...」


今日の東京は11月下旬にも関わらず真夏のような暑さで、扇風機が私の雑な私服を揺すっている。

せっかく流した涙も最初から無かったかのように乾かす。

テレビでは今の渋谷の様子が映し出されていた。

よく、ライブを見に渋谷に行ったな。ライブキッズだったもんね。

懐かしに身を浸していた矢先、私のスマホが鳴った。知らない番号からであった。詐欺電話かもしれないと思いながらももしかしたらと思い通話にすると案の定、彼からだった。


「莉子、長い間ごめん」


「いいよ。元気そうで良かった」


声を荒げることはしなかった。


「今どこに?」


彼の電話の後ろでおばあさんの声が聞こえる。


「あぁ、今母親の実家に来てる。心配かけたな」


謝ろうとした時、おばあさんのこっちにおいでという声がかすかに電話の向こうからしたあと、突然切れた。

翌夕、彼の車がダムに落ちたこと、遺体が上がらないことを群馬県警からの一報を受け知った。

すぐに身支度を整え現場に赴き、全面がひしゃげた無人の車と対面した。

彼の母親の話では実家はダム湖に20年前に沈んだらしい。

何もない。

私は甲斐された。

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