僕とシュネーと、ふたりだけの図書館
イワサ コウ
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薬剤の、鼻腔を刺すような刺激臭が部屋に満ちていた。僕はその淀んだ空気にふぅ、と紫煙を吐き出して、更に室内環境を汚染する。
全てのコーティングが終わった本の表紙が、照明の明かりを受けて艶々と光っている。ひと撫でして、滑らかで硬いプラスティックの様な手触りを確かめる。その下にある、本来の柔らかでどこかしっとりとした革の質感は、これで永遠に閉じ込められた。
僕は短くなった煙草を灰皿に押し付けて、新しい一本を咥えると、火をつけないまま立ち上がった。ドアを開けると、新鮮な潮風が流れ込んでくる。静かで、生温くて、湿っぽい夜の風。
日焼けしたデッキの上に立って、どこまでも続く海面をぼんやりと見つめる。蒼白い月光が波の表面で控えめに踊って、淡く辺りを照らしている。時折、海面から突き出るようにして、建物の頭が見えたりもするが、そこから生き物の気配がすることは殆どない。
こんな夜には時折、この世界にはもう、僕しかいないみたいだ、と考えたりする。実のところ、人間はもう、さほど残ってはいないのだけれど。
五年前に病死した姉は晩年、僕が独りになってしまうことを酷く気にしていた。姉と僕の間には、子供ができなかった。気にする必要はないと何度も言ったけれど、最後までそれは彼女に伝わっていなかった様に思う。僕は孤独が嫌いではなかったけれど、姉はそうではなかった。きっと、僕と二人きりの生活も、寂しくて仕方なかったのだと思う。
こんなふうに、人類が築き上げた世界が海底に取り残されてしまう前ならば、姉はきっと、たくさんの友人に囲まれて、賑やかに、幸せに、生きただろう。けれど、現実の海の上はいつだって、とても静かだ。
だから、この船よりずっと下の海底で、賑やかな文明が息づいているということを思うと、少し不思議な気持ちになる。
船縁から身を乗り出して、夜の海を覗き込む。真っ暗で何も見えない。
「先生、そんな身を乗り出したら危ないですよ」
下の方で、声が聞こえた。海面から、ひょこりと顔を出している少女が見える。濡れた栗色の髪が、月光を受けて静かに輝いていた。
僕は船縁から一歩だけ離れて、彼女に声を掛けた。
「こんばんは、シュネー」
少女がにこりと笑う。
彼女は僕と違って、海の中に住う者だった。嘗て人間たちが、空想上の生き物だと思っていた存在。
「こんばんは、先生。今日もプロポーズしにきましたよ! あと、本も読みに」
「本だけにしときなさい」
彼女は、読書を愛していた。そして、何故か僕に求婚してくる、風変わりな人魚だった。
僕とシュネーと、ふたりだけの図書館 イワサ コウ @iwasa_kou
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