第七章 藩是(3)
***
その日は朝から曇天であったが、昼に差し掛かると空はやがてしとしとと雨を降らせた。
瑠璃は珍しく奥御殿に籠り、じっと自室に思案する。
雨が降る割に重苦しさを感じないのは、春の雨のせいだろう。
乾いた風を潤すような、静かな雨だ。
「あ、ほんとに姫様がいる」
戸口から掛かる声に振り向けば、澪がもの珍しげに目を丸くして入ってくるところであった。
「なんじゃ、澪も退屈なのか?」
「え? いえ、そういうわけじゃありませんけど。さっき亀岡様が瑠璃様が大人しくしてる! って気味悪がってらしたので」
ちょっと様子を見に来たら、本当に瑠璃がじっとしているので驚いた。
と、それだけのことらしい。
「今日はお出掛けにならないんですか? 砲術とやらはどうしたんです」
あんなに張り切っていたくせに、と澪は言うが、この雨模様では恐らく射撃場へ出ることはないだろう。
第一、今朝一番で新十郎に脅され、らしくもなく自分の立ち位置というものを改めて深く実感させられている最中だ。
「澪、ちょっと聞いてもよいか」
「何です?」
「もし、もしじゃぞ? 私が降嫁するとしたら、誰が適任じゃ?」
するすると畳の上を歩んで瑠璃のそばへ寄った澪が、その動きを止めた。
「降嫁……? するんですか??」
「だから、もしもの話じゃ」
すると澪は露骨に解せないといった面持ちで、暫時考え込んでしまう。
が、ややあって真顔で瑠璃に目を向けた。
「……いや、姫様が嫁がれる先が大変不憫かなと思うのでやめたほうがよろしいのでは?」
「……だいぶ真面目に聞いておるんだがの」
いつもなら憤慨してみせるところだが、今日に限っては何故かそんな気力が湧いてこなかった。
その様子を澪も流石に訝ったのか、やがて慮るような笑顔を向ける。
「何があったか存じませんが、そうなったらなったで、姫様がお慕いする方のところへ嫁がれたらよろしいのでは?」
「私が慕う相手……?」
問い返せば、澪は深々と頷いてみせる。
見方を変えれば、大名家の柵に固められた婚姻を免除されるようなものだ。
「この方に添い遂げたい! ってお相手を見つけるんです。しょっちゅう出歩かれてるのに、そういう方はいらっしゃらないんですか?」
澪は楽しそうに目を輝かせたが、どうも瑠璃にはピンとこない。
確かにお忍びで出掛けては様々な人に会うが、澪の言うような添い遂げたいとまで思う相手は想像がつかなかった。
「さあ……考えたこともないな。共に過ごして楽しい者はたくさんあるが……」
瑠璃はごろりと畳に仰向けになり、そのまま天井を見つめる。
考えたところで答えが出るわけでもなく、瑠璃はやがて腹に力を込めて起き上がった。
彼らの進言は、平たく言ってしまえば若君やその周辺には近付くな、ということだ。
「姫様くらいのお年頃なら、恋の一つや二つはなさってておかしくないんですけどね……。まあ、悩みはさておき、大人しくお過ごしなら構いません」
煮え切らずにいる瑠璃に呆れたのか、澪は大袈裟に肩を落とす。
「まあ、ゆっくりお悩み下さい」
そう言い置いて、澪は再び立ち上がった。
「え? もう行くのか? もうちょっと一緒に悩まぬか?」
「そんな贅沢なお悩み、お断りします」
「冷たいのー……」
部屋から覗ける中庭では、風に撓る篠竹の葉が、白糸の雨に打たれて項垂れる。
瞬く間に去って行った澪を見送って暫く、瑠璃は人知れず吐息した。
***
家中にも、幕府を扶くことこそ義とする者は多い。
外様大名とはいえ、長きに亘って仕えた主に対し掌を返すような真似は恥ずべき行為と考える者が多かった。
丹羽長秀以来の家風とでも言うべきだろうか。
その一方で民政に心を砕き領民に寄り添ってきた臣や、元より勤王の志に篤い者は帰順を唱えた。
藩主の意向を待って静観していた者も、ひとたび方針が定められれば主家に従う。
すると形勢は圧倒的に一学らの持論に傾いた。
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