第七章 藩是(1)

 

 

 二本松藩主丹羽長国が江戸を発ったのは、二月二十三日のことであった。

 二本松藩が態度を明確にしたのは、それとほぼ時同じくしてのことだ。

 藩主自らが、その死生存亡を徳川家と倶にすることを家中に申し渡したのである。

 江戸を出立した報と前後して、その表明は国許へも届けられた。

 これにより、城内の恭順派の声も俄に鳴りを潜めた。朝廷を牛耳ったも同然の薩長に強い敵意を抱く大多数の家中の、声高に反薩長を叫ぶ声が強くなったのである。

 その日も普段通り朝稽古に向かおうと木刀片手に庭へ出る寸前で、瑠璃は何者かに腕を引かれた。

「!? 何奴じゃ!」

 城中ということもあってすっかり油断していた瑠璃は、咄嗟に臨戦態勢を取る。

 と、振り返った先にいたのは、家老丹羽一学であった。

「しーッ! わしです、あまり騒ぎ立てぬよう!」

「なんじゃ、一学殿か。びっくりさせおって」

 普通に声を掛ければ良いものを、突然腕を掴まれれば騒ぎ立てもする。

 だが、一学は悪びれるどころかぐいぐいと腕を引き、何処かへ連れて行こうとする。

「瑠璃様にちとお話がございましてな、こちらへ御出まし頂きたい」

「いやしかし、これから鳴海との稽古が──」

「大谷も既に捕まえてございます。瑠璃様も少々ツラをお貸し下され」

「ツラってそなた……、何というか、そなたは本当に──何というかじゃの……」

「その何というかの辺りは追々伺い申す」

 握力に遠慮は感じられるものの、一学は問答無用でぐいぐい手を引く。

 鳴海も同席ならばと引かれるままについて行くが、間もなく瑠璃はそれを後悔した。

「やーっぱり新十郎殿もおったか」

 一学の声が掛かった時点で薄々予見していたが、番頭詰所へ招じ入れられるとすぐに新十郎が清々しい笑顔で出迎えたのである。

 ついでに不貞腐れた様子の鳴海も、しっかり同席していた。

「瑠璃様には今朝もご機嫌麗しゅう」

「麗しゅうないわ。一学殿に腕を引っ掴まれた時はどこの曲者かと思うたぞ」

 げんなりと肩を落としたが、瑠璃は木刀を抱えて渋々着座する。

 次いで一学もその場に座すが、鳴海はじっと一学を睨め付けたまま、ぎりぎりと歯噛みした。

「一学殿、瑠璃様のか弱い細腕を鷲掴みにしたというのはまことか……」

 叫びこそしないが、腸が煮えているような声音である。

「喧しいぞ大谷、歯軋りをするな。仕方なかろう、新十郎が内密にお連れせよと申すのだ。声を張り上げてお呼びするわけにもゆかぬだろう」

「一学殿、さり気なく私のせいにしないで頂けませぬか。腕を引っ張って来いとは申しておりませんぞ」

「ぐぎぎぎ……、うちの瑠璃様に何という無体を! この助平じじいめ!」

「すっ助平!? 大谷、貴様、このわしが一体何年マチ一筋でいると思うておるのだ!」

「あぁ、一学殿には奥方以外の女人は見えておられませんからなあー。……たぶん」

「新十郎、たぶんは余計だ!!」

 人を呼び立てておいて、実に喧しい。

「……いいから早う用件を申さぬか」

 瑠璃が水を向けると、一学と新十郎は途端に咳払いし、居住まいを正した。

「殿が江戸を発たれ、もう幾日かすれば城へお戻りになられます。同時に徳川と命運を共にするとも仰せになられた。これで漸く我が藩の指針が定まったことになり申す」

「そのようだの」

 さらりと相槌を打つに留め、瑠璃は続きを待つ。

「瑠璃様におかれましても、殿の御意向を尊び、我らの主張をご理解頂きたく存ずる」

 この二人にとっては、自らの主張に藩主の御墨付があったようなものだ。

 何も瑠璃にまで念を押す必要もなさそうなものだが、姿勢は盤石に整えておきたいのだろう。

 徳川家への忠義として、一学、新十郎両名の唱えることに異見があるわけではない。

「私の主義主張がどうであれ、それで藩論が覆るようなことはあるまい。父上が徳川家を扶くと仰るのなら、その道をゆくまでじゃ」

 ただ、帰順を望む声にも同意出来るというだけで、いずれはどちらかを選ばねばならないことだった。

 どっちつかずでいた者たちも、これにより一学らの持論に付くだろう。

「皆が戦うなら、私も共に戦う心積もりじゃ」

「それを聞いて、安堵致しました」

 ただ、と新十郎がその顔色を曇らせる。

「瑠璃様には一つ、御願い申し上げたきことがございましてな」

「私に、か?」

 こちらが何か無理な我儘を聞き入れてもらうことはあっても、新十郎が頼み事とは珍しい。

 その上、いつも柔和な面持ちが、今は険しく眉根を寄せている。

「我が養父たる丹羽和左衛門と、若君について──」

 

   ***

 

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