序章 濫觴(4)



 このような言い合いは茶飯事だ。

 そういえば、昨朝も同じ事を言って瑠璃を揶揄ったかもしれない。

 さすがに今朝はもっと何か怒鳴ってくるかと思ったが、鳴海の意に反して瑠璃は大人しく引き下がった。

 お馴染みの揶揄にげんなりした風に溜め息を吐き、瑠璃は滴る汗を拭う。

 拭いながらこちらを見上げ、言った。

「大体、男児のない丹羽家で次代を担うのは私の夫となる者だ。ならばこそ、この国を背負えるだけの器量を持つ者でなくば、私が誰かと婚姻などすることはない。たとえ父上のご判断であろうと、相手の器が私の目に適わねば、従う気はないしな。そも私程度の腕っ節で怯む相手ならば、元より藩主としては不足……、違うか?」

 瑠璃は呆れた様子で、さらりと窘めるように言う。

 その通り、丹羽家の嗣子となるべき男児はなく、現藩主の子は瑠璃をはじめとする娘ばかりである。

 その妹たちも今はまだ年端も行かず、いずれは瑠璃が婿を取って丹羽家を存続させてゆくことになるだろう。

「違いませぬな。しかし……、単なる揶揄に正論で返すとは、些か大人げのうございますぞ」

 鳴海が更なる応酬に臨むと、瑠璃は挑発に乗ったか、僅かに口角を引き上げた。

「だが、もしそなたが私の目に不足ありやと申すなら、私も考えを改める。その時は妹に譲り、私はそうじゃな……家中の誰かに押しかけてしまえば円満解決じゃ!」

「なんとそのような。それでは家中が迷惑──」

「鳴海、貴様……」

「いやいや、皆が挙って名乗りを上げる大騒動になりかねませぬからな! 御自重頂きたいと申し上げたまで」

「………」

 鳴海が咄嗟に誤魔化せば、瑠璃は憮然とした面持ちのままで黙り込む。

 揶揄合戦に飽いたのか、或いは鳴海がこれ以上冗談を言うつもりのないことを察したのか。

 いずれにせよ、他愛のない言い合いはそこで幕引きとなる。

 勝気ではあるが飾り気は無く、変に驕ったところも無い。

 一家臣である鳴海がこうして軽口を叩けるのも、瑠璃のそうした気性ゆえだ。

 いつの間に、こんな武張った姫君に成長を遂げたのか。

 それが自分との稽古で培われたものに思えて仕方が無い。

 それでも、と鳴海は思った。

(惜しいことよ)

 これまでにも、幾度考えたか知れない。

 当代藩主である長国に、男児はない。

 男児が生まれても次々と夭折し、このほど幕臣の一柳家から養子を迎え入れるという話がまとまったばかりである。

 瑠璃はといえば、この通り心身共に壮健で、彼女がもし若君であったならば、立派に次の主君になり得たに違いなかった。

「さて」

 瑠璃はやおら鳴海に向き直り、まだ僅かに弾んでいる息を白くちらつかせながら笑いかけた。

「今朝は私も丹波殿に呼ばれていてな、これから会わねばならん。何ならそなたも一緒に来るか?」

「丹波殿に? ……いえ、私は遠慮申し上げる。この上丹波殿にまで揉まれたのでは、今日一日の身が持ちませぬからな」

 瑠璃の表情に不穏な気配を感じつつも、鳴海は敢えて普段通り返した。

「……ふふ。まったく、そなたは口が減らぬな」

 笑顔に微かな余裕が戻ったように見受けられた。

 そのまま瑠璃は踵を返して悠然と去ってしまったが、鳴海は暫くその場を動かなかった。

 

   ***

 

 近頃の城内は、これまでにない危急の事態に騒然としていた。

 昨年、将軍慶喜公が朝廷へ政権を返上し、二百有余年もの間天下を総統していた徳川幕府は、事実この日本から姿を消したことになる。

 薩摩や長州の西国雄藩の志士が京の公卿らを操り、将軍慶喜公を恭順の罠に嵌めたと聞く。

 そればかりか、新政府軍と名乗る彼ら薩長連合軍は、京都守護職の任に就いていた会津藩主松平容保公を目の敵にしているらしい。

 年明け早々、会津藩からの使者が城を訪れ、家老丹羽一学を相手にその窮状と薩長の奸策のあらん限りを説いて行った。

 その翌日には京で戦が始まり、しかも幕府軍は敗戦。

 幕府軍は江戸に引き上げたというが、悪報は更にもたらされた。

 朝敵追討令が出され、薩長率いる西軍は、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に掲げ、江戸へ向けて進発したというのだ。

 あくまで、彼らは旧幕府軍を賊として討つ構えなのである。

 無論、西に国境を接する会津藩も賊とされ、二本松藩がどちらへ付くのかが論争の大議題となっている。

(大変な世の中になったものだ)

 漸く温かみを帯びてきた冬の陽を浴び、鳴海は心中で漠然と思った。

 

 

 【第一章へ続く】

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