序章 濫觴(3)
「ここへ来る前に、妙なおなごに会ってな」
母屋の茶の間へ通され腰を落ち着けると、直人は出掛けに家の垣根に身を潜めていたおなごの話を持ち出す。
「丹羽様の姫君だと言っていたのだが、すぐに御番頭の大谷様が来られて、引き摺られて行ってしまった」
「はぁ、なんだそれは」
「どうも城から脱走して、うちに逃げ込んできたらしい」
「………」
「お前のところに行くと話したら、一緒に付いて来ると言い出してな。ぎょっとしたぞ」
色黒で大柄な偉丈夫然とした風貌の銃太郎だが、直人の話には口を開きっぱなしで呆気に取られている。
「ひ、姫君がどうしてまた……、いや待て、脱走って何だ? 城から?」
「真偽の程はわからん。大谷様が血眼で追っていたから、身分の高い方ではあるんだろうな。それに砲術の話に食い付いてきたから、変わったおなごであることは間違いない」
また今度と宣言していたが、あの様子では本当に再脱走してくる可能性がある。
直人は懸念をそのまま伝え、銃太郎の様子を覗った。
「城か……。実を言うと、明日、御家老様から呼び出しを受けているんだが。恐らく私も砲術指南役を任されるのだと思う」
故に、そんな誰とも分からぬ妙なおなごを連れて来られても、どうしようもない。
「直人は人が良いからな……。もしまた訪ねてきても、うちへ連れて来るのはやめてくれ」
「まあ諦めるよう説得はするが、確約は出来ないかな」
結構押しが強そうだったし、と直人は言い添える。
事実、あそこで追手に捕まっていなければ、きっと今日この場について来ていただろう。
「家中の噂で聞いたことはあったが、実際に遭遇したのは初めてだ。全く飾り気がないから、後ろ姿ではまさかおなごとは思わなかったが……。ああ、見目は良かったぞ?」
直人は件のおなごを思い返して興味を引こうと試みるが、銃太郎の眉間には愈々きつく皺が寄せられた。
「見目は関係ないだろう……。この危急のときに悠長に遊び歩くお
愛想のない様子で言う銃太郎に、直人は一笑した。
「江戸で垢抜けて帰ってくるかと思ったが、お前はあまり変わらんな」
無口で無愛想なままの友に、直人はどこか安堵を覚えたのであった。
***
翌朝。
「斬り込みが甘いわ! 本気でやれ、鳴海!」
霞ヶ城の中庭にて、勇ましく響く声。
剣術の稽古である。
春も近い早朝の凍る空気を突き破るかのように、一際声を張り上げて木刀を交える。
「そこだっ!!」
びしりと素早く喉元に突きを入れられ、鳴海は一敗を喫した。
「腕を上げられましたな、瑠璃様?」
喉元に木刀を突き付けられたまま、鳴海は引き攣った笑みを浮かべて相手を見返した。
「瑠璃様も、黙っておられれば見目麗しき姫君でしょうに」
勿体ない、と些かの揶揄を込めて言うが、瑠璃から返ってくるのは恨めしそうな視線ばかり。
「稽古中に女扱いするなといつも申しているであろう」
「滅相もない。女扱いなどしてはおりませんぞ? まあ、姫君扱いは致しますが」
「なお悪いわ、阿呆!」
瑠璃は木刀を下げ鋭く睨みを効かせると、ふいと鳴海に背を向けてしまった。
張り詰める寒気に包まれた背は上気して、乱れた呼吸が白く漂う。
ちらりと垣間見える頬が赤く火照っているのは寒さのせいばかりではなく、彼女が真剣に稽古に励んでいた証拠だ。
この刺すような冷気の中、着衣が肌に張り付くほど汗を流しているのもまた然り。
実際、瑠璃は日毎に腕を上げている。
その上達振りはなかなか目を瞠るものがあった。元々素質が備わっているのだろう。
「鳴海はすぐに私の言うことを忘れる! 手緩い稽古ばかり付けていると、鬼鳴海の名が廃るぞ!」
「鬼とはあんまりな言われようをなさる」
鳴海は苦笑を溢した。
「他の者には徹底して厳しく教えてやるくせに、どうして私にはそうしない!?」
「姫君ともあろうお方に、そのような不躾は出来ますまい。男子たる若君であれば兎も角も……」
むくれている、というよりも半ば本気で怒っている瑠璃に、鳴海はさらに畳み掛ける。
「それにですな」
「なんじゃ」
「あんまりお強くなられては、ご縁が遠退きますぞ?」
鬼と呼ばわれた仕返しに、思い切り意地悪く言ってやると、瑠璃は火照った顔をさらに赤くした。
「鳴海っっ!! またしてもそれを言うかっ!!」
「いやいや、瑠璃様の将来を案じて申し上げているのですが?」
「要らん世話じゃ!」
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