第9話 砂上の楼閣

 オアシスの街バーティア外での戦闘が始まるより数刻前。砂国エンジュの公都アトンでは、新公王カイルにとって大きな問題が起きていた。

 ジェスダ―ルの継嗣であるカイルと末娘のアステア姫。そして宰相マカヤを中心とした重臣たちによって、夜通し主要な者たちへの根回しや説得が行われ、カイルが新たな公王となることを宣言したのは払暁からしばらく経ってのことだった。

 それを見届けた碧炎の騎士がバーティアへと戻っていったあと、部屋に拘束していたはずのジェスダ―ルが何者かの手引きによって、御璽ぎょじと国璽を持ち出して消え去ったのだ。

「御璽がなければ、バーティアに居る兵たちは、カイル様のご命令を受け入れないかもしれません……」

 マカヤは苦渋に満ちた顔を新たな公王に向ける。

 今は何よりも、オアシスの街バーティアに向かった兵たちに新たな命を下して、ラーカディアストとの戦闘行為を止めなければいけないというのに、公王からの命である証となるものがない。

 王宮に居る者たちであれば、旭日に公王たることを宣言したカイルの姿を見ているので納得できても、それを見ていない者たちにとっては、御璽の押された書面を提示されてこそ、その命令に正当性が生まれる。

「……私が追って、父からそれらを取り返そう。おそらくまだ、城の抜け道からは出られていないはずだ」

 カイルは苦しげに眉根を寄せた。

 あのまま大人しく部屋に居てくれたなら、皇帝の約束通りジェスダールの罰は退位と蟄居で済んだはずだと思う。

 けれども。こうなってしまってはそうもいかない。せめて息子の手で捕らえ、その罪を減じてもらうより道はなかった。

「 ―― いいえ。私が参ります。お兄様はここで……ルーンの花毒の解毒薬生成をお続けください」

 父ジェスダ―ルの逃亡を聞いて青褪めていたアステアは、心を決めたように顔を上げた。

「皇帝陛下をお救い出来るのは、お兄様だけなのですから」

 アステアがつけた小さな傷から皇帝の身体に入ってしまったルーンの花毒。その解毒薬をつくれるのは、父を除けばこの兄しかいない。

 いま、その生成をやめられては困るのだ。


 アステアが帝都ザリアを出立した時、皇帝の強く前を見据えるグレイの眼差しは少しも変わらず、いつも通り生命力に溢れていた。

「私のことは心配には及ばない。アステア姫、貴女は公王の娘として、自身の役目を果たせばそれでいい。帝都ザリアに戻る必要もない」

 そう言って、碧炎の騎士を護衛に付けて送り出してくれた皇帝の姿を思い出すと、アステアは胸が苦しくなる。

 あの日まるく大きかった月も、昨夜はもう見えないほどに細くなっており、どんなに強靭な身体を持っていたとしても、花毒を摂取してこれだけの時間が経てば昏睡状態に陥いっていることは間違いない。

 まるであの月が皇帝の生命いのちを表しているような気さえして、アステアは毎夜細くなっていく月を見るのが辛かった。

 帝都に戻る必要はないと言ったエルレアの言葉の真意は分からなかったけれど、そういうわけにはいかないとアステアは思う。

 ここで兄に解毒薬を作ってもらい、一刻も早く帝都ザリアに戻ってエルレアの命を救いたかった。


「……人が、昏睡状態になってどのくらい生きていられるものか……」

 宰相マカヤは不吉な想像に肩を震わせる。

 もし皇帝エルレアが死ぬようなことになれば、今回の計画はすべて水泡に帰し、この砂国エンジュは、皇位を継承するであろう橙炎の騎士に報復されて完膚なきまでに滅ぼされるのだろうと思う。

「陛下は……エルレア様は、とても強い御方です。私がザリアに戻るまで、生きていてくださいます」

 祈るように両手を顔の前で組み、アステアはきゅっと唇を噛み締める。今は、そう信じるしかなかった。

「わかった。私はこのまま薬の生成を急ごう。アステア、父上のことは頼んだよ」

 気丈にふるまう妹を優しく見やり、カイルはそっと金色の髪を撫でる。アステアがこうまで言うのであれば、自分もそれを信じたいとカイルは思う。

 帝国で皇帝に出逢い、何か感じることがあったのだろうか。気弱で守らなければいけない存在だと思っていた妹の、それは思いもよらない変化だった。


***


 ジェスダ―ルは王族だけが知る隠し通路を必死に走り、出口に向かっていた。自分を逃してくれた従者は逃走用の馬を確保するため先に外に出ており、たった一人でこんな場所を走っている自分が情けない。

 何をどう間違えてこんな惨めなことになったのか。いくら考えても分からなかった。

 目障りな皇帝エルレアは花毒におかされ死の淵をさまよっているはずで、帝国が少しも混乱せずにこうも迅速に兵を動かすなど思いもしなかった。

 ましてや実の息子であるカイルが、帝国に与して自分を公王の位から追いやるなどと、もっと予想だにしないことだった。

 今はただ、独立すれば援助を惜しまぬと言ったを頼るしか道はないのだと、ジェスダ―ルは強く唇を噛む。このまま捕らわれて帝国に引き渡されでもしたら、命がないに違いなかった。

「 ―― お父さまっ!」

 ふいに、背後から聞き慣れた娘の声が聞こえ、ジェスダ―ルは振り返った。いつもは弱々しく響いていたその声が、何故だか今日は強い意志が宿って聞こえる。

「……アステアか。おまえが裏切ったのだな」

 自分が向かう出口の方からも人の来る気配を感じ、ジェスダ―ルは憎々しげに娘を見やった。

 皇帝を花毒に染めたという伝書を受けたときは、この美しいだけで何の役にも立たない弱々しい姫も、たまには使い道があったと喜んだ。

 口から摂取させられなかったことは残念で、死ぬまでに時間がかかるのはもどかしかったが、それでもと思っていたのに。

 こうして彼女がここにいるということは、その報告さえも嘘だったのかもしれないとジェスダ―ルは思った。

「花毒を与えることもなく、皇帝に抱かれたか、アステア」

 悲しそうな顔で近づいて来る娘に、ジェスダ―ルは下卑た笑みを浮かべ嘲笑うように言い放つ。刺客として送った娘が裏切る理由など、それしか思い浮かばなかった。

「あの若造は見目は良いらしいからな。抱かれて惚れでもしたか? それで父を売ったのか?」

 おぞましい暴言を吐きつつ、じりじりとジェスダ―ルは後ずさった。

 数刻前まで公王だった自分を兵たちが躊躇なく捕まえられるとは思わない。巧くいけば逃げ出せるだろうと、その機会をうかがっていた。

「陛下は……お父さまが話しておられたような御方ではありませんでした」

 アステアは泣きたい気持ちを抑えながら、ゆっくりと父へと歩みを進める。

「年齢は若くとも、とても高潔で素晴らしい指導者だと思えました。あの方が治める国は幸せだと思えるほどに」

 好色漢でもなく、無能でもない。ジェスダ―ルが「若造だ」などと見下せるような人物ではないのだと。先入観を捨てて向き合ってほしいと。アステアは祈るように父を見やる。

「だから……もう、やめてください」

 どうにか父にも分かってほしかった。自分の後ろに控えている兵たちに捕らえられるのではなく、みずからこちらに歩み寄ってほしかった。

「……おまえは甘いな」

 そっと伸ばしてくるアステアの手を、ジェスダ―ルは冷たく弾いた。

「あの皇帝が高潔だなどと戯言ざれごともいいところだ。は今だって大陸の統一だとかほざいて、次々と他国を併合しているではないか」

 揶揄するように口元を歪め、ジェスダ―ルは娘の顔を見やる。

 ラーカディアスト帝国は大陸の統一を掲げ、炎彩五騎士を筆頭に戦を重ねて領土を広げているのは確かだった。そこにアステアも反論はない。

 けれども ―― あの皇帝に会ってしまえば、それがもちろん正義とは思わないけれど、完全なるだとも思えなくなっている自分が不思議だった。

「それでも ―― 陛下は……」

「いつか世界中を戦乱に巻き込む脅威になると、も危惧されるほどに欲深く、戦と流血を好む残虐な皇帝よ」

 それを殺そうとする自分こそが平和を愛しているのだと、ジェスダ―ルは陶酔したように笑う。その表情はまるで何かに取り憑かれたかのように、とうてい正気には思えなかった。


「……あの御方とは、どなたのことですか?」

 今にして思えば、父ジェスダ―ルはルーンの花毒を手にしてからずっと、どこかおかしかった。多くの諫言にも耳を傾けず、まるで誰かの思惑で動かされているようにさえ思えて、アステアは震えを抑えるよう父を見やる。

 このとき初めて、父をそそのかした存在が居ることに気が付いた。

「ふん。決まっておるだろう。西の聖なる……っ!」

「……お父さま?」

 不意にジェスダ―ルの目がこぼれんばかりに見開かれ、言葉が止まった。ごぼりと異様な音がして、その口から血が溢れ出る。

「お、お父さまっ!?」

 アステアはぐらりと自分の方に傾いてくる父の身体を必死で受け止めながら、悲鳴混じりに叫んだ。 

 その背中に、深々とナイフのようなものが突き刺さっていた。ふと視線を前方に向けると、通路の先へと逃げ去る人の影が見える。

「……そこの二人だけ残して、あとはあの人影を追ってください」

 あの人影が父にナイフを投げたのだと気付き、アステアは急いで背後の兵たちにそう告げる。きっとあれが、父を唆した者へのつながりになると確信していた。

「けっきょくは……こうなるか……」

 傷が肺にまで達しているのか、息をするたびにジェスダールの口からは血が溢れ出る。その赤いものを見つめながら、彼は自分自身を嘲笑するように口を曲げた。

 皇帝の暗殺も独立も、すべての計画は砂上の楼閣のようにもろくも崩れ去り、用無しとなった自分は、にも捨てられたのだろう ―― 。

「早くお父さまを宮に運んでください。必ず……助かりますから」

 薄れていく意識の中で、あれだけひどい仕打ちをしたはずの娘だけが、心から父を案じていることに、ジェスダールはもう、笑うしかなかった。

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