第3話 皇帝エルレア
扉の向こうには、藍色がかった黒髪をうしろで一つにまとめ、動きやすそうな漆黒の軍装と、銀糸で彩られた大きな黒い
大きな机を前に座る皇帝の両隣には、緋色を基調とした軍装を身にまとう黒髪の青年と、茶系から橙を基調とした軍装をまとう紅茶色の髪をした青年が、少し離れて左右に分かれて立っていた。
「貴女が砂国エンジュのアステア姫か」
意志の強いグレイの眼差しが、貫くようにアステアを見つめて問いかけてくる。
目の前に居る皇帝は特に巨体というわけでもなく、逆に男性にしては線が細い方ではないかと思うのに、その身体から放射される覇気ともいえる強い存在感と眼光の鋭さに、アステアは息苦しさを覚えて深く頭を下げた。
言葉で応えたいと思うのに、喉が締まったように声が出て来なかった。
「白炎、ご苦労だった。もう下がっていい」
黙ったまま頭を下げる姫から視線を外し、エルレアは良く通る伸びやかな声で白炎の騎士にそう告げる。
「承知しました。姫を客殿にお送りする際は、またお呼びください。俺は碧炎の手伝いをしています」
クォーレスは軽く礼をすると、皇帝の右斜め後ろに居る緋炎の騎士に、左胸を示すように軽く目配せをしてから部屋を出て行った。
「アステア姫、顔を上げなさい」
皇帝の声が部屋に響く。静かなのに、決して逆らうことの出来ない強い意志が宿る硬質な声。アステアはおそるおそる顔を上げた。
皇帝の表情からは感情や思惑など何ひとつ読み取れず、ただただ強い視線がアステアを見据えていた。
「皇帝陛下に……ご挨拶を申し上げます。砂国エンジュの公王が末娘、アステア・ディアナ・エンジュリアと申します」
アステアは強いて笑顔をつくり、震えそうになる手を必死に抑えながら、優雅な礼をとる。
この皇帝の強いグレイの眼差しの前では、何事も隠し立てすることが出来ない。そんな錯覚さえ覚えてしまう。
確かこの人は、四年前に前皇帝が亡くなったことで、十八歳という若さで即位した皇帝のはずだった。今年で二十二歳と聞いており、自分とたいして年齢も違わない。
それなのに、こうも強い意志と存在感を持てるものなのかと、アステアは驚いた。
父ジェスダール曰く、生意気な若造が粋がっているのだと。愛妾を横に侍らせる好色漢なのだと。そう話していた皇帝像は、まったくの見当違いだとすぐに分かった。
「謁見の申し出から三日も放っておいて悪かったな」
部屋の中央に置かれたソファに座るようアステアに促しながら、エルレアはふと笑むように口端をあげた。
「私は構わないと言ったのだが、うしろの者たちがうるさくてな」
背後を軽く見やり、困ったものだというように肩をすくめてみせる。そうする皇帝の姿からは、怖ろしいまでの覇気は消えていた。
「……当然のことかと思います。約束もなしに訪問してしまったこちらが悪いのです」
ようやく呼吸が出来たように思えて、アステアは小さく息をつく。
この人たちに砂国エンジュの企みは知られてしまっているのか、否か。それだけが気がかりで、ちらりと部屋に居る人々の様子を盗み見るように目を上げた
「あ……っ」
その瞬間、こちらを見ていた青緑の瞳と視線が合った。
部屋の中に皇帝のほかに騎士が二人いることは初めから気が付いていた。しかしもう一人、皇帝の傍に人がいることに、アステアはこのとき初めて気が付いた。
透きとおる泉のような淡い色の髪と、その泉に映える森林のような深い青緑の瞳。男性の服装を身に着けてはいるが、溜息が出るほどに美しいその姿は天女のようで、アステアでさえ見惚れてしまう。
あれが、父の言っていた「側近として常に横に侍らせている寵姫」なのだろうか。
「ご理解いただけて、何よりです。我らにとってはエルレア様の身の安全をお守りすることが第一ですので」
ふわりと、華が開くようにその人は微笑んで、何を思ったのか、アステアの方へと優雅な歩調で近づいて来る。
一歩ずつこちらに近づいて来るごとに、ゆるやかに花が香るような気さえして、アステアは圧倒されたように息を吞んだ。
「カレン、すまないが彼女にお茶を持ってくるようマリルに伝えてくれ。それと、碧炎に準備はそのまま進めるようにと」
あと数歩でアステアの前にたどり着こうかというとき、ふいに皇帝に声をかけられて、カレンと呼ばれたその人は立ち止まった。
ゆっくりと皇帝を振り返り、お互いに視線を交わすと、何かを理解したようにそのままふわりと笑う。
「承知しました。すぐに行って参りましょう」
くるり背を向けてカレンが部屋の外へと出ていくのを、アステアは狐につままれたように眺めていた。
皇帝とカレンのあいだに流れる空気は信頼に満ちてはいるが、男女の甘やかな雰囲気は感じられなかった。
けれども。あのような美しい寵姫がいるのなら、父ジェスダールの思惑とは違い、皇帝の食指が自分に動くことはないだろうと思う。
そのことにホッとすると同時に、ルーンの花毒の用途を思い溜息が出た。このまま何もなさずに国に戻れば、父は自分を許さないだろうことは分かっていた。
恩ある国の皇帝を暗殺するなどという卑劣な真似はしたくない。けれども、しなければいけないという焦燥感が、寄せては返す波のようにアステアの心を乱す。
自分自身でも、どうすればいいのか分からなかった。
「アステア姫。私は無駄が嫌いだ。だから単刀直入に聞く。何か、私に言うことはあるか?」
すっと音もなく立ち上がりながら、皇帝エルレアは再び強いまなざしをアステアに向けた。
その厳しく強い眼光に、やはりこちらの計画は知られているのだと悟る。もちろんルーンの花毒という存在までは知られていないはずだが、自分が刺客だということは分かっているのだろう。
規則的に軍靴を鳴らして近づいて来る皇帝の姿は、あたかも死を告げる最終審判のようで。けれども、どこか救いの神のようにも見えた。
「何も言うことがないなら、それでも良い」
アステアの向かいのソファに腰を下ろし、皇帝は切れ上がるようにあざやかな笑みを浮かべた。そのグレイの瞳はまっすぐ前に向けられて揺るぎない。
彼女の意志に任せ、無理に聞き出すことはしないというその態度は、逆に刃となってアステアの心を切り裂くようにかき乱す。
脅しや拷問などで責め訊いてくるのであれば、祖国を護るためにも決して話さないという決意を固められるのに。
「……陛下。いま、私が申し上げられることはございません」
アステアは、ゆっくりと大きな深呼吸をひとつすると、皇帝のグレイの眼差しをじっと見やる。
「ただ……少しだけ、考える時間を頂けないでしょうか。図々しいお願いだと分かっておりますが」
しっかりと皇帝の目を見つめ返したのは、ここに来てから初めてだった。
そうして見つめたグレイのその眼差しは、今まで怖ろしく思えていたというのに、どこかあたたかく、優しい色が隠れているようにも見えた。
「構わない。私は所用で席を外すが、姫はここで少し休むと良い。部屋に戻って考えたければ、そこにいる橙炎にでも言えばいいだろう」
ふっと笑むと、皇帝は紅茶色の髪があざやかな、美貌の騎士に目を向ける。
「陛下のご命令とあれば、雑用でも何でもやりますよ。どうせなら掃除を任せて頂けると嬉しいけどね」
にっこりと、翠玉のような瞳を細めて橙炎ミレザは皇帝を見やる。
「橙炎、今ここの掃除は必要ない」
ひとつ年上の従兄でもある橙炎の騎士に、皇帝は呆れたように溜息をついた。ミレザの掃除の対象と言えば敵しかない。
「ふふ。そうだね。まだゴミはない、か」
「ああ」
皇帝は頷いて、そうして反対側に立つ緋炎の騎士に目を向ける。
「緋炎は私と一緒に来てもらう。良いか?」
「無論。陛下の御心のままに」
すっと緋色の外套をひるがえし、緋炎ルーヴェスタは皇帝の背後に立った。
そのまま皇帝と緋炎の騎士が部屋を出て行ったのと、侍女らしき女性がお茶の載ったトレーを運んできたのはほぼ同時だった。
「ああ、それは私が預かるよ」
皇帝を見送ったミレザはそのトレーを受け取ると、にっこりと微笑んでアステアの前にお茶を運んでくる。
「姫、どうぞ。マリルの淹れたお茶はとても美味しいですよ」
天使というものが存在するなら、こういう顔なのかもしれない。そう思えるほどの優しげな笑顔。
けれども、アステアは何故か寒気がしたように身をすくめた。
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