第2話 はじまりの宴

 抜けるような青が広がる心地好い空の下で、少女はそっとため息をついた。

 優しく暖かな日差しと涼やかな風。そして豊かに萌える美しい木々の緑と艶やかな花たち。

「本当に、きれいな庭園ね」

 露台の上から見おろせるその景色に、ここは故郷とは違う楽園のような場所なのだと少女は思う。

 そんな穏やかな景色とは不似合いな、どこか哀しそうに澄んだ青い瞳が、離れた場所に咲き広がる白く小さな花の絨毯を映して、震えるように閉じられた。

「お父様はどうして……」

 美しい小麦色の肌にまつろう黄金の長い髪が、風にまぎれてふわりと舞う。

 砂国エンジュの公王ジェスダールの娘。砂漠に咲いた薔薇のようだと謳われる美しいアステア。

 彼女は今、父親の命にて故郷から遠く離れたラーカディアストの帝都、ザリアを訪れていた。

「アステア姫様、皇宮から迎えが参りました。皇帝が会ってくださるそうです」

 ふと、背後から声をかけられて、アステアはそっと振り返った。露台に出るための大きな窓の脇に、侍女のルキが無表情で佇んでいた。

「……そう」

 沈んだ返答を返し、アステアはゆっくりと部屋の中に戻る。

 この帝都ザリアを訪れてから三日間。ずっとこの離れの客殿にとどめ置かれていたが、ようやく皇帝エルレアからの使者が来たのだとルキは言った。

「これを、失くされませんよう。とても小さいので」

 そう言ってルキが見せたのは、小指の爪ほどの小さな青い硝子の瓶。中には透明な液体がその半分ほど入っていた。

 ―― ルーンの花毒。

 砂国エンジュの王宮にのみ育つ、カンテと呼ばれる釣り鐘のような形をした純白の花がある。

 それは年に一度、たった一日だけ花をつけるという不思議な花。

 月の見えない新月の夜に、ルーンと呼ばれる神鳥の生き血をその根元に注ぐと、まるで涙を流すように花びらから透明な雫がほんの数滴こぼれ落ちる。

 それは、女性にとってはただの水。けれども男性にとっては毒となる花の露で、政敵などを葬る際に、代々エンジュの王族が密かに使用してきた秘毒だった。

 最も効果的なのは口から接種させることで、男女の営みの際にあらかじめ己の唇に紅と併せて塗っておくなどして、睦事の中で相手に悟られずに摂取させる。

 毒はゆっくりと体内をめぐり、半日から一日ほど経ってから症状が出始めてその命を奪うため、女が疑われることもまずなかった。

 そして、やや効果は落ちるが、それを塗った爪などで引っ掻いて小さな傷を負わせることが出来たなら、十日ほどで昏睡状態に陥りそのまま衰弱死させると言われている遅効性の毒だ。

 けれども、花が咲くのと新月の日が重なることは本当に稀で、滅多に入手できないものでもあった。

 それを手にしてしまったことで、父の思考は冷静さを失い狂ってしまったのだとアステアは思う。


「皇帝エルレアは、寵姫を側近として常に隣に侍らせているらしい。そんな好色漢なら、おまえにも食指が動くはずだ」

 にやにやと下卑た笑いを浮かべながら、父はこの瓶をアステアに手渡してきた。

 皇帝を色仕掛けで誘い、夜を共にしろと。そうしてこのルーンの花毒を摂取させるようにと。そう言ったのだ。

 おぞましい父の言葉に震えながらも、言うことを聞くしか出来ない弱い自分が、アステアはもどかしかった。


「お迎えの騎士の方がいらしてますが、まだほんの少年のようです。見習い騎士でしょうか。我らは侮られているのかもしれません」

 ルキは目の前の美しい姫君をさらに飾り立てるように、身支度を手早く施しながらアステアに告げる。

「砂国エンジュはラーカディアストに従属し、援助を受けている身。国としての格も天地ほど違うのです。当然のことでしょう」

 アステアは気にした様子もなく、そう応えた。

 現皇帝よりも二代前。祖父にあたる人物が、困窮していた砂漠の小さな国に手を差し延べて以来、ずっと砂国エンジュは帝国からの援助を受けてきた。

 食料や資金、人や技術。多くの物を与えられた。その対価として帝国に従属し、王国から公国へと格下げされたのは仕方がないとアステアは思っている。

 それでも帝国の一地方ではなく、公国ではあるが国という体裁をとることを許可した帝国は寛大だと思うのだ。

「でも、それも終わりですね、アステア姫」

 こそりとルキは笑む。自分たちは、皇帝を亡き者にするためにここに来た。後継者がまだいない皇帝が亡くなれば、帝国は混乱に陥るだろう。

 その隙に、砂国エンジュは独立を果たすのだ。

「このお目通りで皇帝が姫様をお気に召せば、きっと今夜には叶いますね」

 ルキは公王の語った野望ゆめを思い出すようにうっとりと目を細め、美しい姫の華奢な手のひらに青い瓶をそっと落とす。

「…………」

 ひんやりと冷たいその感触に、アステアはびくりと体を震わせた。恩ある国に対して、本当に自分はあだを為すのだろうかと怖ろしくもなる。

 けれども。今更引き返すこともできなかった。

「……参りましょう」

 

 扉の外に出ると、先ほどルキが言ったように、まだ十五、六歳かと思われる少年が壁に寄り掛かるように立っていた。

 騎士見習いとは思えない、白を基調とした華麗な騎士服を身に着けたその少年は、珍しい真っ白な長髪をゆるりと三つ編みにして、左肩から前に流している。

 こちらの準備に少し時間がかかりすぎたのか、彼は手持無沙汰そうに、つま先で床を蹴っていた。

 その怠そうな態度は、客を迎える騎士にはあるまじき行為なのではないかと思ったが、待たせたこちらも悪い。

「騎士さま、お待たせいたしました」

 アステアは申し訳なさそうに少年に声をかけた。

「あっ! いや、こちらこそ急にお迎えに上がり、申し訳ありません」

 とつぜん出てきたアステアに驚いたように、少年はぴんと背筋を伸ばし、丁寧に頭を下げる。

「俺……私は、白炎はくえんの騎士クォーレス・ジゼルと申します。アステア姫をお迎えするよう、陛下に言わ……命じられて参りました」

 普段はこんなをしていないのだろうと思う、やんちゃそうな表情が印象的だった。

「ありがとうございます。白炎さま、どうぞ気軽にお話しくださいませ」

 アステアは目の前の少年が白炎の騎士と名乗ったことに一瞬驚き、けれどもすぐに、少し膝を曲げるように長いドレスの裾を持ち上げて挨拶をする。

 先ほど侍女のルキは少年が来たことに対して、我が国を侮っていると言っていたが、とんでもない。

 炎彩五騎士えんさいごきしは皇帝以外の誰の下にもつかない、最上級の地位を確立していると言われている。そのうちの一人が迎えに来たということは、アステアを国賓として礼を尽くしているということだ。

 もちろん、炎彩五騎士の一人がこんな年若い少年だとは思いもしなかったけれど。

「あはは。信じるんだな。初めて会う奴はたいてい疑うんだけどな」

 少年は白い髪を揺らすように大きく笑った。先ほどのような丁寧な口調ではなく、屈託のない明るい物言いに変わる。

 見た目通りのやんちゃな口調が可笑しくて、アステアはくすりと笑った。

「帝国で、炎彩五騎士をかたる方がいらっしゃるとは思えませんので」

 やはりその見た目と年齢から、彼は戦場で名を馳せる炎彩五騎士の一人とは信じられないことが多いのだろう。

 しかし、帝国内で圧倒的な支持を受ける炎彩五騎士の名を騙れば、無事ただで済むはずがないのだ。

「ふーん。ゼアが言ってた通りだな」

「はい?」

 アステアが不思議そうに首をかしげると、にやりと少年は笑った。

「ゼアが、アステア姫は聡明な方らしいって言ってたんだよ。本当はゼア……碧炎へきえんの騎士が貴女を迎えに来るはずだったから、陛下に引き合わせる前に色々調べてたんだって」

 公王ジェスダールからの親善使者として帝都を訪れたアステアについて、その身辺を調べたのだということを、こともなげにクォーレスは告げる。その為にしばらく客殿にとどめ置かれていたのだということに、アステアは納得がいった。

「でも昨日ゼアがちょっとやらかしてさ、俺にその役目が回って来たってわけ」

 くくっと楽しそうに相手の失敗を笑う少年からは、碧炎の騎士が大好きなのだろうと分かる、明るい空気があった。

 けれども、その笑顔に和む余裕はアステアにはなかった。

「そう、なのですね」

 アステアは自分の周辺が調べられていたことに、きゅっと手を握り締めた。もしかすると、自分たちの計画はもう既に帝国には知られているのかもしれない。

 知らず知らずのうちに、アステアは己の左胸を飾る華やかな宝石で彩られたブローチを右手で触れた。

 その青い宝石部分には、先ほどのルーンの花毒が入った小瓶が隠されていた。このことが知られているのなら、自分はもう生きてはここを出られないだろう。

「…………」

 ちらりとその仕草を見やり、クォーレスは一瞬目を細めた。けれどもすぐに何事もなかったかのように笑みを宿し、大きな扉の前で立ち止まる。

「話しているうちに、着いちゃったな」


 その言葉にアステアはゆっくりと前を見た。

 謁見の間かそれに類する公式の場所に通されると思っていたが、目の前にあったのは、執務室への入り口のような、重厚ではあるがシンプルな扉だった。

「この部屋で、陛下とお会いになれます。どうぞ、お入りください」

 さっきまでの砕けた口調を跡形もなく消し去って、白炎の騎士はぴんと背筋を伸ばすようにアステアをエスコートする。

 客の到着を告げる声と共に重厚なその扉が開くと、その奥に、ゆったりと椅子に座った皇帝の姿が見えた。

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