病んだあなたに二刀流

星名柚花@書籍発売中

第1話

 今日は天気が良い。

 空は晴れ渡り、桜が舞っている。


 死ぬには良い日だ、ってフレーズ、どこかで聞いたことがあるんだけど、どこでだっけ。


 まあどうでもいいか、なんて思いながら私は橋の上から飛んだ。

 景色が急速に下から上へと流れ、遠ざかっていく意識の中で思ったのは一つだけ。


 ――ああ、やっと終われる。

 




 六歳下の弟はわんぱくで、とにかくじっとしてなくて、デパートやスーパーに行くと母の手を振りほどいて全力疾走するものだから、母は外出時の弟の扱いにほとほと手を焼いていた。子供用のハーネスは父方の祖母が「犬みたいで可哀想」と評し、少々マザコン気質な父もまたそれに賛同したため、母は極力ハーネスを使わないようにしていた。


 五年前。雪がちらつく寒い冬の日。夕食の支度中だった母はビールのストックがないことに気づき――母は酒を飲まないので、廊下に置かれたダンボール内のビールの残量をいちいちチェックしていない――このままでは父が不機嫌になると慌て、急遽私に弟の子守を頼んだ。


 スーパーまでは自転車で片道五分。買い物の時間を含めても、母が帰ってくるまで三十分とかからない。私はお安いご用だと快く母の頼みを引き受けた。


 母は「ごめんねありがとう」と私を拝み倒し、自転車の鍵を持って外出した。


 母が出かけた後、私は宮本武蔵をもとにしたアニメにハマっていた弟のために要らないチラシを丸めて棒を作り、弟とチャンバラごっこをした。


 体力が無尽蔵な幼い弟はまだまだ遊びたりないようだったけれど、私は終わりを宣言し、キッチンにジュースを取りに行った。


 弟はリビングに残ってアニメオリジナルの技、二天一流のナントカというへんてこな技を叫びながら棒を振り続けていた。


 弟のコップにジュースを注いでいる途中、騒がしい声や足音が急に止んだ。


 ようやく静かになったか、やれやれと思いながら両手にコップを持ってリビングに戻ると、弟は床に倒れていた。


 お揃いの二つのコップが落ちて砕け、オレンジ色の液体が弾けて私の足にかかった。


 後でわかったことだが、弟は新しい武器おもちゃに興奮して走り回り、床のチラシを踏みつけて転び、運悪くテーブルに頭をぶつけて死んだらしい。


 それからは地獄だった。母は「なぜ幼い子どもたちを置いて買い物にでかけたのか」と世間からの猛バッシングを浴びて精神を病み、父はそんな母を見捨てて離婚した。


 私と母は世間の目から逃げるように汚く狭い小さなアパートに引っ越した。


 アルコールに溺れるようになった母を傍で励ますのは私の役目であり使命だった。


 あのときチラシを片付けていれば弟は滑って転ぶこともなかった。私が目を離さなければ弟は死ななかった。悪いのは私だ。頼まれたのにちゃんとできなかった私だ。両親が離婚したのも葬儀で母が親戚一同から罵倒され、小さな棺の前で泣きながら土下座する事態に陥ったのも全て私のせいだ。


 だから私は耐えなければならない。母に泣かれても喚かれても顔面に物を投げつけられても。私が悪い私が悪い全部私のせい。母はちっとも悪くなんかない、そうに決まってる、だってそうじゃなきゃ母が壊れてしまう。このままでは母まで死んでしまう。だから笑え。笑え。ピエロになれ。一日中カーテンが締め切られた暗いリビングの窓を開け、母の顔色を窺って当たり障りのない言葉を吐き、煩わせることのない『良い子』でいなければ。スポーツはあんまり得意じゃないけどテストは満点だし学級委員だってやってるから先生には優等生だって言われてるんだよ、私頑張るよ頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張る頑張ってるまだまだ頑張るしこれからだってもっともっと頑張るねえだから笑ってお母さん――


「何笑ってんのよ気持ち悪い」

 ぽき、と心が折れたのは。

 どうにか母を笑わせようと、もう一度あの頃のように笑ってほしいと、地獄のような家で必死で笑っている私に母が心底忌々しそうに、憎らしげに吐き捨てたからだった。




 

 目を覚ますと病院にいた。

 清潔な白いベッドに横たわる私の側には母の姿。


 不健康に痩せこけた顔を涙でグシャグシャにして、母は私の手を握っていた。


 母は私の名前を呼んでまた泣いた。

 母からちゃんと名前を呼ばれるのは随分と久しぶりだ。


「ごめんね、ごめん、ごめんなさい、ごめん……」

 母が吐く息からはアルコール臭がしたけれど、でも、目からは狂気が抜けていた。


 臭い息を私に吐きかけながら、壊れた蓄音機みたいに母は私に謝った。


 ひどいことを言ってごめんなさい、顔に傷を負わせてごめんなさい、それから他にもたくさん、五年間の色んなことに対して。


 放っとくと永遠に謝り続けられそうだったから、私は「もういいよ」と母の言葉を遮った。それより伝えたいことがあった。


「……あのね」

「うん。うん、何?」

 何でも言って。なんでも聞きたい。そう言わんばかりの声色と態度だった。母は初めて見るほど必死な顔で私の手を握り、潤んだ目で私を見ていた。


「……なんとなくしか覚えてないけど。綺麗な、赤い橋があって……私は橋を渡ろうとしたの。でも、小さいこどもに邪魔された。通せんぼされて、こっちに来るなって怒られた」

 母が息を呑んだ。


「その子の顔は見えなかったけど、誰かすぐわかった。だって、二天一流のカミナリ斬りとか、カゼ斬りとか叫びながら何回も棒で叩いてくるんだもん。すごく痛いし、しつこいの。もう諦めるしかなかったよ」

「それって……」

 全く同じ人物の名前を思い浮かべたらしく、母は呆けたような顔をしている。


 弟はアニメの影響を受け、主人公になりきって技の名前を連呼していた。おかげで母もいまだに覚えていたようだ。


「追い返されたってことは、生きろってことだよね。勝手だよね。自分はさっさと死んじゃったくせに。私の半分も生きてないくせに……」

 母はなんとも表現しづらい複雑な表情を浮かべている。


「死ぬより、生きるほうが大変なのにね」

「……そうね。でも、生きて。お願いだから。お母さんも心を入れ替える。ちゃんと、本当に、頑張るから。償わせて。お願いよ」

 母は両手で私の右手を握り、額に押し付けた。


「うん。一緒に、頑張ろう」

 痛いくらいに握られた手を握り返す。


 弟に死ぬなと追い返された以上、私は生きていかねばならない。


 私がこれから戦わなきゃいけないのは世間とか、将来とか、そういうのをひっくるめた現実そのもの。


 生きることに辛くなったらアニメでも見て、弟みたいに全身全霊で叫ぼうか。

 二天一流のカミナリ斬りとか、カゼ斬りとか叫んで架空の敵をやっつけるの。

 もちろん心のなかで。

 

《END.》

 

 

 

 

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