四元肉カツレツ

沢田和早

四元肉カツレツ

「明日の昼飯は任せろ。俺がひとりで作る。おまえは俺の手料理を存分に堪能してくれ」


 大学の食堂で日替わりランチを食べ終わり、食後の満腹感に浸っていた僕の耳にこんな言葉が飛び込んできた。


「またですか。半月ほど前にも同じような言葉を聞かされて、散々な目に遭わされたような気がするんですけど」

「おや、そんな昔のことをまだ覚えているのか。過去の過ちを蒸し返すような男は女に嫌われるぞ。さっさと忘れて明日の飯だけを考えればよいのだ」


 隣の席で薄い番茶を飲みながら自己勝手な言葉を言いまくっているのは僕の先輩だ。


 先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩が一年浪人してしまったからだ。

 同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。


「わかりましたよ。でも今回はどんな料理を作るつもりなのか、今、この場で詳しく説明してください。それで納得できれば先輩に任せます」

「ほほう、なかなか慎重ではないか。いいだろう教えてやろう。四元肉しげんにくカツレツだ」


 四元肉? 聞いたことがないな。いや、似たような名前の肉をスーパーのチラシで見たことがある。確か、三元豚さんげんとん……三種類の豚を掛け合わせた豚だよな。ということは、


「それって四種類の品種を掛け合わせた肉ってことですか」

「ふっ、三元豚からの発想か。相変わらずおまえの想像力は貧困すぎて情けなくなる。俺の四元肉に品種は関係ない。関係あるのは四元数しげんすうだ」


 四元数? これまた聞いたことがない単語だ。似たような単語も思いつかない。しばらく宙で視線を泳がせていると、やれやれといった顔をして先輩が話し始めた。


「文系のおまえが四元数を知らないのも無理はない。教養課程の数学でも教えてくれないからな。四元数は水野忠邦が天保の改革に励んでいる頃、ヨーロッパに住むハミルトンというおっさんが考え出した数体系だ。四元数のアイデアを閃いた瞬間、おっさんは感激のあまり渡っていた石橋に基本公式を刻み付けたらしい。現代なら器物損壊罪で逮捕されそうな話だ。おっと悪い、話が横道に逸れちまった。で、その四元数だが、一番の特徴は積が非可換になることだ。つまりA×B=CならばB×A=-Cになるのだ。どうだ、凄いだろ!」


 先輩は目をキラキラさせて僕を見つめている。きっと「うん、四元数って凄いね!」という返事を期待しているのだろう。

 残念ながらそんな感想は毛の先ほども湧き上がってこない。先輩に限らず多いんだよなあ、こういう人って。自分が凄いと感じていることは他人も凄いと感じているに違いないという思い込み。気持ちはわかるけど十人十色を忘れちゃいけないよね。僕も肝に銘じておこう。


「四元数はわかりましたけど、そんな江戸時代の数学が何の役に立つんですか。僕にはさっぱりわからないんですけど」

「な、何の役に立つか、だと!」


 期待していた返事と正反対の言葉を聞かされたからだろう。驚愕の声を上げた先輩の顔には失望の色が浮かんでいた。


「おまえがそこまで愚かだとは思ってもみなかった。人ってものはどんな時代でも同じ感想を持つものだな。昔、フランクリンがパリで気球の実験を見ていた時、群衆のひとりがおまえと同じ疑問を投げかけたそうだ。それに答えたフランクリンの言葉は『生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つかわかるかね』だった。おまえの疑問は愚問の代表例のひとつだな」

「でも四元数は生まれたての赤ん坊じゃなくて誕生から一八〇年も経っているんでしょう。何かの役に立っているんですか?」

「ちょっと待ってろ」


 先輩は席を立つと空の湯呑に番茶を注いで戻ってきた。喋りすぎて喉が渇いたみたいだ。


「ぐびぐび、ふう~。さてと、おまえ、フレミングの左手の法則を知っているか」

「それは中学の理科で習いましたよ。電流と磁界と力の方向を表す法則でしょう」

「そうだ。例えば東向きに電流、北向きに磁界なら、力は上向きに働く。働く力は電流の大きさと磁界の強さに比例するから、東向(電流)×北向(磁界)=上向(力)と表現できる。ここまではいいか」

「はい」

「では、東向きが磁界、北向きが電流ならどうなるか。力は下向きに働く。さっきとは向きが逆だ。下向(力)=-上向(力)なので、北向(電流)×東向(磁界)=-下向(力)と表現できる。東向をI、北向をJ、上向をKと置けば、I×J=K、J×I=-Kとなる。どうだ、四元数と同じく積が非可換になるだろう。電磁気の方程式は四元数を使えば簡潔明瞭に表現できるのだ。これで四元数の有用性が理解できたはずだ」


 いや、全然理解できていませんと答えたいところではあるが、そうなるとさらに専門的な話になりそうなので、

「あ、ああ、そうですね。そういうことだったんですね、なるほどお~」

 と答えておいた。

 先輩は「やっとわかってくれたか」と満足顔で頷きながら番茶を飲み干した。よし、ここで話題を変えよう。


「それで明日の食事ですけど、四元肉のカツレツってどんな料理なんですか」

「おう、そうだ。すっかり忘れていた。四元数が電磁気学に応用できるのなら、四元数をカツレツに応用することも可能なのではないかと俺は考えたのだ」


 いや、そんな応用、絶対無理でしょう、と頭の中だけでツッコミを入れる。余計な事を言えばまた話が脱線してしまいかねない。


「具体的にはどう応用するんですか」

「調味料だ。俺はこのアイデアを閃いてから特殊な調味料の開発に没頭した。そして先日ついに完成した。特殊トンカツソースと特殊みりんだ。まず特殊トンカツソースを豚肉に塗り、特殊みりんを羊肉に塗る。そしてこの二つの肉を密着させパン粉をまぶして油で揚げると辛口焼肉ソース味のビーフカツが完成するのだ。つまり豚肉(ソース)×羊肉(みりん)=牛肉(辛口)である」

「豚肉と羊肉から牛肉を作り出せるんですか。大発明じゃないですか!」

「逆に特殊トンカツソースを羊肉に塗り、特殊みりんを豚肉に塗ると、今度は甘口焼肉ソース味のビーフカツになる。牛肉(甘口)=-牛肉(辛口)なので羊肉(ソース)×豚肉(みりん)=-牛肉(辛口)である。見事に四元数を料理に応用できたと言えるであろう」

「まるで牛肉大好き人間が描いた夢物語みたいですね」


 まったく現実味のない話だ。こんなことが可能なら食肉の世界に大革命が起きるだろう。普通の学生からこんな話を聞かされたら、話が終わる前に席を立って退室してしまったに違いない。

 だが、話しているのは普通の学生ではなく先輩だ。これまで先輩が生み出してきた数々の発明品を考えれば、これが単なる大ボラと決め付けるわけにもいかない。

 とにかくその特殊調味料とやらはすでに完成しているようだし、一度試してみるのも悪くない。


「わかりました。明日の食事は先輩に任せます。で、今回も特別料金が必要なんですか?」

「うむ。大量に調味料を作ったので大量の豚肉と羊肉で試してみたい。二千円用意してくれ」

 喋り終わる前に差し出された手のひらに千円札を二枚のせる。明日が楽しみだ。



「おう来たか。ちょうど今、揚げ始めたところだ」


 翌日の昼、先輩の部屋に入るとジュワジュワと油で揚げる音が聞こえてきた。前回と同じようにキャベツの千切りと味噌汁を作る。出来上がった頃には先輩も六枚のカツレツを揚げ終わっていた。


「購入した肉はそれぞれ二kg。今日は六百gを使って六枚作った。右三枚は甘口で左三枚は辛口だ。好きなカツを選べ」


 辛口は好きじゃないので甘口二枚と辛口一枚を選ぶ。キャベツと一緒に皿に盛っていよいよ試食だ。


「いただきます。はぐっ!」


 サクサクした衣の食感とにじみ出る肉汁。おお、これは確かにビーフの……。


「あれっ?」


 違う。ビーフじゃない。どう味わってもチキンだ。


「先輩、これチキンカツになってますよ」

「そんなはずはない。はぐっ。もぐもぐ……おや、変だな」

「変だな、じゃないですよ。特殊調味料が完成した後で試食はしたんでしょう。その時はちゃんとビーフカツになっていたんですか?」

「いや、試食などしていない。これが初めてだ。まあ、たまたま出来が悪かったんだろう。他のを食ってみよう」


 先輩に言われて残りの二枚をかじる。同じだ。二枚目は甘口チキンカツ。三枚目は辛口チキンカツ。どこをどうかじってもチキンの味わいしかしない。


「失敗ですね」

「失敗とは失礼な。豚肉と羊肉を使って鶏肉に変化したのだから失敗ではないだろう」

「安い豚肉と羊肉を使って高価な牛肉になるから意味があるんですよ。豚肉と羊肉を使ってそれよりも安い鶏肉になったところで何の意味があるんですか。それなら最初から鶏肉でカツを作った方が安上がりでしょう」

「うるさいな。失敗は成功の元って言うだろう。次は必ず成功させる。だから五千円くれ」


 先輩が右手を差し出した。冗談じゃない。これ以上の出費は真っ平御免だ。


「もう結構です。それよりも肉はまだ三kg以上残っているんでしょう。今度は合わせたりしないで豚肉だけでカツにしてください。羊肉はジンギスカンでも構いませんよ」

「それは無理だ」

「どうしてですか」

「すでに全ての肉に調味料を塗布して密着させてあるからだ」


 すぐさま台所へ向かい冷凍庫の扉を開けた。愕然とした。カツの大きさに切り分けられた豚肉と羊肉の密着肉が所狭しと積み上げられている。


「剥がしてください。豚と羊に分けてください!」

「それは無理だ。俺の開発した特殊調味料は瞬間接着剤顔負けの接着力を有している。一度くっ付けた肉はゴリラの腕力を以てしても剥がすことはできない」


 僕は冷蔵庫の前で膝から崩れ落ちた。先輩の言葉が背中に突き刺さった。


「今日からしばらくはチキンカツだ。豚と羊を使ったチキンカツとは実に豪勢ではないか。はっはっは」



 それから半月ほどが過ぎ、ようやく冷凍庫から悪夢のチキンカツが一掃された頃、先輩がこんなことを言い出した。


「実はあれからいろいろ試してみたところ、俺の特殊調味料は失敗作ではなかったことが判明したんだ」

「どういうことですか」

「温度だよ。密着肉が牛肉状態を保っていられるのは百℃以上の場合だけなんだ。それよりも低い温度になると牛肉は鶏肉に変わってしまうのだ」

「そうですか。でもそれじゃ意味ないですよ。百℃のビーフカツなんて食べられないんですから。口に入れただけで火傷してしまうでしょう」

「えっ、そうなのか。俺は食えたぞ。だからこそ高温状態ならばビーフカツになっているってことがわかったんだし。どうだ、もう一度作ってみないか。今度は揚げたてをすぐ食おう。そうすればおまえもビーフカツを楽しめるはずだ」


 呆れて言葉も出ない。先輩は味覚だけでなく口の中も人並み外れているようだ。


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