第4話

話を聞く前に領主マルセル・ネーゲルの屋敷でお風呂を貰うことになった。最初は遠慮していたすみれも地面から吹きあがって塗れた土埃で汚れていることで、書斎の煌びやかな家財を汚すことを躊躇い、甘えることとなった。服のあちこちに砂や土が入り込んでいるのも気になっていたのでありがたい。


「一緒に入らない?」

「へ?」


風呂場の外で待つつもりで扉の前で控えていたクリスに、すみれは浴場のドアを開けて無邪気に訊ねてきた。


「い、いえ、それは…」

「ダメかな?さっき覗いたら凄く広いお風呂だったよ。二人なら余裕だよ」

「広いとかそういうことでなく…」


誰かと湯浴みをするなんて、クリスでは想像もつかないすみれの申し出に驚きを隠せずにいた。夫婦ならありえるのかしらと想像するとなんだか恥ずかしくて顔に熱をもつ。この国で風呂に誘うのは身体の関係を持つことを許しあう意味を持った。

逆にすみれからすると広いお風呂といえば銭湯や温泉を想像し共に風呂に入るのは至って普通のことである。すみれがそういったことを知ってるわけがない。修学旅行で大風呂に一緒に入ることを誘ったくらいの気持ちで、深い意味を持つはずがなかった。


「わ、私は控えましょうか」


クリスより赤面していたこれから入ろうとしていた侍女が俯いて距離を置いた。


「い、いえいえいえいえ!どうかお気になさらず。私は此処で控えておりますので」


クリスは慌てて否定する。すみれは首を傾げていた。


「そ、そうですか?では僭越ながら私めが湯浴みの世話をさせていただきます。ルージェとお呼びくださいませ」

「湯浴みの世話?」

「はい。こちら湯場を任されております」

「それって何をするの?」


ルージェはクリスに視線をやった。敢えて説明するようなことなのかと訊ねたいのである。


「すみれ、様。こちらの方は湯場を快適に過ごせるように、垢をこすったり頭を梳いたりしてくださります。どうぞ肩ひじ張らずリラックスなさってください」

「ええ!?」


つまり体や頭を洗ってくれるという。すみれは首を思いっきり横に振っていらないことを示した。

思い返すと大聖堂にいる間も風呂の世話をしてくれる人がいると言われた。それがどういうことか、何をするのか判らないまま「一人で大丈夫」と断っていたのである。大聖堂だから世話をするシスターが多いのだと勝手に解釈していたので、まさか外出先にまでそういった人がいると想像しなかったのだ。お風呂の世話をして貰うなんて、すみれには考えられないことであり、他人に体を洗ってもらうのは素直に恥ずかしい。


「一人で、一人で大丈夫です!えっと、では先にいただきますね」


すみれはさっさと浴場に引っ込みドアを閉め内鍵をかけた。ルージェは驚いて引き止める。すぐにすみれは戻ってきて石鹸だけ要求した。ルージェはほっとして石鹸とタオルを準備してから出て来た。クリスに一礼をして去っていく。微かに水音がする。クリスはほっと胸を撫でおろし、すみれが出てくるのをドアの前で待った。


すみれは香り高い石鹸で全身を洗い湯船に浸かっていた。バラの花を散らした目にも鼻にゴージャスな風呂にリラックスと緊張が同時に走る。広いく飾りの多い浴室、湯船に花が散らしてあるって、洋画でしかみたことがないと落ち着かなかった。それでもお湯加減は熱すぎずぬるすぎず丁度良く、いつまでも入っていたい。バラのエキスを垂らしてあるのだろうか、湯気の香りが心地よい。

息を漏らす。人心地ついた安堵の息と、気がかりからくるため息が混じる。特に頭の中に靄が掛かった言い知れぬ不安は胸につっかえ棒が出来たような気持ち悪さがあった。


国王の言葉がすみれの頭をもたげていた。


—――次の聖女に託しても良い


決してすみれを蔑ろにした言葉ではない。何よりすみれを慮った言葉には違いないことはすみれも承知している。しかし聖女を辞めるということはこの世界を離れて元の世界に戻るということだ。

召喚される前の生活に戻る———戻れる。朝起きて用意された朝食を食べ、学校へ行き学び、友達とくだらない話に花を咲かせる。家に帰れば夕食を食べてお風呂に入る。夜は宿題や次の日の予習も程々にしてスマホで動画を見たり、本を読んだりのんびり過ごす。つまらないと思うこともあった。そんな他愛ない暮らしが恋しく思わない日は少なくない。

野宿には慣れたとはいってもお風呂に入れる日は限られる。食事も似たようなものが多くても醤油や味噌の味が欲しくなることも。

聖女としての役目は日々を忙しくしてくれるので、退屈だと思うことはなくなった。前との暮らしを比べても、それらの恋しさが些細だと思えるほど此処の暮らしは充実している。クリスやオリヴィエとの日々は楽しくて何にも代えがたいのだ。


—――もし私がいなくなっても


すみれは身震いした。底なし沼のような暗闇が足元から蝕んでいくような、体の芯が冷えていく感覚を覚える。


「やだ、おかしいな…お風呂に入ってるのに」


ぱりゃりとわざと音をたててお湯を両手で掬い顔にかける。そのまま手で顔を覆った。


「大丈夫。大丈夫」


大人が子供に言い聞かせるようにゆっくりと何度も自分を励ます。徐々に熱が戻ってくる。大きく深呼吸をすると湯気が身体の中を巡る。顔をあげゆっくりとたちあがる。


—――私は聖女すみれだ

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