第十七話 帰路に就く

 瘴気がすっかり晴れたエネロで一夜が経った。朝もやと共に静けさが町を包んでいるが、昨日までの気味悪さは一掃され澄み切った空気が満ちている。

 窓を開けて朝の清らかな風を部屋に流し込むとひんやりと肌を撫ぜた。おかげで寝不足の頭がきりっと目覚める。ベッドで眠れる貴重な機会だというのに、クリスは一晩中グルグルと様々な考えがひっきりなしに駆け巡り殆ど眠れなかった。ただ、すみれとの関係が少しだけ進展したことは喜ばしい。しかし数多ある悩みのうちひとつだけが解決しただけである。


(オリヴィエは見張りをしてくれているんだから、しっかりしなくちゃ)


 今日は王都に帰る。襲撃者の男と聖女のすみれを一緒の馬車に乗せるのは心外であるが、馬車を二脚用意するほどのお金はない。乗り合わせている間、しっかりとお守りしなくては。クリスは握りこぶしを作って胸を叩き喝をいれた。


 朝のお勤めを始めていた修道女に起きた旨を伝えるとすぐに食事を用意すると言われた。暫くすると司祭が部屋に干しぶどうのパンと野菜のスープをお盆に乗せてやってきた。


「聖女様のためにご用意するには粗末なものばかりですが」

「いいえ。昨夜もとっても美味しかったし、今も良い匂いでお腹が鳴っちゃいました」


 飾らない言葉に司祭は目をぱちくりさせた。

 司祭が驚くのも無理はない。すみれの挙動や発言はある意味驚かされる。クリス自身も彼女が聖女と言われなければ気付かないだろう。外見だけの問題でなく、聖女といえば大抵の人は高潔で凛としたイメージを抱いている。良い意味で『普通の少女』といった彼女から聖女と言う言葉は引き出せない。

 しかしその屈託のない笑顔は人を和ませる力があるのか、すぐに同じように彼は笑顔をみせた。


「聖女様、失礼かと存じますが、もしよろしければお食事の後、オリーブの木に祈りを捧げていただけませんか。祈りを捧げることで町中に清浄な空気が行き渡ると言われています。普段は我々のような聖職者が行っておりますが、聖女様の祈りならばより効力が高く、魔を祓うと言われているのです」


 つまり瘴気が町の中に入ってこられないようにしたり、瘴気にあてられたモンスターが近寄れなくなる。一度の祈りで暫く効力が続く。勿論永久的なものではないので、聖女は定期的に巡礼を行うのである。 


「私にできることならば喜んで。でも…」


 すみれは下唇を噛むようにきゅっと紡ぐ。眉を下げて申し訳なさそうに次いで口を開けた。


「私、この世界の祈りの方法がわからないので教えて貰えませんか?」


 司祭はすみれの言葉の意味がわからずクリスに助けを求める視線をよこす。彼が首を傾げるのも無理はない。司祭とはいえ地方の聖職者が聖女に教えを授けるなど以ての外である。


「私からもどうかお願いします。自分も聖女の騎士としてはまだまだ勉強不足な面もございますから」


 司祭はすみれに向かって「御心の儘に」と胸に手をあてた。


◆◆◆


 すみれは聖堂の中にある小さなオリーブの木の元に跪いて手を組んで祈りを捧げていた。オリーブの木の真上は丸い天窓があり、そこから陽光が照らされている———そう、聖遺物が置かれている神殿を模しているのである。

 祈りの言葉は司祭に教わりながら、いかにも慣れていないと言うように、拙くたどたどしいものだった。聖女になりたての若々しい祈りに応えるようにオリーブの木は仄かに光を放っている。それはすみれの目にしか映らない。光こそ見えないが清浄な気が満ちてることは傍で見守っているクリスや司祭も充分感じ取っていた。


「司祭様、ご指導くださりありがとうございます」

「とんでもないことでございます。聖女様。わたくしめのような者でもお役に立てたならば光栄の極みです」


 クリスはふと疑問がわいた。そういえばすみれは聖女としての教育を殆ど受けていないまま放りだされている。本来ならひと月程は———実際はまだ現役だが先代の聖女と聖女の騎士からみっちり聖女の役目を叩きこまれると聞く。ましてやすみれの場合、異世界から召喚された異例の聖女だ。この世の理も何も知らないまま巡礼に出すなんて考えられないことである。

 すみれ曰く、ローズが病床に臥しているいるならば仕方のないことかもしれない。それに蔓延した瘴気を鎮めていくためには早急に巡礼に向かう必要があると判断したのかもしれない。

 結果的にすみれは聖女の力を引き出すことに成功しているし結果オーライということでいいのだろうか。


 木製の両開きの扉がぎーっと音を立てて開くと、身廊に外部の光が仄かに照らした。地方騎士が準備が出来たと告げた。クリスはすみれに「行きましょう」と声をかけるとすみれはフードを被って立ち上がった。

 外はまだ陽光で温もりきらない風が吹いている。町の入口に向かうたびに体の熱と外の空気が一体になるように慣れてきた。麦畑を横目に足を進める。朝を迎えればせっせと狩りに出てくるだろう。次に来るときにはその活気を全身で感じたいとすみれは思った。

 四頭立ての馬車の前でオリヴィエと腰を縄で括りつけられた男が立っている。気のせいか昨日よりきつく縛られているようだ。


「お待たせ」

「おう」オリヴィエは目を据わらせて返事をした。

「大丈夫…そうじゃなさそうだけど」

「問題ない。さっさと行こうぜ」


 どう見ても徹夜したという顔だった。慣れているとはいえ、一晩凶悪犯の見張りは初めての経験だ。計り知れない緊張感があったのだろうとクリスは推察した。

 馬車の窓からすみれがお礼を告げるのを合図にしたように御者は手綱を振り下ろし、馬は嘶きをあげ走り出した。

 馬車の中では誰も口を開かず車輪の音がガラガラと響くだけで静かだった。何が情報源になるのかわからないので、クリスは事前に車内での会話は出来るだけ避けるように言いつけていた。


「よく眠れたかい、聖女様」


 口元を歪ませて不気味な笑みにすみれは身体を凍らせた。しかし事前にクリスから無視をするよう言いつけられていたので返事をすることはしない。


「なんだよ。不愛想な姉ちゃんだ」

「猿轡をかませられたくなければその薄汚い口を閉ざせ」


 オリヴィエは横に座らせた男に冷ややかな視線を突き刺した。寝不足からくる苛立ちは口調に影響していた。


「一晩中の見張りお疲れのようで…、ご苦労なこった」


 オリヴィエに比べて男はすっきりした顔で余裕をみせて言う。前日はよく眠れたのだろう。王都に幽閉される今後の身の上を心配している様子は微塵も感じない。


「おまえら聖女一行とはいえ随分素人臭いな。見張りが一人なのもいただけないが、寝ずの番でそんな状態になるなんて、慣れていないにもほどがあるぜ。言われなきゃ聖女様ご一行だなんてわからないぜ」

「では誰に俺たちが聖女一行だと聞かされた」

「聞き出そうったって、そうはいくか」


 男はオリヴィエを眇めて乾いた声で笑った。 


「別に話さなくたって構わないさ。これから王都の地下牢でみっちり尋問されるのを楽しみにしておけばいい」


男はけけけと不気味に笑い声をあげ、背もたれに体を預けて目を閉じる。これから自身に降りかかる聖女殺人未遂の尋問など恐ろしくはないとでも言うように余裕をみせているのだろうか。三人は異様な雰囲気に押し黙るしかなかった。

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