エピローグ

第55話

 ゴールデンウィーク前日。黄色い立ち入り禁止のテープを眺める。今年のゴールデンウィークは、間に挟まった平日を二つ休めば、十一日間の休日が取れるらしい。大学がその平日を休講日にするものだから、自動的に僕達学生も明日から十一日間の長期休暇に入る。その直前たる今日は、大学構内に多くの学生と教員が歩いていた。二週間ほど前の大惨事など、皆、記憶していない。結局、あの蟲の大量発生は、敷地裏の虫が大移動しただとか、そういう不思議な自然の中に組み込まれてしまった。その中で、三人の人間だったものが死んだという事実は、当事者である僕達くらいしか知らないでいる。

 二限終わりのチャイムが鳴った。それを合図に、食堂へ向かった。授業終わりの学生達が増えて、周囲の音は増えていく。大半の学生達は、新生活で初めてのまとまった休日に、心踊らされていた。それがどうしても雑音になってしまって、僕はイヤホンを耳に入れた。


 食堂には昼食を取ろうという人々で溢れかえっていた。数ある机に、目を配る。探していた人間は見当たらないが、二人、見知った顔を見つける。


「織部先輩、生成先輩」


 悠々とカツ丼を頬張ろうとしていた生成先輩が、箸を止めた。食券で手遊びしていた織部先輩は、少し考えた後、思い出したように「韮井君か」と笑った。


「久しぶり。あの後、なんか大変だったみたいだね」


 シルエット通りの朗らかな表情で、織部先輩は僕を見上げた。彼らは深夜のカフェで話をして以降、今まで顔を合わせることはなかった。ただ、ことの顛末については、叔父が少しだけ説明をしていたらしかった。少しだけ気の毒そうな顔をする織部先輩が、その事実を物語っていた。


「溝隠なら、今日は見てないわよ」


 口の中の米を飲み込んで、生成先輩が言う。見透かしたような目は、僕に対して少しだけ苛立ちを含んでいた。


「いや、僕、溝隠を探してるとは、言ってないんですが」

「じゃあ誰探してたの? どうせアンタ、アイツと同じで友達いないでしょ」

「……いますよ、友人くらい」

「チャットで課題の確認とか授業の出席について相談する程度の仲を、友達とは言わないのよ」


 そう言う生成先輩の目力は、僕の想定を遥かに超えて強かった。初めて出会った時のあの怯えた女性は何処にもいない。彼女は何処か、強い女性といった造形をしていた。


「溝隠に会いたいなら、呼んであげましょうか」


 狼狽える僕を前にして、生成先輩は唐突にそう吐きかけた。表情は変わらず、何処か怒っているようにも見えるが、それが好意なのは理解できた。


「いや、良いですよ。自分で探します」

「それ」

「はい?」

「そういうとこよ、アンタ」


 空になった丼を置いて、生成先輩は僕を指差した。ウッと喉に気泡が通る。胃から口に戻った空気を、僕はそのまま飲み込んだ。


「アンタ、会った時から思ってたけど、他人に頼るってこと、しないタイプでしょ」

「……僕、貴女とはあまり喋ったこと、ありませんよね?」


 何がわかるんですか。そう言おうとして、また言葉を飲み込んだ。生成先輩の目線が、訴えるような目が、少し、地楡さんにも似ていて。


「雰囲気とか、所作とか、そうやって言葉を飲むところとか、節々がね。溝隠君に似てるからさ」


 僕達に割って入ったのは、意外にも織部先輩だった。


「美豊ちゃんと俺はさ、溝隠君に少しくらい頼って欲しかったんだよ。勿論、出会ったばかりだけど、韮井君にもね。君からすれば、出会った時の俺達はただのアホだったろうし、今だって、君達は俺達を一般人だからって、巻き込みたくないって、思っているのかも知れないけれど」


 そう言って、彼はポケットからスマホを取り出し、操作し始める。一瞬、画面から目を離すと、彼は再び笑った。


「でも俺達、一応、もう『アホだけど何だかんだ進級できてる見知った顔の先輩』だからさ。大学生活でくらいは、頼ってくれたら、嬉しいな」


 ピコンと、織部先輩の手の中で、チャットの通知音がする。そこには、溝隠と彼の個人チャットの画面が映されていた。数秒前に返信された文面が目に入った。


 『今日は妹の見舞いで、大学には行きません』


 そのひと文で、何処に行くべきかを定める。幸いにして、今日はもう授業が無い。織部先輩の丸い口角に合わせて、僕は口を開いた。


「ありがとうございます、先輩」


 僕はその場で一礼して、踵を返した。「妹さんにもよろしく」と、生成先輩が言っていたのを、耳に認める。その妹が誰で、どんな人間か、大体わかっていた。それも踏まえて、僕は彼に文句を言いにいかねばならない。追求しなければならなかった。どんどん足の動きが速くなるのがわかった。靴をスニーカーにして良かった。可動域の広いズボンも、少し布の余るパーカーも、僕には合っていた。

 廊下を伝い、中庭を突っ切って、附属病院を目視する。木々の緑に浮かぶ白い建物物は、異常なまでの清潔さを物語る。正面から堂々と受付を済ませれば、知らない顔の看護師が僕を先導して、目的の病室へ案内してくれる。看護師は僕のことを入院患者の友人か何かだと思っているようで、「花鍬さん、もうすぐ退院出来るんですよ」と朗らかに笑っていた。それに相槌を打っていると、個室の前で立ち止まる。看護師が扉をノックした。


「花鍬さん、もう一人、お友達の方がいらっしゃいましたよ」


 和やかに戸を開ける。柔らかな日差しに照らされて、白いワンピースが輝いていた。その隣には、黒いコートに身を包む溝隠と、学ラン姿の藤馬がいた。「何故」とでも言いたげな溝隠と目を合わせて、僕は病室に足を踏み入れた。看護師がいなくなったのを確認して、僕は扉に背を置いた。


「久しぶり、元気だったか。蝶仮面」


 僕が笑って見せると、溝隠は蝶で顔を隠す。小さく噴き出す地楡さんと、困った顔をする藤馬に挟まれて、彼はこれ見よがしに大きな溜息を吐いた。

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