第45話
「ごめんなさい。貴方は、誰ですか。藤馬君のお父さん、ですよね。私達、何処かで会ったこと、ありましたか」
やっと出た言葉は、自分でもわかる程に、強い苛立ちを含んでいた。理解し得ない状況に向けた怒り、対話にもならないまま過ぎる時間。それらが全て混ざり合って、感情の器の中で揺れる。
「記憶が無い……のか? すまない。動揺させた」
「動揺しているのは貴方の方じゃないですか?」
「いや、その通りだ。悪いことをした。急に声を荒げて申し訳ない。その、息子と、君が仲良くしているとは、話には聞いていたけれど、どうしても、君に、悪意があるのだと思ってしまって」
「悪意?」
覚えの無い悪質さを提示されて、眉間に力が入った。酷い顔をしているのだろう。白衣の男は「移動しよう」と顔を背けた。私達の会話にも、韮井先生は何も言わなかった。ただ何を警戒しているのか、彼は私の背後をとって、周囲を見渡していた。
忙しない動きで連れられたのは、同じ会の会議室のような部屋だった。簡易机が数個並べられ、その一つを囲むように、椅子が三つ置かれていた。二つの椅子の向こうに、机を挟んで一つの椅子が静かに佇む。男達はごく当たり前のように隣あって腰を下ろした。二人と向かい合う形で、私はパイプ椅子を鳴らして、体重を落とした。
「さて、少し、ネタバラシをしようじゃないか」
足を組んだ先生が、唐突にそう声を上げた。引き攣った口元は、彼の悪意を示していた。
「昨日、お前の家を調べただろ。あの時な、私達とは別で調査をしていた奴らがいた」
私と白衣の男を置いて、彼は淡々と声を落とした。机の上で並べられていくそれは、何処か優越感すら感じられて、苛立ちが雫のように溜まっていった。
「花鍬地楡と、その周辺についてだ。特に人間関係。父親、祖父、彼女を病院に隔離している医師」
医師という言葉に、白衣の男を見た。確か、藤馬君の父親は、精神科医だ。「あぁ、成程」という僅かな納得を飲み込んで、それでも飲み込めない相関関係に喉を詰まらせる。
「当初の電話越し、花鍬地楡本人は実に協力的だったそうだ。父親と祖父に対して己の知る事実を話すよう説得し、医師には面会拒絶を解くように言った。結果、知ることが出来た。お前が語ることとは別の、花鍬樹というフィルターを通さない、それぞれの主観を」
先生の眉間に皺が寄った。視界の隅に、青い蝶が舞った。
「まず、お前の祖父も父親も、自分の妻のことを語った。自分達の一目惚れから始まった恋愛結婚だったこと、出会った時が一番美しかったこと――――死の間際、まるで魔法が解けたかのように、彼女達の顔が崩れ、醜くなってしまったこと」
その言葉を聞いた瞬間、無意識に指先が顔へと向かった。崩れた顔というのが、妙に引っかかった。祖母の死も、母の死も、私はこの目で見たはずだ。その顔は、歪んでいただろうか。焼け死んだ母でさえ、美しいまま死んだ筈だ。あの叫びは、妹の声だった。死ぬ側の肉の匂いは、膿に似ていた。けれど、溶けていたのは、祖母と母のそばにあった蚕繭の中身だった筈だ。
――――いや、違う、わからない。要素が足されては引かれる。記憶が溶けていく。脳の端で、何かが瓦解していく。不明瞭な自分の視界を、私は信じられるのだろうか。
瞼が痙攣する。親指の爪で、目元を抑えた。
「お前の母親もお前も、行為後十ヶ月で生まれ、皆、同じ顔、同じ声、同じ血液型、同じ指紋だということ」
肩が震えた。それの何がいけないのかと、血が繋がっているのだから普通だろうと、声が出そうになった。だが、それが違っている、奇妙であるということも、同時に理解していた。少しずつ、少しずつ、パズルのピースが歪められていく。辛うじて綺麗にはまっていた筈の景色が、色も形も異なるピースばかりで、整合性の欠片もない板でしかないことに気づいていく。
「長女を産んだ後、妹を産めと言ったのは、お前の祖母だったということ」
指を立てて、先生は情報を羅列していく。それらがどう繋がっていくのか、理解は出来なかったが、ただ言えるのは、私も、母も、祖母も、出生からして異常だということだろう。花鍬の女は怪異だ。それは紛れもない事実で、それらが全て、今、何も知らなかった私に降りかかっているのだ。
「そして、お前の母親は、結婚してすぐに家出をし、その約十ヶ月後に長女を産んだそうだ」
「家出ですか? 母が? 何故?」
「夫であるお前の父親は、『混ざりたくない』といつも言っていたと、そう答えた」
「混ざる?」
私が問うと、先生は人差し指を眉間に寄せた。リズムよく二回、頭蓋を叩く。彼は冷静に、唇から息を吐いた。
「精神が、記憶が、混ざっていくんだそうだ。花鍬樹の数百年の記憶を継ぎ、個が溶かされていく」
頭蓋の裏で、ピキリと何か、ヒビが入る感覚があった。隙間から、入り込む不確定の誰かが、私を追い込んでいく。鼓動が波のように強弱をつける。弱くなる度、私が消えそうで、呼吸が乱れていった。
「そうやって、私達は続いて来たんだ。寿命を超えて、いつか出会うために」
先生の話を破ったのは、白衣の男だった。目元の隈の奥で、色灰の瞳が、力無く輝いていた。彼は、自分で吐いた蛾を手で潰しながら、鼻で笑った。
「お久しぶりと、言うべきだろうか。それとも、初めましてと言うべきだったか。オシラサマの雌――――花鍬樹。私は桑実
優しい声で、辿々しくも彼はそう笑った。その表情に覚えがあるのは、私に母が入り込んだからか、それとも藤馬君を重ねているからか。
雪崩れ込む精神と記憶、全ての情報に酔いながら、私はただ、呆然と座っているしか出来なかった。
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