第42話

 それぞれの紹介が終わると、皆、好き好きに食事を平らげていった。目が覚めた皐月は私を見て一つ頷くだけで、それ以上、喋ることもなかった。一番に皿を片付け始めたのは阿良ヶ衣で、狗榧がそれを追いかけるように席を立った。

 ふと、狗榧の服の裾が揺れる。

 ――――ずるり、ずる、ずる、ずる。

 音は無い。密やかに、それは私の視界の端で、狗榧という女の体から、生えていた。

 黒くてかてかと光る太った百足――――否、それは恐らく、馬陸やすでと呼ばれる蟲。カサカサと動く百足と異なり、それはより細やかな足で蠢いていた。何匹かが集まっているわけではない。ただ、一匹の巨大な馬陸が、私の方を見ていた。何処に目があるのかはわからない。だが、それは確かに、私に頭を向けて、顔を覗いていた。

 固まっている私に、海棠が話しかけている。しかし私にはそれが、言葉だと認識出来なかった。音が混ざって、脳で溶ける。今の私の知覚は、視覚がより優位で、それ以外はてんで機能していない。

 数秒、数分だったかもしれない。それだけの時間が過ぎた後、馬陸が私に向かって飛び上がった。蟲如きの細脚からどうすればそんな跳躍力が出るのだと、疑問を呈した時には、手が動いていた。

 害虫は、叩き潰さねばならない。見ているだけで不快だ。襲い掛かって来るのなら、私にはこれを殺す権利がある。

 指先が、馬陸の触角に触れる。その瞬間、その手は一回り大きな冷たい手に掴まれて、動かなかった。私の手首を掴む白い手を見る。その腕を伝って、四肢の元、胴体、首、顔を見上げた。


「お前、何だ」


 皐月清彦。彼は私の腕を折らんばかりの力で掴み、半分閉じかけた目で、私を睨んでいた。


「何で叩き潰そうとした」

「な、何で? そりゃ、こんな大きい蟲に襲われたら、怖い、潰しとかなきゃって、思うじゃないですか」


 低く重い声に、言葉が澱む。彼の問いに、正確に答えられていたとは思わない。けれど、私の直感は、それ以上でもそれ以下でもなかった。

 助けてくれやしないかと、海棠を見る。しかし、目が合っても、彼は僅かに眉間に皺を寄せるばかりで、何も援護はしてくれなかった。狗榧の隣、阿良ヶ衣に至っては、私に対する嫌悪感と、僅かばかりの疑念を向けていた。


「蟲、お前、これが蟲に見えているのか。だとしても、お前、普通、平手打ちで潰そうなんて思うか?」


 淡々と、皐月は問う。狼狽えているわけではない。どちらかと言えば、苛立っているのかもしれない。私の腕を掴む力が、強くなっていた。爪を立てないでいてくれるのは、少しの優しさか、それとも、答えによっては肉に食い込ませる準備があるということか。


「普通な、逃げるんだよ。人間は恐怖に立ち向かわない。襲われたと思っているならなら尚更、本来あるべき反射は『回避』であって、お前のような『悪意』ではない」


 私の行動を『悪意』と呼んで、皐月は私の腕を引いた。男性らしい力強さで、私を立たせる。バランスを崩しながらも、強制的に、足を真っ直ぐになるよう、蹴り上げられる。その視界の隣では、狗榧があの巨大な馬陸の頭を撫でていた。彼女は仮面のような微笑みをずっと貼り付けているばかりだった。


「人間に擬態したいなら、もっと気を配れ。弱者を演じたいなら、同情されたいなら、もっと行動で示せよ」


 そう言って、皐月は私の腕を離した。その言葉は、否定というよりも、私に対するアドバイスのようにも取れた。或いは、自分より下にある者に対する、唯一の慈悲か。

 そんな彼は、一瞬、何かを言いかけて、唾を飲み込み、再び口を開いた。


「だから化粧が剥がれかけてんだよ、蟲女」


 皐月が私に初めて見せた表情は、嘲笑だった。小馬鹿にしながら、鼻で笑う。眠たげだった目は既に冴えて、私をしっかりと捉えながら、侮っていることだけはわかった。その嘲笑は、私への評価の言葉は、七竈に向けられた嫌悪にも似ていた。


「花鍬さんには、この子が蟲に見えていたのね。何だか申し訳ないわ」


 ふと、静寂と、皐月の鋭い目線を蹴り飛ばしたのは、狗榧だった。彼女は微笑みながら、馬陸をスカートの裾にしまっていた。


「アタシは怪異を飼っているの。管狐っていうんだけどね、たまに勝手に出てくるの」

「いえ、すみません、こちらこそ」

「韮井先生のご紹介って聞いていたから、てっきり慣れていると思っていたのよね。油断したわ。花鍬さんが出て行くまでは檻にでも入れておかないといけないわね」


 暗に早く出ていって欲しいと言っているのは、愚鈍な私でもわかった。当の狗榧は、私の返答を待つ暇もなく、机に置いていた食器類を手に戻して、キッチンに向かった。そんな彼女を目で追っていると、阿良ヶ衣と目があった。彼女もまた、私に鋭く視線を刺すと、そのまま踵を返した。


「さて、僕達もそろそろ」


 ひっそりと息を潜めていた海棠が、笑って立ち上がった。それに合わせて、皐月ものそりと冬眠明けの熊のように、キッチンに向かった。テーブルに残されたのは、私と残ったパンだけだった。


「それ、食べて良いですからね」


 キッチンで食器を洗う鹿山が、目も合わせにそう言ったのが聞こえた。水の音に遮られて、その声にどんな感情が乗せられていたかは、よくわからなかった。


 ――――あんなのが住人じゃ、父達の元にいた方が、まだ楽だったかもしれない。

 そんな思考を、パンと一緒に飲み込んで、ただ、時が過ぎるのを待つことしか、私には出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る