第19話
生家へ向かう車内は、窮屈だった。体積の大きい先生達は前に座っていたため、物理的にそうであったわけではない。何も言わずに、ただ申し訳なさそうにしながら、私の手を握っている綴の、その雰囲気が、気道を狭めていたのだ。きっと彼女は何か、私の不利益になることを、彼らの話してしまったのだろう。思い当たる節はいくつかある。彼女とは約六年程の付き合いがあるが、その間にも色々あった。私は彼女との密かな思い出を神経の波に乗せながら、彼女の手を握り返した。
そうしているうちに、車両は街を離れていった。郊外の山中、街灯の少ない道に、タイヤを転がしていく。砂利が跳ねる度、ミラーに映る先生の眉間に皺が寄った。緩やかな坂道を辿る。車窓から白い蔵が見えた直後、車は止まった。エンジン音が鳴り止む。先生に合わせて、全員が地面に足をつけていた。
太陽が出て暫くというのに、風は木々の隙間から湿度を得て、湿っていた。青臭い松の葉の匂いが、煩くて仕方がない。そんな状況で見る生家は、やはり、人が住んでいなかった頃の乱雑さが際立って、一種の廃墟のようにも見えた。実際に五年も無人だったのだから、そう言っても差し支えないだろう。
「あ、鍵開けますね」
ポケットの中に入れていた鍵を取り出す。そして、一歩、踏み出した時だった。
「待て」
前に出ようとした私を、先生が制止する。見上げると、彼の表情は強張っていた。私への警戒ではない。先生は生家の玄関を睨んでいた。否、より向こう側、意識は生家の中に向いていた。
「昨日、花鍬がここから病院に運ばれる時、戸締りはしたか」
先生はそう言って、綴を見た。彼女は急いで縦に首を振るが、数秒後に硬直した。パクパクと空中で口を開閉した後、手でそれらを抑える。その向こうから聞こえたのは、絞りきった雑巾のような、湿って硬い声だった。
「台所の勝手口、確認してなかったかも……」
この建物には、それなりの多人数で住んでいた分、出入り口がいくつかある。玄関は勿論のこと、芝刈り機が置いてある
「花鍬、ここの敷地に入れる道はここだけか」
「車で入れるのは、ここまでですが」
「敷地に入れる道を聞いてるんだ。例えば、山の向こう側は国道が面している、とか」
「確か、先生の言う通りの形をしているところがあったような」
記憶を巡らせる。何せ、五年前に離れてしまった土地であるから、あまり覚えがない。更に言えば、離れたのは幼い時分であったので、探検も真面に出来ていない。自分の実家の地理的構造を、私はよく知らなかった。
「とりあえず、その勝手口から入ろう。玄関で待ち伏せされていても困る」
「誰かいるんですか」
「三人ほどな。一人は二階の窓に人影が一瞬だけ見えた。二人は玄関にシルエットが通った。それに話し声が、少しだけ」
先生の背中で見えていなかった玄関を、私は身を乗り出して観察した。先生の言っているシルエットが何処にあるのかはわからなかったが、一瞬だけ、ギシと音が聞こえた。床の板を軋ませる音に違いなかった。
顎で指示する先生の後ろを歩く。最後尾で周囲を警戒する識君は、綴の背後を守っているようだった。私の案内で家の裏に回る。昨年の秋からある落ち葉が腐って、黒くなっていた。その中に、幾つかの楕円形を見つけて、先生が唸っていた。それは確かに足跡で、大きさからして、少なくとも男性と女性の二種類には分けることが出来た。足跡は生家裏の更に奥、山の向こうから続いていた。恐らくは、山の向こうから敷地に侵入したのだろう。
「少なくとも相手は人間だな。あまり恐れる必要はないだろう」
皮肉か、それとも本心かはわからないが、先生はそう言って首をコキと鳴らした。
「それに、空き巣でもないかも」
「なんでわかるの?」
「山の向こうから来る足跡が真っ直ぐじゃない。特に女性の足跡があっちを向いたりこっちを向いたり。周囲を観察しながら歩いてる感じ。家の中に興味があると言うよりは、この山を探索してたって感じじゃないかな。男性は……女性の後ろを着いて回ってる?」
識君と綴の会話を耳に入れながら、私は先生と顔を見合わせた。先生が頷いているのを見ると、彼も同じことを考えているらしかった。
勝手口は既に目の前にあった。その前の前にも大量に足跡があった。先生がドアノブに手をかける。すんなりと手首を回して、戸を引き開けた。キイと蝶番が音を立てる。後ろで、綴がごめんと呟いていた。仕方がないよ、と、私も小さく返す。先頭に立つ先生は、履いていた革靴を手に持って、足を滑らせながら進んでいった。私達も同じようにして、彼の後ろを着いて歩いた。既に、生家の探索というよりも、侵入者を探すことが目的になっていた。
そうして、台所を出た頃、再びギシギシと床板を踏む音が聞こえた。今度は確かに人間のリズムを保っていた。遅れて、襖を開ける音がした。和室の方向を指さすと、先生は革靴の一つを右手に握り、そちらへと走った。
私達は、一瞬迷いつつも、先生を追いかける。閉まろうとする仏間の襖に、先生が左手を挟んだ。その向こう側からは、僅かな線香の匂いに乗って、短い悲鳴が聞こえた。私達が先生に追いついた時、彼は力づくで襖をこじ開け、革靴を持った右手を振り上げていた。その靴の踵部分は、吸い込まれるように一人の男の眉間へと叩きつけられた。鈍い音と共に、小太りなその男は、畳の上で疼くまる。
「警察! 警察呼びますよ!」
そう言って、私達を見上げて叫ぶのは、不法侵入者である筈の、若い女だった。
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