外聞 識

第5話

 白いマグカップの中で、黒い珈琲が、白い湯気を立てていた。僕はその水面を覗いた。手で揺らす度、僕の顔は歪んで、静かになれば元に戻った。


「叔父さん、僕って実はとんでもない不細工だったりするのかな」


 ポツと言葉が出た。珈琲から目を離す。目の前には、窓際のデスクで目を丸くする叔父の姿があった。


「お前は私や姉さんに似た器量良しだよ。高校の卒業式だって、女子生徒から告白されてただろう」


 心配するな。彼はそう言って、止まっていた手を再び動かし始めた。叔父は僕の通っているこの大学の教員だった。僕が温気に珈琲を啜っているこの部屋こそ、彼の仕事場たる研究室であった。甥である以前に、一学生である僕が、そんな研究室にやって来たのか、歓談に誘って叔父の仕事を邪魔するためではない。


「僕が怪物のような容貌でないとするなら、一人、気になる学生がいるんだ」


 再び叔父の手が止まった。お互いの目を見つめ合う。ほんの一瞬、彼の翡翠色の瞳が、奥で光った気がした。


「それは、お前の個人的な、女性への好意に纏わる相談か」

「そんなわけないでしょ。まあ、凄く……震えるくらいの美少女ではあるけど……」


 その"ある女性"を思い起こす。長い艶のある黒髪に、黒い真珠のような瞳、人形のように生を感じられない白い皮膚――――その全てを歪めた嫌悪の表情すら、美しかった。


「詳しく」


 僕がそんな彼女に美貌にふけっていると、叔父は僕の隣に腰を下ろした。机の表面を、人差し指でリズム良く叩く。爪が擦れる音がした。叔父の手にはメモ帳も、ペンも無い。ただ真っ直ぐに、彼は僕を見ていた。僕の口は、自然と、その眼差しに操られるように動いた。


「今朝、廊下を歩いていたら、同期の花鍬さんっていう女の子が保健室から出て来たんだ。すれ違いざま、僕の顔を見るなり青ざめて……声をかけて、保健室に戻ってもらおうと手を出したら、触れた瞬間叫んで走って、逃げられちゃって」


 思い返す度、胃の下が痛んだ。理由はどうあれ、美人に拒絶されて喜べる程、性癖は歪んでいない。


「何故その女子学生の名前を、お前が知っているんだ。知り合いか」

「うちの学年……今年の新入生の間では、有名な学生なんだ」


 入学から数日しか経っていない今でさえ、フルネームを思い出せるほど、彼女は大学内では目立つ存在だった。入学式が終わってすぐに付き合ってほしいと告白した男子学生がいたり、その翌日には学部の違う先輩に食事を誘われたりと、男関係の逸話は既に出来上がっている程だった。その分、女子学生からの妬みも凄まじく、一部では嫌がらせ行為も出始めているという。


「とにかく綺麗な子でさ。今まで何度か遠くから顔を見る機会があっただけだったけど、実際、それだけでも顔が覚えられるくらい、目立つんだよ、彼女は」


 僕の答えに、叔父は脳の中で何か考えのようなものを転がしているようだった。叔父とて教員だ。学生の一部については把握しているだろう。それらと僕の話を繋いでいるのかもしれない。


「その花鍬という学生、下の名前は”樹”じゃないか。そして艶のある黒髪に、大きな黒い瞳で、その”綺麗な顔”は”妖美”だとか”蠱惑的”じゃないか」

「その通りだと思うけど、やっぱり、教員内でも話題になってるのものなの?」


 僕の問いに、叔父は数秒、口を止めた。首を横に何度か振ると、再び言った。


「教員内ではない。花鍬樹とは”怪異”の関係者たちが昔からよく挙げる名前の一つだ」


 怪異という単語が、耳の中を滑る。何故だか、納得感があった。

 怪異――――人間という生き物の、認識の副産物――――それは、時として、人間を誘惑するもの。そして、怪異を怪異として正しく認識出来るのは、怪異に憑かれた者か、怪異そのものに成り下がった者。僕は前者だった。僕には怪異が取り憑いている。泥を纏った醜悪なモノが、常に僕の眼球に手をかけている。


「花鍬さんは怪異なのかな」

「それは断言できない。私が聞いているのは、花鍬樹がこの近辺に土地を持っていて、そこに神を祀っているということくらいだ。そして、その”花鍬樹”という名前は、代々、当主に名づけられる名らしい。以前、当主だった樹夫人に取材をしたことがあるが、あまり、良い情報は得られなかったな」


 叔父はそう言って、デスクチェアを一回転させた。彼の背中が見えた時、彼は溜息をしていた。僕は叔父のマグカップを手に持って、コーヒーマシンに向った。疲れているらしい叔父に、一際濃いいっぱいを淹れてやろうと思いついたのだ。


「韮井先生」


 唐突に、部屋のドアが開いた。叔父の名を呼んだのは、白衣の女性――――保健室の桑実看護師だった。


「あら、韮井”君”も一緒ね。出直した方が宜しいかしら」

「いや、さとるの方は話の区切りがついている。学生がいては駄目な話をしに来たか」

「いいえ、大丈夫よ。そうね、寧ろ、お二人が揃ってらした方が、正解だったかも」


 韮井識を視界の隅において、桑実は続けた。


「花鍬樹という女子学生が、自宅で倒れたの。附属病院に運ばれたそうよ」

「病については医療措置が優先だろう。私達のような俗信の体現者に何をさせたい」

「先生、話は最後まで聞いてくださいな。付き添ってくれたもう一人の女子学生が、妙なことを言っているのよ」


 妙なこと。その言葉に、僕達は姿勢を正した。


「百足を、大量の百足が湧き出して、それを花鍬さんが貪っていたと言うの。そして、それを吐かせたら、全ての百足が消えてしまったのだと、半狂乱で訴えたの」


 桑実は困り眉のまま、そう語った。僕は叔父の顔を見た。彼は眉間に皺を寄せて、宙を見つめていた。


「識、今日はこの後に用事は無いな」

「勿論」

「なら良い。お前も着いて来い」


 立ち上がった彼は、椅子にかかっていたコートを羽織った。僕は急いで鞄にスマホとメモ帳を入れた。


「付き添いの子も、花鍬さんも、同じ個室で休んでもらっているわ」


 案内人となった桑実と、彼女に質問を浴びせ始めた叔父。彼等の足は、以上に早かった。僕はやや駆け足で、二人を追った。天井から降る泥が、ずっと、僕の首元を冷やしていた。

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