第108話 夜中に叫んだ男

オレは奥様方おくさまがたの間を抜けて団地の狭い階段を上っていた。

手に持っている椅子が邪魔だ。

ふと、オレの背後に若い男が歩いてくるのが見えた。


ん?

あの顔は殺人犯じゃないか。

知らんふりをするか、それとも……


男もオレに気づいた。

もう見て見ぬふりはできない。

走ってきた男に椅子を振り下ろす。


オレ1人では無理だ。

助けを呼ばなくては。


「助けてくれ! 助けてくれーっ!」


オレは大声で応援を求めた。


*****


「ちょっと、起きてよ!」


悪夢の途中で妻に起こされた。

明け方の3時49分だった。

窓の外はまだ真っ暗だ。


とりあえず寝床を抜け出してトイレに行く。


用を足しながら考えた。

なんでまた悪い夢を見たのか?


たぶん、色々なストレスが重なったのだろう。


他院の医療事故調査報告書が書きかけで止まっている。

マンションの自治会の議事録と掲示用のお知らせ原稿もまだ途中だ。

今日は看護学校の授業もある。

今週はすでに2件の緊急手術をやる羽目になった。

連載中の原稿の締め切りは今週末だったんじゃないかな。

来週にはWEB講演会をしなくてはならない。

その準備で完全に土日がつぶれる。

非常勤医師が辞めたいので外来患者20人ばかりをオレに頼みたいと。


試しに自分の外来患者数を数えてみたら600人をこえていた!



外来患者?


そうだ。

昨日の外来患者に睡眠の話をしたことを思い出した。

にわかには信じられないことだが、外来患者の最も多い訴えは不眠だ。


その患者も眠れないから睡眠薬を処方して欲しいと。

他の薬は90日処方が可能だが睡眠薬は30日までしか処方できない。

だから睡眠薬処方のためだけに毎月の受診になってしまう。


「私、朝5時に目が覚めてしまうんですよ」


もう80になろうかというその患者は言った。


「えっ、5時ですか。じゃあ床に就くのは何時でしょうか?」

「そうですね、11時頃かな」


オレは驚いた。

眠れないというのはそういうことか。


「あの……6時間も寝たら十分ですよ」

「でもテレビでは7~8時間の睡眠が必要だって」


またテレビか。

じゃあテレビ局にでも治療してもらったらいい。


「7~8時間も寝るのは高校生までです」

「そうなんですか」

「80歳は5~6時間も寝たら、それ以上寝る必要はありません!」


一体、この人の人生の目的は寝ることか?


「朝早く起きてもやることがなくて……」

「仕事しなさい。勉強しなさい。原稿を書きなさい!」


つい自分のおかれている状況を患者におしつけてしまう。


「80歳の人が8時間も寝たら目が腐ってしまうから、朝4時には起きましょう!」


だから睡眠薬は要らないですよね、と言いかけたら反論された。


「でも、寝付けないのでやっぱり睡眠薬が必要です」


そういって患者はオレから30日分の睡眠薬をむしり取って帰った。



日本の医療現場の最大の愚策は睡眠薬の処方日数制限ではなかろうか。

もちろん大量服薬や横流しをする馬鹿もいるが、それはごくごく少数だ。

多くの患者が睡眠薬の処方日数制限のために毎月病院に通っている。


患者も病院に来たくないだろうが、オレもこれ以上、悪夢を見たくない。

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