第95話 セリフを練習する男

 夜明けの初療室しょりょうしつで院内PHSが鳴った。

 救急のレジデントが答える。


「犯人を捕まえたと言われましても、それが何か?」


 聞けば警察からの電話だったらしい。

 深夜に搬入された患者のひき逃げ犯人を捕まえましたという報告があったのだ。

 立派な話だったにもかかわらず、レジデントの返事は素っ気なかった。


「馬鹿野郎。お前、もうちょっとマシな対応はできないのか!」


 オレが何か言う前に救急医がレジデントに怒鳴った。


「でも、犯人が捕まったかどうかで僕たちの治療が変わるわけでもありませんし」


 こいつの言っていることは確かにその通りだ。

 しかし、世の中の秩序を守るために夜中も頑張っている警察に対して「それが何か?」はないだろう。


「あのなあ、社会人としてもう少しマシな返事をしろよ!」

「では、どう言ったらいいのでしょうか?」


 レジデントに全く悪気わるぎがないのはよく分かる。

 オレたちの業界に多い、単なる発達障害にすぎない。

 咄嗟とっさに場を読んだやり取りができないだけだ。


「『犯人を捕まえたんですか、お疲れ様です。やはり日本の警察は優秀ですね!』と言っておけばお互い気分良く働けるんだよ」


 なるほど、そう言えばいいのか。

 オレにも参考になる。


「分かりました。今度からそう言います」


 案外素直にレジデントは答えた。


「無理だね。こういう長いセリフは練習しないと出てこないぞ。試しに言ってみろ」


 救急医は簡単に許してくれない。


「お、お疲れ様です。優秀……ですね」


 確かに出てこない。


「ダメだ、ダメだ。まず最初に『犯人を捕まえたんですか!』って驚いてみせるんだ」


 救急医は厳しい。

 いささかこだわりが強すぎる気もするけど。


「いいか、たとえ頭の中で『ラーメンを食べたいなあ』と思っていても、口が勝手にしゃべるくらいまで練習を重ねるんだ」


 確かにプロってのはそうあるべきだ。

 いい事を聞いたぞ。


「私もちょっと練習したいんですけど」


 オレは思わず口をはさんでしまった。

 いい事を聞いたら即座に実行したくなってくる。


「僕が指導されたので、僕が先に練習します!」


 レジデントがオレの練習機会を奪いにかかる。

 負けてはならない、とオレはえた。


「うるせえ。お前はラーメンでもってろ!」



 その時、たまたま初療室をのぞいたナースが呆れ顔で声をかけてきた。


「先生方、大きな声で何をやっているんですか!」



 たぶんオレたち3人とも立派な発達障害なのだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る