第5話 魔法少女 パープルレイン

 そこは小さなカウンターバーだった。入り口の扉には準備中の札がかけられている。『紳士・同盟』と堅いロゴデザインを掲げた木製の扉を大然は静かにノックした。


 返事はない。


 待ち合わせはパープルレインがヒロイン活動の副業としてアルバイトしているこの店に設定している。すでに面談の時間だ。いないはずがない。ひょっとしてすっぽかされたか。あの変なデモ隊のせいか。大然は訝しんで店の扉を押してみた。


 扉は抵抗することなくすんなりと開いた。


 カウンター席が幾つかあるだけの小さなバー。内装はかなり紳士的に落ち着いている。天井のライトも控えめで柔らかく、渋めのデザインの壁紙と雰囲気がマッチしていて居心地のいい狭さを演出してくる。


 そんな薄暗いカウンターでささやかなスポットライトを浴びる魔法少女が一人、大然に顔を向けた。


「……ヴィラン社の人?」


 甲高い華奢な声。細い首に乗った小さな頭がくりっと傾いた。密度の濃い前髪がさらさらと流れる。


 随分と可憐な三十代男性だな。特に手術とかすることもなく、メイクと衣装だけでここまで着飾れるとは。大然は改めて思った。


「はい。ヴィラン・メタ・コンプライアンスの総務部人事第二課より参りました。葉山大然と申します。はじめまして。魔法少女隊キューティーチアーズ所属、今は脱退されたようですが、元魔法少女パープルレインさんですね?」


 うやうやしく名刺を差し出す。


 カウンターテーブルにしなだれるように細い身体を預けて、手首までシルクのようなしっとりと艶のある素材のコスチュームに包まれた腕を伸ばす彼。


「スーツがよく似合ってるじゃない。スタイルがいいオトコは名刺一枚差し出すだけでも絵になるわ」


 元魔法少女はひらひらとした丈の短いコスチュームのままカウンターの背の高い椅子に座り直した。太ももまで覆われた紫色のロングニーハイソックスの脚を組んで、ミニのキュロットスカートをひらりとさせる。


 三十一歳男性魔法少女は大然に隣の椅子をぱんぱんと触れた。


「どうも」


 スーツを褒められたことか。椅子を勧められたことか。大然は曖昧な「どうも」を使いこなしていろんな意味で元魔法少女の隣に座る。


「さっそくで悪いけど、話って何? お店の開店時間までには終わる?」


 パープルレインは口早にそう言いながら壁時計をちらっと見やった。やや大袈裟にポニーテールを揺らして見せる。魔法少女っぽい仕草で大然に時間を意識させた。


「話自体は大したことではないです。ただ、直接あなたと会ってお話ししたかっただけですし」


 こいつは手強いな。パープルレインが匂わす拒否感を大然はちくりと感じ取った。


「スーツが似合うイケメンにそんなこと言われちゃったら、さすがに何も出さないわけにはいかないわね」


 魔法少女がカウンターの中に手を伸ばし、ボトルクーラーに冷やしておいたアルコール度数9%の酎ハイロング缶を二本取り出した。


「やる?」


 一本を当然のように自分の前に、そしてもう一本の9%を大然の前に滑らせる。


「こう見えても僕はまだ仕事中です。あとでいただきます」


 9%ロング缶に美味そうにまとわりついた水滴を親指で拭う大然。缶はかなり冷たかった。どれくらい前から氷に浸していたのか。


「あらやだ。あたしだって仕事中よ」


 大然を斜めに見据え、ロング缶を一度逆さまに振るって、慣れた手付きで缶酎ハイのプルタブを開ける元魔法少女。一連の動作は小ぶりな片手で滑らかに処理された。


「こう見えてもね」


 大然のリアクションも待たずに、小気味良い炭酸音を立てたロング缶を花びらのような唇に添えた。こくっこくっと無防備で細い喉を晒して鳴らす。


「最近ね、9%飲まないと変身できなくなっちゃったの」


「変身?」


「そ。若い子らはメイク道具を取り出していかにも可愛くメイクして変身しちゃってるけどさ」


 こくりともう一口煽る。


「女子高生に混じってストロング系を飲んで変身する魔法少女なんてもう限界突破じゃない?」


 魔法少女のコスチュームがパープルに輝いた。ヒラヒラした裾がぴんと伸びて、襟元にワンポイントの大きなリボンが現れる。ロングニーハイソックスに紫色の艶が出てローファーがハイヒールに変化した。


「ネットで実はオトコだってバレちゃったし」


 アイドルグループに大量発生してそうなすいた前髪がくるりとパープルの巻き髪に伸びる。


「潮時だったのよ。魔法少女パープルレインも、表舞台に立つ三神美海華も」


 小さな顔の大きな瞳がギラリと紫色の光を放つ。


「てか、ヤる? 落ち目のあたしにトドメを刺しにきたんでしょ?」


 魔法少女隊キューティーチアーズの最年長にして老獪な戦闘スタイルでコアなファンも多いパープルレインが敵意を剥き出した。


 カウンターの椅子に座ったまま華奢な右腕をしならせる。それは紫色に光る刃物そのものだ。雨が空気を斬り裂くように幾多もの怪人、化け物、悪役たちを屠ってきたパープルレインの必殺技。


 しかしそのバトル開幕の一手はシワの寄った黒スーツの腕に阻まれた。がっしりと手首を鷲掴みにされ、ぴくりとも動かせなくなる。


「パープルレインのスキル『ムラサキの霧雨』だっけ? いい腕してるぜ」


 恭壱が黒縁の眼鏡をくいっと直して言う。


 パープルレインの刃物のような一撃は大然の喉笛に食らいつく寸前で恭壱に受け止められた。


「遅い。少し焦ったぞ」


 大然が9%酎ハイのロング缶を手に取って恭壱に渡す。


「相手は八人もいたんだ。十秒はかかるさ」


 パープルレインの細い右腕を捻り上げたまま、恭壱も慣れた指さばきで片手でロング缶を開け、まずは一口軽く煽った。


「おい、仕事中だ」


「おまえが寄越したんだ。流れで飲むに決まってんだろ」


 もう一口、ぐびり。


「ちょっと、離してくんない?」


 パープルレインが身を捩って抵抗を試みたが、それは無駄だ。恭壱の腕はパープルレインを掴んで決して離そうとはしなかった。しかし、その腕に込められたのは強力なパワーだけではない。パープルレインの華奢な腕を引きちぎらないよう、まるで手を繋いでいるような優しいパワーも含まれている。


 こいつには勝てない。魔法少女パープルレインの本能が三神美海華の心に囁いた。この力、敵うわけがない。敵意と戦闘心が粉々に砕かれる。


「面談はこじれたようだな。俺から単刀直入に言わせてもらう」


 どうぞ、と大然が肩をすくめる。


「パープルレイン。おまえ、ヴィラン・メタ・コンプライアンスに入れ」


「はあ?」


「転職だよ、転職」


 彼女の、彼の腕を捻り上げたまま恭壱は淡々と続ける。


「魔法少女ってほんとは十八歳で卒業しなきゃなんないんだろ。年齢詐称はともかく、このままヒロイン引退なんてもったいねえ」


 三神美海華の横顔を覗き込むようにして恭壱は言う。


「俺もQTCの中じゃパープルレイン推しだったんだ。まだやれるだろ」


 プイッとそっぽを向くパープルレイン、三十一歳魔法少女男性。


「福利厚生はもちろんのこと、我が社は年齢や性別に関しても採用条件に含まれません。何者でもウェルカムです」


 大然が恭壱の言葉足らずの部分を補足する。


「これは大きな声では言いにくいことですが、副業も許可しています。ヴィラン社に所属しながらこの店でアルバイトを続けることに何ら問題もありません」


「悪くない条件ね。でも、いい加減手を離してよ。考える余裕も与えてくれないわけ?」


「ああ、悪りい」


 握っていたパープルレインの手を離してやる恭壱。その手で黒縁の眼鏡も外す。


 一瞬で薄暗いバーの空気が変わった。


 三神美海華の心の中で渦巻いていた挫折と敗北感と、捻り上げられた肘と肩の痛みとともに雨が上がるように消えていく。晴々とした気持ちが心の中に満ちてくる。深呼吸ですら胸に気持ちがいい。


「僕と首藤とであるプロジェクトを進行中です。社会に一つやらかしてやろうと思っています。もし、まだ燻っている正義の心があるならば、美海華さんの力をぜひともお借りしたい」


 大然の決めの一言が美海華に突き刺さった。


 美海華は自分の小さな手のひらを見つめて、ちらり、横目で恭壱に訊ねる。


「あんた、手加減した?」


「俺は魔法少女を殴らない主義でね」


 モスコットの黒縁の眼鏡を胸ポケットにしまって、恭壱は答えた。

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