第2話 齋藤一路
「誰にだって何もかも投げ出したくなる瞬間があるだろ」
大然は道すがら説明してくれた。アポの時刻まではまだ余裕がある。約束の場所まで少し歩こう、と恭壱を本社ビルから連れ出して。
「今まで丹念に積み重ねてきたものをほんの些細な出来事でやけを起こして足蹴にする。どんな民間ヒーローにもそんな隙がある」
恭壱にとっては勤務時間に会社敷地から外に出る業務なんて久しぶりだ。いつ以来だろう。ひょっとしたら数年くらい業務時間内は引きこもっていただろうか。
「僕はその隙を見つけ、穴を開けて、広げて、堤防を決壊させるんだ」
「嫌な奴だな」
「僕だってヴィラン・メタ・コンプライアンスの社員だよ。それくらいするさ」
背が低く横に長いマンションが立ち並ぶ居住区。マンション群の合間に日当たりの良さそうな公園があった。
陽気な太陽が高く登った午後のひと時、芝生の公園には学校帰りの小学生の楽しげな声が響いていた。
「で、小学生に悪さするのか?」
甲高い歓声に顔を顰めて恭壱は聞いた。子どもと親しく接したことのない引きこもり社員にはこの高周波は少しきつい。
「まさかだろ。そんなヴィランがいたら僕が真っ先に始末するさ」
「なんだ。実はいい奴ってパターンか」
「ヴィラン・メタ・コンプライアンス社員としてのプライドくらいはあるさ」
公園の外れにある陽の当たるベンチを選び、恭壱に座るよう促す大然。
住宅地に広がる芝生が眩しい麗かな午後。都心にいるはずなのに、どこか穏やかな時間が流れる田舎の休日の匂いが感じられた。
「この公園を選んだのは」
小学生が走り回る公園のベンチにスーツ姿のいい歳した大人が二人並んで座る。子どもから見れば異様な光景だ。
「最寄駅が意外と遠くて都バスぐらいしか走っていないからだ」
「ずいぶん歩かせてくれたもんだな」
「いいじゃないか。会社で座りっぱなしは不健康だよ」
と、そこへ一台の自動車が公園に横付けされた。電気自動車全盛の時代に耳障りな排気音を撒き散らす型遅れのドイツ産高級車。白髪混じりの中年男性が窓を開け、タバコに火をつけた。
「あいつか?」
タバコ嫌いの恭壱が眉を顰める。
「いや、知らない車だな。あっちのバスに乗ってるかも」
エンジンをかけっぱなしでタバコを吹かす中年男。それを迷惑そうに車道を跨いでバスが走り、すぐ先の公園前停留所に停車した。やや間を置いて、一人のヒーローが降車する。
「約束の時間ぴったり。さすがは民間の正義の味方だ」
ドライビングヒーロー、マスクドドライヴ。ありとあらゆる移動を目的とした機械の運転をさせたらこの国でベスト10に選ばれると賞される交通手段の名手。普段は愛車のライトニングスピーダー号を駆っているのだが、ただいま免停中だ。本名は
「ヒーローの正装でバスに乗るなんて、よほど律儀な人間のようだな」
「いい奴だな。俺は気に入ったぞ」
「僕もだ。だから今回のプロジェクトにとアポを取ったんだ」
マスクドドライヴ。上半身はいかにもレザーなジャケットに身を包み、肩と肘とに関節プロテクターを装備している。胸にはスピードの英文字をロゴ化したデザインがほどこされ、ごついブーツは見た目歩きにくそうだ。頭部をすっぽりと覆うフルフェイスタイプのヒーローマスクをかぶり、アイマスク部分はタイトに締り、ライトブルーのLEDライトが輝いている。
この格好で十数分も乗り合いバスに揺られていたのかと思うと居た堪れない気持ちになる恭壱だった。
バス停留所で降りたマスクドドライヴは公園に入る、と見せかけてくるりと振り返り、バス停留所付近に違法に停車中のガソリンエンジンを回しっぱなし高級車に声をかけた。
「あいつ何やってんだ?」
「さあね。正義の心でも疼いたのかな」
何やら丁寧に話しかけている様子で、どことなく腰も低そうに見える。話している内容までは聞こえてこないが、違法駐車中年男にかなりぞんざいに相手されたようだ。タバコの煙を吐きかけられている。
ぺこりヒーローマスクの頭を下げて、一歩後退り、もう一度ヒーローは頭を下げた。
ようやく公園内にブーツを踏み入れて少し周囲を見回してからこちらのベンチに歩み寄るマスクドドライヴ。
恭壱も公園内を見回してみた。なるほど。公園で遊ぶ小学生以外に人間は自分たちしかいない。アポの人間を間違えようがない。
「どうも、マスクドドライヴさんですね」
先に動いたのは大然だった。マスクドドライヴがベンチに最接近するよりも早く先制攻撃。胸ポケットからアルミニウムの名刺入れを取り出して、マジシャンのような丁寧な指さばきで一枚取り出す。
「はじめまして。ヴィラン・メタ・コンプライアンス総務部の葉山大然と申します。本日はよろしくお願いいたします」
両手でうやうやしく差し出された大然の名刺を受け取り、きっちり二秒間見つめた後、ちらりと恭壱の方に身体を四十五度向けるマスクドドライヴ。
「おなじく、首藤恭壱です」
名刺を差し出す行為なんて十何年ぶりだろうか。名刺マナーなんかすっかり忘れた恭壱は見様見真似で名刺を手渡す。
「すみませんが、あいにく自分は名刺なんて作っていないもので。名前は齋藤一路。マスクドドライヴと名乗っています。街のヒーローって言うんですか? 僭越ながらやらせてもらってます」
フルフェイスマスクを揺らす程度に軽く頭を下げる。もらった名刺をどうしようか、どのポケットにしまおうか、ともたつくマスクドドライヴに恭壱は唐突に質問を投げかけた。
「何の話を?」
「何って、何がです?」
マスクの奥で困惑した表情を浮かべているのがよくわかる若い声。
「いや、あの車と何か話していただろ。お仲間のヒーローか誰か?」
恭壱がバス停留所付近に違法駐車中の高級車を見やる。大然もそれに倣らう。
この面会に際して、どうやって話を進めようか一応計画は立ててはいたが、恭壱が会話の主導権をかっさらっていくとは。おもしろそうだから流れに任せてみよう。そう心の中でつぶやく大然だった。
「いえ、違います。バスの運行の妨害行為になるので、停留所付近には停めないでくれって言ったんですが」
フルフェイスマスク越しに頭を掻こうとしてしまうマスクドドライヴ。無為にヘルメットを撫でるだけだった。
「スピード違反のヒーローが言うんじゃねえって、逆に怒られてしまいました」
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