あなたの体温にもう一度

きぬもめん

第一章

プロローグ 引き金

 ただの一度だ。ただの一度、触れればいい。

 そう思っているであろう骨ばった手は、彼より一回り小さい自身の手の前をもう何度も行ったり来たりを繰り返している。


「先輩」

「う、うん。分かってるよ。分かってるんだって」

「……もう放課後も過ぎますよ」

 教室にはもう誰もいなかった。主を失った机たちが教室でただ忠実に黒板を向いている。教卓に背を預けた姿勢のまま彼らの視線を一心に受けながら、ミツキは余った片方の手で大きくシャツの襟を引っ張った。蒸し暑さに負けた大粒の汗が、また一つ彼の鎖骨のくぼみから胸の肌着へと吸い込まれていく。その一瞬、彼の前で息を飲む音がかすかに生ぬるい空気を揺らした。

 雨粒が窓を伝って、また一つ落ちていく。その時間が永遠のように長く感じた。


 息の詰まるような蒸し暑さ。もう夏休みもすぐそこと分かるような気候だった。突然降り始めた雨が激しく窓を叩いている音が聞こえる。暗いのに妙に明るい、おかしな天気だった。

 黒髪の男子生徒はうつむいたまま手を出している。右頬に、大きな火傷の痕があるどこか中性的な容姿をしていた。

 彼、ミツキは何度目かのやり取りに雨粒に紛れそうなほどの声でぽつりと言う。

「……もう今日はやめておきませんか」

「い、いや! 今日はいけそうな気がするんだ」


 何度目だ、その意味の分からない自信は。

 さっきから一ミリだって前に進んでいない手を前に、彼は熱のこもった黒髪を片手で梳く。今日一日分の溜まった熱さがその隙間を縫うように流れていった。

「無理したっていいことないですよ。リョウタ先輩」

「人が決意してんのに揺らぎそうなこと言うなっての!」

「熱いの駄目って言ってたくせに」

 彼がそう言うと、目の前の人懐っこい目がじとりと睨むようにミツキを捕らえる。まるでこちらを恨むようなその視線を、ミツキは平坦な目で眺めていた。


 そのまま、嫌ってくれればいいのに。俺のことを突き放して、二度と会わないと面と向かって言えばいいのに。


 ぼんやりとそう思いながらも、目の前の優しい先輩がそんなことができる訳ないとミツキは分かっていた。彼はどうしようもなくお人よしで、努力家で。それでいて自分のような人間にも残酷なほどに優しい。


 ミツキは目の前に立つ彼を見る。リョウタの覆いかぶさるような体格が、丁度窓から影になるようにミツキを覆っていた。

 夏の日差しに焼けた肌に、校則に引っかからないぎりぎりを見極めた柔らかい茶髪。同じシンプルな半そで制服のはずなのに、先輩が着ると随分垢ぬけて見えるのが不思議だった。

 普段から人に囲まれていて、廊下を歩けば必ず声を掛けられるほどには人気者。そんな年上の彼は、難しい顔で何度も手を出したり引っ込めたりを繰り返している。

 

 別にわざわざこんな体温がダイレクトに伝わる時期にやらなくてもいいのにと、ミツキは変わらない表情のまま思考する。前にも見た、先輩の粗治療だった。苦手なくせに、何故か無理やりどうにかしようとする彼の悪癖。

「よし、よし! 行くぞ……!」

「はーい」

 手を伸ばすだけでここまで意気込む人間もそうはいないだろう。亀以下の遅さで自分に向って進み始めた手を前にミツキは思う。


 少しずつ、少しずつ。薄皮を一枚ずつ縮めるような遅さで。

 切り揃えられた形のいい爪が徐々に近づいてくるたびに、どうしてか息をつめてしまう自分がいた。先輩の境界が、自分の影を侵食していくたびに呼吸が詰まった。むせ返るような夏の匂いと、それに紛れた汗と制汗剤の匂いが鼻を掠めるたびに鼻での息の吸い方を忘れてしまう。

 ミツキは気づかれないようにそっと息を吐く。まるで弱い火でちりちりと炙られているような心地だった。じれったくて、気がさざめいて、自分の呼吸ばかりがうるさい。

 どくどくと、心臓がうるさかった。自分ばかりがそう感じているのだと、そう突き付けられた気さえした。


「あと、あと少し……っ!」

 焦っているような、恐れているような声が耳朶を揺らす。その感覚に肩が跳ねそうになるのをミツキは無理やり押さえつけた。舞台で演じる時とは違う気持ちのざわめきに頭の中がかき乱されていく。

 腹の底で渦巻く不快感が、肌のすぐ内側で暴れまわる衝動が、ぞわぞわとミツキの体を支配していった。


 永遠にこのままでいたい。早くこんな時間過ぎ去ってほしい。


 背反する二つの言葉が浮かんで消える。雨の降る放課後の教室は、まるで世界に彼らだけが取り残されたような気がして。


 けれど、永遠にも思える長い時間の終わりは時計の針が進む音と共に終わりを告げる。気を急いたようなリョウタの呼吸音と共に、夏の暑い体温がミツキの掌に触れた。ミツキの低い体温が、よりその熱さを強く感じさせる。

 しかしその手はすぐさま離された。リョウタは自身の手を見つめた後、やってやったと言わんばかりに拳を振り上げながら言う。


「――――っしゃあ! やってやったぜ!」

「……おめでとうございます。先輩」

 けれど、やり遂げた彼とは反対にミツキは落胆していた。

 ああ、もう終わってしまうのかと。もう離れていってしまうのかと。そう考えた自らに、吐き気を覚える。

 そんなことを思う


「な! な! 今の見てたよな。俺これで―――」

 輝かしい笑顔が、弾けんばかりの口角がミツキの目を焼いていく。彼自身の中に覆い隠されてきたものを容赦なく浮き彫りにする。

 そして、彼は。その明るさに堪えられそうもなかった。余計なことを言ってしまう前に、早くこの場から逃げ出してしまいたかった。


「先輩―――」


 だがしかし、その衝動を押しつぶすかの如く目の前の巨体がミツキにのしかかってきたのは、ほんの数秒先の出来事である。

 

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