短編 『屍の囁き』

へいたろう

短編 『屍の囁き』

 とにかく、慌てていた。


 最初の異変は、窓の外から見える景色に、人の内臓が転がっていた所から始まった。


「――――ぐぅッ!」


 ドンドン、ドン、ドンドン。


 そうやって何度も玄関先を殴り叩いてくる異型の生物は。

 映画でよく見るゾンビの様だったと思う。

 鼻先から異臭がして、吐き出しそうな悪臭に全身が突き動かされる。

 思わず瞠目したその先には、腐りきって、血臭い腕が三、四と伸びてきていた。

 それを木製ドアで必死に抑えて、俺達の家族はこの数時間生きながらえていた。


「……お、おと、おとぅさん?」


 心配そうに息子が聞いてくる。

 息子はすでに涙目で、腕が震えていた。


「……ごめん。もしかしたら、ん゛ッ、お父さん、もう無理かもしれない」


 限界だった。

 いいや、とうの昔に限界は超えていたのかもしれない。


 何度も諦めかけた。

 だけど、今だに立っている生きている息子を見ていると。

 舌を噛んだり、

 腕を叩きつけたり、

 大声で叫んだりして。

 限界を超えてきた。


 歯噛みをしすぎて歯が欠けて、口の中から吐き出しそうになる鉄分の匂いと味がやんわり広がる。


「お父さんさ、お前の事を守れなかったんだ。本当に、ごめん。こうなるって知らなかった」


 最後の瞬間、俺が何を口走ったか。それは覚えていない。


 何か、こう、意味をなしてない何かを馬鹿みたいに嘆いていたと思う。

 目を見張って、益体もない言葉を、ただひたすらに息子に言っていた。

 ……時には楽しかった思い出も話していたと思う。

 命の危機だからだろう、走馬灯ってやつかな。

 そうゆう、楽しかった思い出が馬鹿みたいに溢れてきて。

 それを息子に喋っていると、不思議と楽しかったんだ。


 少しくらい、気を紛らす事しか出来なかった。

 だけどこの一瞬、一瞬が、最高に幸せだったんだ。


「父さん、さ。お前と居れて楽しかった。少し痛いかもしれないけど、すぐお父さんに会えるから」


 どうしようもない妄想。

 死を受け入れたからこそ縋るものが欲しかった。

 だから俺は、どこでもない、天国で会おうと息子に言ったんだ。


「い、いやぁ…だ。しぃ…、死にたくぅ、ない。よ……?」

「そうだよなぁ……死にたくないよなぁ……分かってる。俺はお前のお父さんだ、最後まで一緒だからな」


 背中越しに、もう半壊している木製ドアが破裂しそうだった。

 小さな耐久力にすがって、俺は身を犠牲にしながら戦った。

 胸の内からこみ上げるものを感じて。

 それが俺を熱く、焦がすように焼いた。

 それを涙だと、自覚した瞬間。



 ――ドアは打ち砕かれ、一人の怪物が家に入った。



「――――ア?」


 ドアを破ると、異型の怪物は周りを見回した。


 古い家だった。

 手入れが届いておらず、

 床下は腐れ、

 天井からは草が垂れ下がっていた。


「――――」


 異型の怪物は進んだ。

 右腕が無いその怪物は、小さな通路を進んだ。


 その際、通路で踏んでしまった電車の模型は。

 子供が片付け忘れた物だと気がついた。

 そうやって、おぼつかない足取りで。怪物はリビングに入った。


「――――」


 酷い、有様だった。

 玄関のドアこそは頑丈だったが、窓は突き破られ。

 そこには血痕が爪痕のように続いていた。

 食器棚に飾られていたと思う、名前を忘れた日用品は。

 もう分からなくなるほど壊れていた。


「――――アぅ」


 異型の怪物は気づいた。

 食器棚の横、小さなタンスの上には。

 何故か倒れている板があった。

 だけどそれは何か異質な物を兼ね備えている訳ではなく。

 だけど何故か、怪物はそれを見た瞬間釘付けになった。


 反射的だったと思う。

 怪物はタンスに足を踏み出した。

 足がうまく使えないからか動きは遅く。

 腕は醜くなるほど半壊していた。

 動くたびに不要な動作が時間を奪い。タンスに辿り着くまで、数分と掛かった。


「――――」


 暗く、照明なんて付かないその場所には雨が降りしきり。怪物はずぶ濡れだった。

 ゆっくり、気になった板を持ち上げる。


「――――――っ」


 人間の写真だ。

 人間の家族だろう写真だった。

 写真の場所は、このリビング。

 今雨が降っているのと反対に、その写真では眩しい程の逆光が家族を明るく照らし。

 そこには――三人の家族が、笑顔で写っていた。



 この家の息子だろう。

 まだ七歳で、可愛く。

 好きなものは、お父さんだった。


 この家の母親だろう。

 華奢な体つきが印象的で、厳しいが。

 甘え方を知らないだけだ。


 この家の父親だろう。

 たくましい笑顔だ。

 自慢の筋肉を息子に見せるのが大好きで、家に活気を作っていたのは父親だった。


 みんなが笑っていた。

 今みたいな暗い世界じゃなく。

 明るい世界で、幸せそうに。

 それを見たからと言って、その怪物は何も感じなかった。

 だって、感情が無いからだ。


「――――」


 だが。

 忘れてはいけない事がある。


「――――っ」


 その怪物は、人形だ。


「――――――」


 その怪物は、元々人間だった。


「――――ぅ」


 その怪物が歩いた先は、壊れたテーブルだった。

 三人家族が座る用なのだから、三つの椅子があった。

 だけどそのうちの二つが壊れていて。

 それを見て、異型の怪物は安堵した。


「――――ア、う」


 異型の怪物は、残った椅子に座った。

 そこはあの父親が座っていた椅子だった。


 感情がない筈の怪物は。何故か衝動的に、その椅子に座った。



 そして、もう欠けて歯がない口で。



「ご……ェん。イ…ょに、ハ。なェ……ぁかァ、た」



 回らない口で、欠けた歯で、潰れた喉で。

 小さい、囁きに近い懺悔だった。



「ぁモ……れェ、カァ…た。あぇ、ナが……た」



 椅子に座り。

 小さく、荒廃した家で、新築だったはずの家で。


 異型の怪物は、座りながらそこで腐った。





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