その声に誘われたから私はゴブリンの朝食を作る!

しほ

第1話 幻聴との約束

「その島は地図には存在しない

でも実際にあるんだ

地球儀を思い出して

心の目を開いてごらん

太平洋の赤道よりは少し北の方だよ

君の背中には羽があるんだ

飛べるんだよ」


 不思議な声が脳内に話しかけてくる。サラはまだ誰も帰らないリビングで頭を抱えてしゃがみこんだ。昨日の夜もそうだった。


 アルバイト帰りの電車の中だった。自分にだけに語られる声はイヤホンをしていてもはっきりと聞こえる。周りの人には聞こえていない。つまらなそうに足元を見つめるサラリーマンも、これから夜の街へ繰り出すおねえさん達も、誰しもが表情一つ変えずに座っている。


 ストレスからくる幻聴なのだろうか。サラは耳を塞ぎその場をしのいだ。そんなことをしても意味がないのに。


 リビングで勝手に話しかけて来る声に耐え、しばらく床にうずくまっていると声は消えた。その代り玄関から騒がしい音がした。


 母がスーパーの袋を下げ仕事から帰って来たようだ。


 いつものように職場の出来事や、帰りに寄ったスーパーの特売の話だのをひとしきりしゃべっている。サラが聞いているかいないかは、お構いなしだ。サラはソファに座り明日の天気予報を見ていた。

(早く定職につかないと…。)

 

 懸命に働くアラフィフの母を見ると余計に焦ってしまう。

 

 するとまたあの声が始まった。


 サラはテレビのボリュームを上げ、脳内に話しかけて来る声を遮った。しかし、彼の声だけが鮮明に聞こえるのだ。何度か聞かされたこの声は同じ男性のものだった。


「ミクロネシアの小さな島々を超えて東へ飛んで

 偏西風に乗って飛ぶんだ

 イメージが大事だ

 落ちるなんて考えちゃいけない

 日付変更線を超えるんだ

 ハワイの手前だよ」


「もうやめて!」


 サラは思い切り叫んだ。母は手にしたじゃがいもを袋ごとドサッと床に落とした。


「ごめんサラ。そんなにうるさかった?」


「違う、お母さんに言ったんじゃなくて…」


 サラは幻聴のことを言い出せず、答えが尻すぼみになった。母は何もなかったようにじゃがいもを洗い出した。


「最近耳鳴りがするんだよね」


 時間を置いた後、サラはぼそっと呟いた。


「じゃあ、耳鼻科だね。予約入れておこうか?ほら、じいちゃんが通ってた駅前の栗山耳鼻咽喉科」


「うん、お願い」


 サラは少しほっとした。


「夕飯、肉じゃが作るね。きっと疲れてるのよ。今日は早く寝なさい。仕事で大きな鍋使ってるんでしょ。肩こりから来る耳鳴りもあるからね。ゆっくりお風呂入っておいで。だからね」


「ヤッター!」


 サラの頬が桜色に輝いた。


「ノアは夜練?」


 サラに聞かれて母は冷蔵庫の横に貼られた部活の予定表を見た。


「今日は7時までだって」


「そっか、ノア頑張るね。高校入るまで足があんなに速いなんて知らなかった」


 そう言い残しサラはお風呂へ行った。ゆっくりと湯船につかり全身を優しくマッサージした。いつもシャワーで済ませていたことに後悔するくらい気持ちがよかった。


 もしかすると、母に幻聴(耳鳴り)のことを打ち明けたこともあるのかもしれない。気分は軽く鼻歌までが飛び出した。


 その時だ。

 

「そろそろ信じてくれてもいいんじゃない」


 またあの声がした。サラは湯船に背中を滑らせ、仰向けのまま潜った。

(まただ、またあの声。もうやめて明日病院行くから、もう話しかけないで)



 サラは勢いよく口から息を吹き出し、水面から顔を上げた。もちろん誰もいない。


「話しかけないわけにはいかないんだ。君は選ばれたから」


「誰なの!耳鳴りじゃないのは分かってる。誰?」


 サラはとうとう脳内に話しかけて来る声に答えてしまった。


「頼みたいことがあるから来てほしい。来てくれるならもう勝手に話しかけないから」


 サラはこの提案にどうこたえようか迷った。しかし、幻聴はもうこりごりだった。


「わかった。どこに行けばいいの?」


「ビートアイランド 痛手を負った奴らが集まる隠された島だよ」


「えっ、それ日本じゃないでしょ」


「そうだよ。だから君の家からの行き方を説明してたんだよ。でも君が遮った」


「私アルバイトがあるのよ、大学の学食で昼から夕方まで働いてるの。だから、そこには行けない」


「大丈夫、君が寝てる時間でいいから。意識だけを貸してよ。ちゃんと報酬も出すから、こっちの食堂も手伝って欲しい」


 サラは自分の頭がどうかしているのかと思った。でも明日病院で薬をもらえばこの声から解放されるのだ。そう思い、今だけはこの声に付き合うことを決めた。


「じゃあ、私はこれからお母さんの、美味しい美味しいを食べるから、絶対に話しかけないでね」


「鶏肉?牛肉じゃないの?」


「そう、うちは父が関西で母が北海道出身なの。だから牛でも豚でもなくて鶏肉を使うよ。これだともめないのよ」


「そういうことか。じゃあカレーも?」


「そうね。鶏肉を使うことが多いわ。もういいでしょ。夜に私が部屋で1人になるまでは話しかけないでね。絶対よ」


 サラが凄みを聞かせて念を押すと、彼の声は消えた。


 キッチンへ行くと砂糖と醤油が混ざり合った出汁の香りと、鶏肉の皮目が焼ける香ばしい香りが溢れていた。


 サラの家の肉じゃがは始めから肉を一緒に煮込まない。食べる直前まで一口大よりやや大きめの鶏肉をじっくりと時間をかけて焼く。


 焼いている時に出た余分な油は、じゃがいもや人参が入っている鍋に移しコクをプラスする。


 食卓に上がる寸前に皮目がパリパリになった鶏肉を合せる。大皿にドカンと盛り付けられた肉じゃがは誕生日のケーキのように食卓の主人公になるのだ。


 最後の仕上げに、ネギと七味を振りかければ、『仲良し肉じゃが』の完成である。煮汁はじゃがいもが吸ってどこにも見当たらない。


 父も妹のノアも帰って来て4人の夕食が始まった。白ごはんに肉じゃががあれば、もう何もいらない。サラの家の肉じゃがは食が進んでたまらない。ニンニクが隠し味で入っているせいなのだろうか。


 サラは幻聴との約束をすっかり忘れていた。

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