第112話 三十一歳 冬・更月

 アーメルサスが終わったことを確認し、それがガウリエスタの勝利ということだと納得して……私の中で『元ガウリエスタ人』であるシュレミスに対して何かが変わるだろうか、と少し不安だった。

 だが、翌日に彼の顔を見た時に『何も変わらない』と確信できて、やっと本当の『終わり』になった。


 私はガウリエスタもガウリエスタ人も憎んではいない。

 それが解っただけで、とても嬉しい。

 あの国のために、誰かを憎んだりしたくなかったから。

 シュレミスは、私が自分を見てニヤニヤしているのが少し気味悪かっただろうが。



 その日、遊文館で子供達と本を読んでいた時に、子供達が今日はタクトさんがいない、と言っていた。

 どうやら近所の子等のようで、家の裏庭でも見かけなかったという。

 あ、何人かは一緒に折り紙をやっていた子達だ。


 タクトさんがいない……とは、どういうことだろうか?

 この町からは出られないはずだし、そういえば、この数日、遊文館でも見かけていない。

 だけど、あの書き方の講義がまた開かれるはずだ。その時にはいらっしゃるだろうが……本を読みにもいらしていないとは、なんだか不思議な感じだ。


 なんだか淋しそうにしていた子供達に、きっと書き方の講義の準備で忙しいのではないかな、と言うとちょっと顔を見合わせて、そうだね、と笑った。

 タクトさんは子供達に随分と人気があるようだ。


 私と彼等との会話を聞いていたのか、近くにいた少年……いや、あまり背は高くはないが、青年、だろう。

 その彼が私に話しかけてきた。


「あんたは、教会の人だよな? タクトって人もそうなのか?」

「いや、違うよ。タクトさんは南・青通り三番で食堂をやっているご家族の方だ。魔法師ではあるけれど」

「その食堂って、ここの食べ物を入れている食堂だよな?」

「そうだね。美味しいものばかりだよね」


 青年は、こくり、と頷き魔法師が作っているとは思わなかった、と呟く。

 どうして彼はタクトさんが教会の人だと思ったのだろうか?


「……ちょっと、話を聞いた感じでそう思っただけで……あんたさ、そのタクトって人のこと、知っているのか?」

「何度かお会いして話をしたよ」

「どんな人?」

「……変わった考え方をする、面白い方だが……とても知識量があるし、お優しい方だと思う」


 ちょっと不思議に思ったが、私は自分が感じていたタクトさんのことをその青年に話した。

 するとその青年は、少しだけ微笑んだ。

「変わっているのか、やっぱり」

 やっぱり?


 その言葉の意味を聞く前に、その青年はありがとう、と言って離れていってしまった。

 あ、講義の日を確かめている。

 そうか、どんな人が教えてくれるのかが気になったんだな。

 まだ最初のものもやってくれるみたいだから。


「第二回以降は……どういうものだったのだろうなぁ」

 私の独り言に、何人かの子供達が面白かったよ、と言うのでどんなことをしたのかと聞いたら……ひとりの子が綴り帳を見せてくれた。

 初日に、子供達だけに配られたものだ。


 薄い灰色で文字見本が書かれていて、それをなぞって書くと正確な『楷書』や『斜書』が書けるようになっている。

 全ての文字と、簡単な単語……凄い。

 これを子供達の冊数分、お作りになったのか。

 その子はまだ幼いからか、あまり上手になぞれてはいなかったが、繰り返しやることでどんどん美しい文字が書けるようになるだろう。


「沢山書いているのだね。きっとすぐに綺麗に書けるようになるね」

 私がそう言うとニコニコとして、今度のもやるんだよ、と得意気だ。

 可愛いなぁ。


 なんだ……?

 子供が可愛い、と無条件に思えたのは……初めて、か?

 いや、生まれて初めて、ではないのか?

 憐れみも何もなく、ただ、可愛い……などという気持ちは。


 やっと……やっと、神官の皆様の仰有ることが理解できたかもしれない。

 いつも、手習いに通ってくる子供達のことをお話しになる時に本当に嬉しそうに、愛しげになさるのが……ほんの少し不思議だったのだ。

 自分の子ではない、その子達の親と知り合いでも友人でもない、ただ同じ町にいるというだけの子供にどうして愛情のようなものを感じるのだろうか、と。

 無条件に幼い命を愛しいと思えること。

 きっとそれは、自分の心が自分の中で落ち着いて、やっと感じられるものなのかもしれない。

 自分が自分を認められ、幸福でいることが悪いことではないのだと心から思えた時に。


 今なら、私はきっと言える。自分のことが、好きだ、と。

 私は初めて……今までの自分の全てを許せる気持ちになっていた。

 まだ、胸の中にほんの少しだけ……痛みは残っているが。


 夕方になり、遊文館から出て教会への道を歩く。

 隧道の中は明るく、光がきらきらと鏤められている。


 ずっと幼い頃は『待っている』ばかりだった。

 父の言葉を、母の優しさを、神々からの啓示を。

 救いと努力への答えは、他者からもたらされるものとどこかで思っていた。

 与えられないのは、自分が至らないせいだとしか考えていなかった。

 もっともっと励めば、いつか必ず他の方々と同じように評価されるはずだと。


 そうして、ただ待ち続ける努力をしていたのだ。


 待っていたのは、怯えていたからだ。

 不安と恐怖の正体も知らず、知ろうともせず。

 それが解って、やっと待っているだけだった自分が見えた。


 自らの足であの施設を飛び出した時、初めて……ほんの少しだけ、前を見た。

 待っていても何もやっては来ないと、気付いては忘れ、忘れては惑い、立ち止まっては振り返ってしまい、その度に何度も何度もいろいろな方達に背中を押され、腕を引かれ、どれほど励ましていただいただろう。


 国の現状も、今まで盲目的に信じていたことの是非も、何ひとつ正しい現実を見つめることすらできていなかった。

 ひとつひとつの現実を理解して、納得してやっと、自分の中の『認めたくない自分』を認めて許せた。


『気持ちや人生に『解決』なんて、なかなかあるものじゃありません。すっきり何もかもが上手くいくなんて、余程の幸運がないとあり得ませんよ。そんなもんでいいんです』


 タクトさんの声が聞こえた気がした。

 解決なんてなくて、すっきり上手くなんていかないのが当たり前……

 答えがなくてもいいのだと思うことで不安が消えて、それは自分だけではないと言われて恐怖もなくなった。


 そしてきっと、私は『楽』になれたのだ。

 酷いことに、祖国が滅亡したから。

 でも、あの国のことを想うより、今、この子達を愛しいと想えたことの方が何倍も嬉しい。


 やっと、私は自分以外の誰かを愛せるようになれたのだと、自分で知ることができたことがなにより嬉しい。


 白く輝く町の中心へ向かって歩いている自分と、前や横に共に歩むレトリノやシュレミスを見つめる。

 同じ道を歩く彼等の姿に、私はひとりではないのだと気持ちが強く持てる。

 言葉を交わし、笑い、時には文句など言いながらも。


 待っているだけでは、得るものはあまりに少なく失うものが多いと知った。

 この大地ほしでさえも、天光を求めて巡っているのだ。

 歩いて行くのだ。

 少しずつでも、明るい道も暗い道も。

 求めるものがあるのならば尚のこと、歩き出すべきなのだと今なら言える。


 今の私は、その道がどこへ続くか解らなくとも、孤独ではないと知っている。



『天光を待つ』編 了


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