第16話 三十一歳 夏・望月-6

 外壁を初めて間近で見たが、鉄壁の上部が『刃』になっていた。

 登れないように……ということなのだろう。俺が用意できたこの縄では、切れてしまうかもしれない。だけど、もう、ここには居たくない。


 ああ……結局、俺はいつも自分のことだけしか、神に祈ることができない。

 自分のためだけにしか……動けない。


 目の前の壁は一番出入り口から遠くはあるが、足をかけることもできない鉄壁。

 壁の外にある大木に向かって、鎌縄を投げた。

 鍵縄は太めの枝のひとつに絡まりつき、なんとか固定された。


 縄が壁の刃で切れる前に、何とか登り切って反対側に降りられれば……この厚手の手袋なら、すぐには手が切れずに耐えられるはず。

 かかった縄を頼りに壁を登るが、足が滑る。

 俺が動く度に、縄が少しずつ切れていく。


 もう少しで壁の端に手が届くと思ったその時に、俺と大木を繋いでいた縄が完全に切れた。

 宙に舞った身体が、地面にたたきつけられる。


 どすんっ


 思いの外大きめの音がした。

 多分、兵士達に気付かれただろう。

 今夜は信じられないほど静かで、俺の落ちた音で住人達が窓を開けるかと慌てて見上げたが……どこも灯りは点かなかった。


 兵士達が来るのは……どちらからだろう。

 でも、あと、この壁を登れるとしたら……

 あっ!

 壁の角なら刃のつなぎ目にある隙間に縄をかけられるかもしれない!

 走り出したが、足がもつれる。

 焦りが募る、そして恐怖。


 突然、目の前に真っ黒い空間が現れて、赤い瞳が目に飛び込んできた。


「え?」

 驚いて立ち止まる。

「入れっ!」

 その男は俺の手になにかを握らせ、別の黒い空間へと俺の腕を掴んで飛び込む。


「ふぅぅぅー、間に合ったぁ!」


 赤い瞳の男と飛び込んだ真っ黒い空間は、もう何処にもない。

 何が起きたんだろうか?

 目の前には森があり、壁も施設も何ひとつなくなった。

 俺はへたり込んでしまい、立ち上がることすらできずに呆然としていた。


「……立てるか?」

 差しのべられた手に……見上げるように振り向くが、その手を取ることすらできない。

 そして、握り締めていた手を開くと、真っ赤な貴石。

 魔石……?

 こんなにも美しい貴石なんて、俺はこの国で見たことはない。


「すまない……驚いて、しまって」

「『門』は初めてか?」

「ああ……ここ、どこなんだ」

「ドォーレンの東側にある森の入口だ」


 ……は?

 ドォーレン?

 一番東の外れじゃないか!


 いくら『門』の方陣札だって、首都の中心部から縁のウェレンに行くのが精一杯の筈だ。

 こんな、歩いたらひと月以上かかる場所へ、一瞬で?

 驚きつつも、なんとか手を借りて立ち上がった。

 見回すと……その男の後ろには森ではなくて道が見えた。


「……凄いな……皇国の、魔法って」

「神々の加護があるからな」


 神々の加護。

 たとえ帰化人であっても、皇国の者には神々は加護を賜うのか。

 こんな大きな魔法を平然と使って、顔色ひとつ変えないなんて俺には信じられない。


「どうして、あの建物の中で、魔法が使え、たんだ?」

 魔法が得意な皇国人が逃げ出さないように、魔法制御の結界が張られていたはずだ。

 神職の者達が何人もで作った結界を、どうやって解いたのだろう。


「あんな粗い結界で、魔法が使えなくなる皇国人などいない。中の人達は平気で魔法を使っていたぞ?」

「そう、なのか……」


 まるで当たり前だ、とでも言うように赤い瞳の男はたいした感情もなくとんでもないことを言う。

 こんなにも、こんなにも違うものなのか……

 でも、兵士に捕まったのはあの施設から出ることはできても、この国から出られなかったから……?


 他の皇国人達のことを見つけてくれって言っていたのは、あの施設の中が他の町よりもまだマシだったから?

 こいつは、初めからいつでも自分だけは出られたのか。

 他の人達を置いて、ひとりだけ逃げ出せるから平気な顔をしていられたのか?


「あんたは……ひとり、だけで、脱出したのか?」


 ひとりで逃げることが悪い訳じゃない。

 ミレナ達だって、俺だって、多くの人を置いて逃げ出したんだ。

 だけど、なぜ、不快に、思うのだろう。


「俺が最後だったからな」

「最後? ま、まさか、あそこには、もう……?」

「ああ、全員もう皇国に戻っているだろう」


 途轍もない衝撃だった。

 助けに……来たのか?

 この国に囚われている人達がいると知って、態々自らを危険に晒すような真似をして乗り込んできたのか?


「信じられ……ない……あんたが、助けたのか」

「俺は、少しばかり手を貸しただけだ。皇国の衛兵隊が、収容施設四箇所から全員を移動させ終わったはずだ」

「衛兵隊が? ただの民を助けるのか?」


 嘘だろうっ?

 そんな衛兵などいるはずがない。

『兵』とは権力にべったりと寄り添い、民を踏み台にしている奴等の筈だ。

 上の者に媚びて、正義もなく力を振るうことを喜ぶような奴等ばかりだ。

 そしてその上の者のことでさえ心の中ではあざ笑い、たいして優秀でもない癖にと馬鹿にしてるような奴等ばかりの筈だ。


「皇国の貴族達は、臣民を見捨てたりしない」


 全身から、力が抜ける。

 どこまで差があるのだろう。

 溜息が漏れ、肩が落ちる。

 羨ましい……と、思わず呟く声が風に消える。


「……なんだって急に、あそこを出ようなんて思った?」

 突然、脱力して項垂れる俺に注がれる、真っ直ぐな赤い瞳。

 彼は皇国人だけを助ければよかったはずなのに、俺のことまで救い出してくれた。


「あんたに、言われたことを、考えていた。そうしたら……どんどん『考えることができなくなっていった』」

「は? どういう意味だ?」

「そのまま、だ。食事をしながら、考えようとしてて『思考ができない』ということに、初めて、気付いた」


 そして、兵士達から聞いた『再教育』の意味を話した。

 彼は、かなり驚愕の表情を浮かべる。

 皇国にはそういう薬はないのだろうか?

 アーメルサスでは……たまに使われているものだと思うんだが。


「おそらく、精神に作用する『薬』が、俺達の食事、に混ぜられていた。それを、八ヶ月、ほど食べ続けてると、自分の考えというものが、持てなくなる……らしい」

「薬……? 毒の間違いだろうが!」

「少量なら、薬なんだ。一時的に、痛みを和らげたり苦しんでいる人の救いになることもある。ただ……常用したら、壊れる」


 彼の表情が驚きから嫌悪に変わる。


「皇国と違って、魔法では治せないから……多少、危険でもそういうものに頼るんだ」


 魔法も、方陣札も、一般の民は使うことができない。

 病も怪我も、薬といくつかの魔道具で時間をかけてなんとか治していくのだ。


「ちょっとだけ、目を瞑っててくれないか?」


 こいつは、なんだか急に思いもよらないことを言ってくる。

 だが、逆らう気持ちには全くならず、俺は瞼を閉じた。

 背中にふうっと、温かいものを感じる。

 胸の辺りが楽になって、息が深く吸い込める……そんな気がした。

 逃れられた安堵感を、今更感じているんだろうか?


 目を開けてもいいと言われて瞼を開けたら、信じられないほど視界が広がって感じた。

 夜空というのは、これほど明るかったのだろうか?


 星が、煌めいている。

 こんなにも様々な色の光が降り注ぐ夜など、俺は……初めてだった。

 そしてまた、彼は唐突なこと……いや、皇国の人々を救いに来た彼ならば、当然のことを聞いてきた。


「皇国人の食事には……入れられていなかったのか?」

「それは……解らない。そこ迄は話して、いなかった」

「ということは、もしかしたら入っていた可能性もあるな」


 その心配は尤もだろうな、自分も何食か食べさせられていたのだから。

 だが、それを聞いてどうするのだろう、と思っていたらこれでも食べてここで待っていろ、と言われて顔ほどの大きさの袋を渡された。


 袋に気を取られていたら、赤目の男は姿を消していた。

 ……どこかへ、移動したのか?

『門』をそんなにも簡単に、何度も使えるのか……


 渡された袋には『使用材料』と書かれ、小麦、砂糖、卵……などだけでなくアーメルサスではかなり贅沢品であるカカオや扁桃豆なども使われている。

 袋は既に一度開けられていて、何度も開け閉めできる作りになっていた。

 こんなものが、作られているのか?

 それだけでも充分に衝撃的であったのに、中身をひとつ口に入れて更に驚愕の渦へと突き落とされる。


 菓子。


 この国の東側では殆ど口にできなくなった、甘い菓子だった。

 南の国々との交易は、ミューラとディルムトリエンが沈んでしまって全く行き来がなくなった。

 ドムエスタは同盟国でなければ一切の取引ができず、なんとか取引を続けているオルフェルエル諸島では、南方で採れるような作物までは期待できない。

 皇国と繋がりを持てなくなったことは、信じられないほどの打撃となっている。


 どこで、この国は間違えてしまったのだろう。

 どうして、誰も彼も神々ではなく人に縋るようになったのだろう。

 いつから、人はまるで神であるかのように、他者に対して畏敬を求めるようになったのだろう。


 降るような星の中、俺はただ座り込んで夜空を見上げることしかできずにいた。



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『緑炎の方陣魔剣士 弐』第94話とリンクしております。

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