Ⅱ 一九八四年
マリアンは生来の引っ込み思案で繊細な性格と、賢い大人たちに囲まれた環境が災いして、なかなか同年代の友人を得る事が出来なかった。彼はよく父の書斎から本を持ち出しては、公園の遊具に座りペラペラと頁を捲った。そこには同じ年頃の子供が集まっていて、内一人でも彼の手にある『クライスト集』に興味を持ってくれるかもしれないからだ。これは父親の愛読書だから、マリアンは割合自信を持って彼の受け売り文句を披露できる気がした。だが彼と本に関心を抱く子供は一人もいなかった。仮に本を置いて彼らに近づけば、遊びの輪に入れて貰えたに違いない。しかし彼はクライストを手放せなかった。
今日は母の誕生日だ。彼は今すぐにでも帰宅して、母へ自分なりの祝福の態度を表明するべきだと考えていた。だが彼女と二人きりになるのは恐ろしい。書店で時間を潰してから、父と共に内階段を上がれば良い。だが今日に限らず、そんな事一度も試せた例が無い。いつも通り様々な想像だけに囚われて、マリアンは誰かに声をかけられたと気づかなかった。
「すまないが、ズヴェスダという人を知らないか?」
顔を上げると、くすんだ赤毛をきれいに撫でつけた、すらりとした人影が目に入った。父より少し若い位の、恐ろしく容貌の整った男だ。
「い、いいえ」
マリアンははっとしてすぐさま下を向いた。もしかしてこの男は亡命学者を追跡するスパイなのでは?男は琥珀色の瞳でマリアンの顔をじっと見下ろして、今度はドイツ語で尋ねた。
「『クライスト集』だ。君はドイツ語もできるのかな」
マリアンが無言で頷くと、男は上機嫌な様子で本をひょいと取り上げ、頁をペラペラと捲った。
「懐かしいなあ。「コールハース」は私も好きな話だ」
「か、返してください……」
マリアンはふと子供たちの輪に目を留めた。皆が手を止めて、マリアンたちの様子を眺めている。男はそれに気付くと、口に手を当てて微笑んだ。マリアンは赤面して相手を睨みつけた。
「おっと、機嫌を損ねないでよ。こんな所で愛読書を偶然見つけられたんだ。自然と口角も上がるさ」
男はマリアンの隣にすとんと座ると、勝手にぺらぺらと喋り出した。
「クライストを読むくらいだ、君はドイルも読んだだろうね。チャレンジャー教授がギアナ高地で恐竜と組み合いして既に半世紀以上経つ。あそこは今日も未知なる土地には違いないが、流石に理不尽で不可解な恐竜や先住民の生息を信じる者はいないだろう。自然現象だけじゃない。世界の諸事象は日進月歩の勢いで解明されるか、或いは少なくともその見込みがあるわけだが、それでも人間の頭では認識できても納得できないものが存在する。「コールハースの運命」は、そういう理不尽に抗議した一人の男の末路だ」
「……大地震みたいに?」
本当は母親を思い浮かべている事を相手に悟られないよう、マリアンは咄嗟に口に出してみたが、知ったかぶりが却って馬鹿らしく感じられて直ぐに口を噤んだ。
「うん。尤も「チリの地震」の話は、君にはまだ少し早いと思うが。とにかく、理不尽は至る所に存在するけれど、存在を認められなければ抵抗される事も無い。その意味で関心は抵抗の母だ。コールハースの場合、元を辿れば飼いロバの死が関心の切欠だと言える。彼は領主という不条理に関心を向け、反乱という抵抗を起こすに至った。ドイツ語の本には普遍的な価値を持つ古典が沢山あるが、抵抗の主題を持つ作品としては白眉だろうな」
父も似たような評価をしていた。だが率直に言って、マリアンは彼の運命に大して感銘を受けなかった。
「僕はそこまで……。何というか、彼は我慢するべきだったのではと思うので。彼の境遇は理不尽でしょうが、それは仕方ないじゃありませんか。なのに家畜のせいで自分たちまで死ぬなんて」
「でも現実問題として、彼みたいな人が居たから、前時代的な領主制は終焉を迎えられたのだろう。それにたかだか家畜と言うのはいただけない。一見何でもない物事が、誰かの尊厳と密接に関係している事は結構ある」
「じゃあおじさんは、平穏の為に我慢するより、周囲を巻き添えにしてでも戦う方が正しいと思うのですか?」
男は白く長い指で本の背をそっと撫でた。
「うーん。……君にとって戦いという選択肢は、そんなにも理解不能に聞こえるのかな。コールハースが領主に立ち向かったように、君は理不尽に抵抗しようと思わないの?」
抵抗? 冗談じゃない。
「色々な事情で抗議しない人だっているはず」
「それなら背を向ける? 自分でどうこうするのは諦めて、その理不尽が世界の構成物ではないと決め込み、一切の関心を払わない選択をするんだ」
「つまり逃げるという事?」
「違うよ。逃げるは戦うと同じ文脈にある戦略的手法だもの。無関心は寧ろ、拒絶や放棄と言い換えるべきだ。虚無的でリスキーな方法さ」
「なんだか悪い手段に聞こえます」
「良悪はともかく、理不尽の解決には向かない。抵抗がしばしば世界に新風を齎して来たのは歴史が証明しているが、拒絶や放棄にそれができた例を私は知らない。だから私は戦いを選ぶ方が多かった。それを踏まえて言うが、私はおじさんじゃなくお兄さんだ」
「すみません、お兄さん」
「冗談だよ、気を遣わせてすまない。恥ずかしながら、偉そうに話しつつ、私自身も関心と無関心、抵抗と拒絶乃至放棄の関係について、明確な展望を得ているわけじゃない」
マリアンは何となく、この男の話し方が父と同じく高校か大学の先生みたいだと感じた。まともに見た事も無いスパイなどより、亡命学者ズヴェスダを遥々訪ねに来た元同僚と考える方がしっくりくる。一方男は、相手が沈黙したので、視線をきょろきょろ動かして、関心と無関心、抵抗と放棄に関する身近な例を探した。
「ほら、あれをご覧よ。今朝は大霜だったから、あそこの花は咲く前に全部萎れてしまった。残念だが、多分もう虫を引き寄せられず、花の血脈は絶えてしまうだろう。でも恐らく君は逐一心を動かされない。そこまで関心が無いから。だけどもしあれが君のお母さんの育てている株だったら、君みたいな子は前日の内にビニールでも被せてあげたかもね。」
男は次に公園の中央で遊ぶ子供たちを示した。
「一方で君はさっきから、あの子供たちにちらちらと視線を遣っている。彼らは君の精神を部分的に脅かす理不尽と言える。彼らに関心を払って貰える事を期待し、落胆するのがその証拠だよ。でもあの子たちにしてみれば、君がここで頁を捲り続けようと、ストレンジャーと会話しようと、或いは自分たちの輪に入ろうと、一向に構わないのではないかな。君にそこまで関心を払っていないもの。寧ろそれを承知しているからこそ、君はここで二の足を踏んでいる。もし彼らが君を拒絶した場合、それが特に理由無く、そしてさり気無く行われると君は知っているから」
男はふと自分の言葉に納得して呟いた。
「ああそうか、君も経験として理解しているのか。だから抵抗よりも――――」
「マリアン?」
マリアンはぎくり肩を強張らせた。買い物袋を手にしたダリアが、歩道から怪訝な表情で二人を見つめている。
「母です。すみませんが、もう行かないと」
男はマリアンにクライストを返した。
「私こそ時間を浪費させて悪かったよ。君は友の若い頃に似ていたから、つい調子に乗って喋ってしまった。じゃあさよなら」
その日の夕方、見知らぬ男との会話内容を濁した廉で、マリアンは大けがを負った。ダリアが興醒めと言わんばかりにとぼとぼと居間へ去ると、彼はひっそりと起き上がってボタンの外れたシャツを着替えた。胸のすぐ下が赤黒く内出血していて、呼吸するだけで激痛が走る。最近の母は只管息子を糾弾する理由を探し、どうすれば彼のなけなしの自尊心を損ない恥辱を植え付けられるのか、生来の鋭敏さを余す事無く発揮して、無限の組み合わせを試しているように見えた。
母―――――。今となっては彼女の心情を知る術は無いけれども、自分なりに推し測る事は可能だと思う。ダリアは生活における最低限の会話を除き、息子以外の人間と接する機会を殆ど持たなかった。その最低限において、彼女は聡明な自分を全力で取り繕ったため、皆彼女が第一線を退いて猶、その鋭敏な頭脳と理性とを少しも衰えさせていないと感心した。それは彼女の心を一層孤独にし、馬鹿馬鹿しくすら感じさせたかもしれない。今や彼女が打てば響く者は、世界でただ一人なのだから。
いや、果たして本当にそうだろうか。人生に対する興醒めの心は、ダリアの思考力にも退け難い影響を与えた。マリアンはもう十一歳、いくら非力に見えようと、本気で掴みかかって来たら自分の方が力負けするだろう。それなのにやり返さないのは、つまり彼にとって彼女はそれにも値しない存在だからなのでは?
ヤヌスはやはり仕事を早く切り上げて来たので、三人で安穏とした晩餐を過ごした。その間にも肋骨はずきずきと痛み、頭中では昼間の男との会話が反芻された。そしてマリアンはふと次のような考えに至った。奇妙な男は関心と理不尽、抵抗と拒絶について説いたが、それは自分とダリアの関係に置き換えられるのではないか。マリアンは母が勉学と交友を通して培った多種多様の発想や、教師としての生き甲斐や誇り、そして健全な心身すらも、自分の誕生を契機に悉く失われたと知っている。彼は母の仕打ちを不条理だと感じているが、本当は自分こそが母にとっての理不尽で、彼女はずっと抗議してきたのでは?
食事が終わると、マリアンは洗面所から一番毒々しい臭いのする洗剤を取り出し、緩慢な動作でそれらをコーヒーと適当に混ぜ合わせた。鼻を少し近づけただけで強烈な刺激臭がする。激高した母に報復されるとか、すぐ先の居間でニュースを見ている父親に通報されるとかは、少しも頓着すべき懸念に思えなかった。
マリアンはコーヒーを母に差し出した。ダリアはにこやかにお礼を言ってから、すぐさま表情を強張らせてマリアンを見つめ返した。実際のところ、彼女は息子が見せた初めての抵抗に対し、驚きこそすれ表情程不快な感情を抱いてはいなかった。だが次の瞬間には、賢い息子が稚拙であからさまな抗議を示す目的に考えを巡らせた。これは一見自分への抵抗の意思表明に見えて、本当はマリアンが自身の不遇に背を向けるための行為なのではないか―――。
あの男は拒絶や放棄が不条理の解決に寄与しないと明言したけれども、では両者が一体何を齎すかについては言及しなかった。ダリアはマリアンの暗い眼を見据えたまま、カップをゆっくり口に近づけた。彼女の口角は死に瀕した時の生理的興奮で微かに上がったが、コーヒーカップに隠れて見えなかった。マリアンが驚きの声を上げた時には、母は既に泡を吹いてその場に倒れ込んでいた。
ヤヌスは状況が理解できないまま、救急車を呼んで台所に駆け込むと、広げられた洗剤を咄嗟にしまい込んだ。妻に水を飲ませ吐き出すよう促すと、彼女は何度か酷く咳き込み、口と鼻から薄赤い液体をごぼごぼと零して気を失った。それがダリアの最期だった。警察はコブリーツ夫人の事件を自殺と判断した。致死量の塩素に気付かないまま全て飲み干すなどあり得ないからだ。
つまるところ、マリアンの抗議は、何一つ想像した通りの結果を齎さなかった。ヤヌスは自身の怠惰が招いた結末に憔悴し、只管自分に鞭打って働き続けた。身体は過労で一層痩せこけ、顔には年齢不相応の深い皺がいくつも刻まれた。その姿を見た仲間たちは心から同情し、聡明で忍耐強い夫人に降りかかった不幸な事故は、本人の力では如何ともし難い精神的病理に起因するもので、自殺より寧ろ病死に近いと認識するようになった。
一方ズヴェスダは足腰を痛めて外出機会をめっきり減らしていたが、友人家族に起きた痛ましい事故を知ると、秘書のエレナ・デームスと相談して、学校帰りのマリアンを度々自宅アパートへ招く事にした。それが贖罪だと悟られないために、彼はマリアンの相手をエレナに一任した。少しでも油断すれば、ダリアの面影を濃く残すこの少年は、彼女と同じく自分の意図を見透かしてしまうだろうから。この習慣は彼が死去する一九八七年初頭まで続いた。
ズヴェスダの死後、ヤヌスが他の働き口を紹介する前に、エレナはハンガリー国境に程近い故郷に戻り、両親が経営するロッジを継いだ。マリアンは寂しい思いをしたが、敬愛する雇い主を喪った彼女が、完全な独立国家の首都として歩みださんとする街の雰囲気に、独り静かに背を向ける気持ちは理解できた。
マリアンが大学進学する頃になると、嘗て彼が遠くから眺めるだけだった子供たちの中には、連れ立ってヤヌスの書店に顔を出す者も現れた。そこで彼は仕入れを見直し、教師時代の教え子たちの助力を得ながら、若い世代が手に取り易い一般書や入門書を揃えるようになった。その中には経済や教育に関する書籍も多数含まれていた。
一方マリアンは、ズヴェスダの家に入り浸れなくなって以後も、決して書店に姿を見せず、日増しに実現性を増していく国家的問題とは一貫して距離を置き続けた。その態度は何となく周囲も察したようで、亡母譲りの聡明叡智な少年という評価は、人当たりは良いがどこか冷笑的な嫌いがある青年へと変化した。当然ながらマリアンに対し、名望家ヤヌス・コブリーツの後継者に相応しい振る舞いを期待する者はいなくなった。
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