Geistervariationen

江島

Ⅰ 一九七二年

 一九七二年、息子マリアンが生まれた年に、ヤヌス・コブリーツは教職を辞し、自宅の一階で本屋を始めた。それはベオグラードの連邦政府に対する不満が俄かに強まって来た国内情勢を鑑みて、母国独立に関し情報を集め議論する場が必要だと感じたからだ。ヤヌスは留学時代や講師職を通して培った人脈で書籍輸入ルートを開拓し、自身の専門でもあるドイツ語学を中心に、文系全般を扱う専門書店として、近隣の大学関係者や学生、文化人などの溜まり場的役割を果たすようになった。

 ヤヌスの妻ダリアは、糟糠の妻と呼ぶに相応しい女性で、夫が己の信念のために比較的安定した職を手放すと知った時も、それを頭ごなしに否定したりきっぱりと見限ったりはしなかった。それどころか彼女は、次第に大きくなるお腹を抱えて階下の店舗に降りて来て、そこに集う在朝在野の論者たちと母国の将来を案じて議論を交える事もままあった。ヤヌスが割合民族・思想的な視角に終始するのに比べ、ダリアの主張は物価をはじめとする身近な経済的話題や教育問題などにも及んだ。コブリーツ夫妻の誠実で真面目な人格は、二人が必要とするならば何時でも手を差し伸べたいと思わせる好ましさを備えていた。

 ダリアは一度復職したものの、数年後には夫の書店主兼文筆業が予想外に軌道に乗った事を名目に退職した。産後何度か深刻な体調不良に見舞われた彼女は、これ以上小学校教師としての責任を負えそうにないと判断したのだ。その心咎から、彼女は以前の様には仲間との親密な関係を持たず、専ら幼い一人息子と過ごすようになった。

 そんなダリアの微笑の中に、最初に危険な兆候を見出したのはズヴェスダだった。ズヴェスダは「竜の橋」近くに住む正体不明の中年男性で、彼が書店に集う独立系知識人グループから仲間と認められるに一役買ったのがヤヌスだったため、ズヴェスダにとってこのお人よしの夫妻は、自身とリュブリャナ社会との重要な結節点でもあった。

 ズヴェスダと知り合った者は皆、それとなく彼を亡命した言語学者だと噂した。噂の出所は外ならぬヤヌスなのだが、決して適当な思い付きではない。それは自分を遥かに凌駕する専門知識と論理性を備えた異邦人が、翻訳で細々と糊口を凌いでいる事に対する、純然たる義憤と敬意と同情が導き出した推測だった。

 ヤヌスはズヴェスダを何度も自宅へ招き、妻を交えて一緒に食事したが、ある時からそれは書店の事務室や近隣の酒場に変わった。それはダリアの要求で、彼女は全てを見透かすような亡命者の眼差しを本能的に警戒したのだ。

 結局ズヴェスダは友人にダリアの異変を知らせずじまいだった。だが仮に伝えられたとしても、状況好転の望みは薄かっただろう。リュブリャナで独立の機運が高まるにつれ、ヤヌスは家庭を顧みるどころか、自分の始末すらも覚束なくなったからだ。彼は扇動や検閲書籍の密輸入などの容疑で何度か勾留されたし、そうでなくとも書店の経営、『リュブリャニツァ』の刊行、家計を補うための非常勤講師という三足の草鞋を完璧に履き続けるには、途方の無い努力が必要である。それでも妻子に何が起きているのか、彼が全く勘付かなかったとは考えにくい。恐らく彼は、まだ取り返しのつく段階にいると思い違いしたのだろう。


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