第七話

 僕は両手で沙弥を抱いたままどうしたらいいのか戸惑っていた。今のこの状況を沙弥が見てはいけないと思ってはいるのだけれど、不思議な事にこの場から離れることが出来ずにいた。僕はなるべく水瀬さんの娘と目が合わないようにと思って壁に沿って移動しているのだけれど、どこに移動しても常に目が合っていた。水瀬さんの娘が体を動かしている様子はなかったのだけれど、後ろに回り込んでも立ち止まっても急に戻ったりしても常に目が合っていた。


「ねえ、小野君。さっきから落ち着きがないけど、そんなにウロウロしてどうしたの?」

「どうしたのって、ずっと見られていて怖くなってて、その視線から逃げようとしているんだけど」

「視線が怖いって、娘以外にも誰かいるっていうの?」

「いや、水瀬さんの娘さんにずっと見られているんだけど」

「小野君。こういう時にそういう冗談は良くないと思うよ。娘が、理香が小野君を見てるわけないじゃない。だって、理香はずっと自分の足元を見てるんだよ」

「そんな、だって、今もこうして僕と目が合ってるんだけど。ほら、水瀬さんもちゃんと見てよ」

「ちゃんと見てるわよ。私の娘なのよ。どんな状態になってたって目を逸らさずにしっかり見てるわよ。でも、理香は小野君の方を向いてないじゃない」

「そんな、でも、こうして今も僕は目が合ったままなんだけど。水瀬さんの娘さんじゃないとしたら、僕を見てるのってもしかして」

「小野君。それ以上は口に出したらダメだよ。水瀬さんも娘さんが心配なのはわかるけど小野君をあまり刺激しないようにしてもらえると助かるかな。小野君には悪いと思うけど、娘さんの中に入っている奴が小野君に興味を持ってるんでそのままアピールしてもらえると助かるよ。でも、小野君はアレに向かって名前を読んじゃダメだよ。呼びかけるとしたら、ちゃんと理香ちゃんの名前を呼んであげてね」

「鵜崎さん。私達にもわかるように説明してもらえないかな。私達が見ている娘と小野君が見ている娘は違うように見えているって事なの?」

「まあ、そういう事になるね。小野君はそれに気付いてなかったんでちょっと誤解を生むような事をしてしまったみたいだけど、さっきまでご主人にも憑いていたのが娘さんに戻っちゃったって事なんだよ。それが何なのかは誰も知らないし興味も無いんだけど、それを上手いこと離すために小野君のお義父さんと奥さんが一生懸命やってるってとこかな。たぶん、あのまま二人が頑張ってくれれば夜明けには何とかなると思うんだけど、そこまで時間をかけちゃうと二人の体力ももたないだろうし、娘さんもちょっと危険な状態になるかもしれないんだ。だから、小野君の出番ってわけなの」

「ねえ、小野君。出来ることがあるなら何でもやってよ。お礼ならあとでいくらでもするから。娘を、理香を助けてちょうだいよ。お願いだから」


 僕は自分がこの場を納めて問題を解決することが出来るなんて思っていなかったので鵜崎さんの発言は少し驚いていた。鵜崎さんは僕には人間と霊の区別もつかないくらい力がない事は知っていると思うのだが、そんな僕にいったい何を期待しているんだろう。

 出来ることがあるのならなんだってしたいとは思うし、泣きながら僕に縋り付いている水瀬さんを救ってあげたいとも思っている。でも、僕にはいったい何をすればいいのかわからないのだ。鵜崎さんが言っている意味が僕には全く理解出来ていないのだ。


「水瀬さん。心配な気持ちはわかるけど、そんな風にされたら小野君の集中力が途切れちゃうよ。だからさ、少し離れて落ち着いてね。旦那さんと一緒に外から見ててね」

「ごめんなさい。でも、お願いします。小野君、理香をよろしくお願いします」


 冷静さを取り戻した水瀬さんは僕たちに頭を下げて部屋から廊下に出ると、少し前に二階に上がってきて壁にもたれかかっている旦那さんの隣に立って二人で支え合っていた。

 僕はその光景を見て幸子を守らないとダメだと思ったのだが、僕に出来ることなんて何があるのかいまだにわかっていなかった。


「じゃあ、ここからは小野君に少し頑張ってもらわないとね。と言ってもさ、やってもらう事なんて特に無いんだよね。そこで黙って立って水瀬さんの娘を見ててくれればいいからさ。小野君のお嬢さんもまだ寝ているみたいだし、無理に何かしようとしなくても大丈夫だからね。それと、これが一番大事な事なんだけど、アレは水瀬さんの娘に憑りついているダレかであって、私達は誰もソレがダレなのか知らないんだよ。知らないって事は、私達の知っている人ではないって理解してね。間違っても誰かを思い浮かべたりしたらダメだからね」

「鵜崎さんが何を言っているのかはわかないけど、言いたいことは理解したよ。なんで思い浮かべたらダメなのかわからないけど、そんな風に言われると思い浮かべてしまいそうな気がするんだよね」

「知ってる。でも、絶対に呼びかけちゃダメだからね。呼びかけるとしたら、ちゃんと理香ちゃんの名前を呼んであげるんだよ。そうしないと、面倒な事になっちゃうからね」

「わかったよ。でも、本当にここに立ってて沙弥には悪影響無いかな?」

「そこから近付かなければ大丈夫よ。でも、近付いちゃったら小野君の影響力が強すぎて他にもいろいろ呼び寄せちゃうかもね。そうなったらさ、みんな生きて帰れるかわからないかも」


 鵜崎さんの話をまとめると、僕はここに黙って立って水瀬さんの娘を見ていればいいらしい。それ以外にすることは無いし、出来ることも無いのだ。逆を言えば、余計な事は一切せずに黙って立っていろという事なんだろうが、それはそれで辛いものがあるのも事実である。


 鵜崎さんはお義父さんの後ろから僕の反対側の壁沿いを通って幸子の後ろに向かって歩いていた。その時に鵜崎さんは右手に十字架を持ち左手には空のコップを持っていた。なんで空なのかは気になったりしたけれど、鵜崎さんも集中して行動しているようだったので僕はそれを尋ねることが出来なかった。

 相変わらず僕は水瀬さんの娘と視線が合ったままなのだが、その視線が僕だけではなく鵜崎さんを追いかけるようになっているような気もしていた。一秒にも満たない時間なのかもしれないが、僕から目を少しだけ逸らしているようにも感じていた。


 僕は沙弥が起きてしまわないか心配になっていたのだけれど、僕の心配はどこへやらと言った感じで幸せそうな寝顔を僕に見せてくれていたのだ。

 水瀬さんには申し訳ないのだけれど、憑りつかれているのが僕の娘でなくて良かったと思っていた。沙弥が水瀬さんの娘のような状態だったとして、僕にはいったい何が出来るのだろうか。そう考えていても、僕は今と同じで何もすることが出来ない。ただ、こうして立っているだけなのだろうが、お義父さんも幸子もいるので何とかなるんだろうという気持ちもあったりした。


 結局のところ、僕は何もすることが無いまま立って見ていたのだが、鵜崎さんが僕の前までやってきて僕の脚元に空のコップを置いた。そのコップには相変わらず何も入っていないのだけれど、説明が何もないので僕は気になって仕方が無かった。


 鵜崎さんが僕と見なせっさんの娘の間に立ってくれたおかげで僕は彼女と目が合うことも無くなったのだけれど、目が合っていないと思ったと同時に水瀬さんの娘が僕ではなく足元に視線を落としているという事に気付くことが出来た。

 確かに、あの状態で僕と目を合わせることなんて出来ないだろう。そう思いながら見ていると、水瀬さんの娘は急に鵜崎さんの方に体を向けて両手を前に突き出したのだ。鵜崎さんはその両拳が来ることをわかっていたかのように必要最小限の動きで躱すと、そのまま水瀬さんの娘を抱きしめて水瀬さんの娘の耳元で何かを囁いていた。

 水瀬さんの娘は鵜崎さんの言葉に反応するように小刻みに痙攣をしていたのだが、鵜崎さんが軽く背中を叩くと同時にその場に崩れ落ちた。まるで、操り人形の糸を同時に切り離したかのように見えていた。


「悪いけど、小野君の足元に置いたコップを持ってきてもらってもいいかな?」

「それは構わないけど、もう近付いても大丈夫なの?」

「うん、もう大丈夫だよ。これで水瀬さんの件は丸く収まるからね。安心してくれていいよ」


 鵜崎さんの言葉に従って僕はコップに手を伸ばそうとしたのだが、しゃがんだタイミングで沙弥は僕の左手から離れて幸子の後ろに走って行って隠れるように背中に抱き着いていた。沙弥が僕から離れていったのはショックだったが、疲れ切っている幸子の側にいたいという気持ちが何となく僕にも理解出来た。

 お義父さんも幸子もお経を唱え終わってぐったりしているのだが、霊感のない僕には理解出来ないくらいの疲労が襲っているんだろうとは思っていた。時々疲れ切って帰ってくる二人を出迎えることがあったのだけれど、あれだけ集中してお経を唱えていたら疲れるものだろうと感じていた。


 そうだ、コップを鵜崎さんに届けなくてはいけないと思って手を伸ばすと、先程までは確かに空だったはずのコップになみなみと水のような液体が注がれていた。

 コップに近付いたのは僕と沙弥だけのはずなのだが、いつの間にかコップは液体で満たされているのだ。それが何かとてもとても気になってはいたのだけれど、僕が気軽に何かしてはいけないんだと思ってそのコップを慎重に手に取って鵜崎さんのもとへと持ってい行った。


「ありがとう。これで全部大丈夫だよ。水瀬さんも大変だったと思うけど、小野君の所も大変だったね。でも、そのお陰でうまく行ったよ」


 鵜崎さんは僕からコップを受け取ると、何の躊躇もなくその中に入っている液体を飲み干していた。それが何なのかはわからないままではあったけれど、鵜崎さんは今まで見たことのないくらい爽やかな笑顔を僕に見せてくれていたのだった。

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