アナウンサー亜麻のアエイウエオ

ジャックリーンあまの

 テレビにゃ映らない

三日ぶりなのに、目覚めてすぐのチャンスだったのに、逃すとまたいつになるか分からないのに。だけど、こんな痛みは初めてだ。

通常というセンター表示のひとつ下の設定で、やさしい噴射にしたのにヒリヒリしてすぐにつぼめた。口も一緒に梅干しを食べた後みたいにシンクロした。不思議。

お笑い芸人なら深夜ラジオでワンコーナーは語りつくすんだろうけど、私の場合は深刻だ。

原因は分かっている。

あのロケだ。

大食いも芸のうちで生き残っているコンビの片割れで、嫁がワイドショーのご意見番的存在の渡辺が、下町激辛ラーメンツアーの取材で、ただでさえ辛いラオス料理の鶏とナスを煮込んだスープに、隠し持っていたオーストラリア産の世界で一番辛いという唐辛子の粉を振りかけた。

パーテンションの向こうで医療用マスクをしているカメラマンが咳込む地獄模様を作り上げ、秋に始まるドラマの宣伝で三十分だけ参加している主演女優を持ち上げる役目も忘れ、笑えない芸人がさらに追い込まれた。

「また渡辺さん、お店の味を変えちゃダメですって」

カメラマンの咳が止まったタイミングでパーテンション越しにやさしくフレームインして救いの言葉を投げてやった。

「うまそうになったやろ」

お店に失礼で笑えない。渡辺も漂う辛さに耐えかねて立ち上がって席を離れた。

「なあ、色もようなった。そやろ、なあ」

ああ、主演女優の後ろに行った。最悪。

「私はアナウンサーの中では辛いの平気な方ですよ」

「だと思って亜麻ちゃん用にアレンジしたねん」

もう、カメラマンは渡辺を映さない。

私はカメラ目線に自信ある。若手カメラマンぐらいならコントロール出来る。内緒だけど営業部の同期を通じてコンタクトレンズメーカーから無償提供されているますます黒く大きな瞳でレンズの奥を見つめた。ロケ中にカメラマンをメロメロにしてやるつもりで。

「辛さは大人の女性に与えられた悦びの刺激。燃焼して代謝を促し美しく滑らかな姿を創ってくれる。たとえ胃袋が煮えたぎるマグマでよじれても」

「ありがとうございます。代わりに言ってくださって」

主演女優のささやきを音声の井上さんが漏らさず録ったのが、私への頷きで分かった。さすがこの道四十年のベテラン。キュンとした。

「なんで亜麻ちゃんが日曜ドラマの決め台詞言うてんねん」

ついでに主演女優が三カ月特訓したというグルメ天使がナイフを二本の指で三回回す決め技も再現してみせた。

渡辺も真似をして失敗後の救いようのないギャグを出すタイミングを与えないように、すばやくマスクをずらしてスープを掬った。

「いただきます」

スプーン一杯を少し音をたててすすった。注目されつつ茄子を載せて黙ってもう一口。鶏と一緒にもう一口。

胃を掴まれる感覚がした。なのに、辛さを感じない。コンタクトが痛い。充血が始まったようだ。

「からーい」

一応言ってはみたけど、ズームしたカメラマンの動きが止まった。物足りないようだ。

「辛い、辛い、からーい」

首を振って泣く真似をしたら、キスする距離までレンズが迫った。場数を踏んでない若いカメラマンが私を好きになったのが分かる近さだ。

画的には額に汗がにじんで合格だろう。なのにまったく辛さを感じなかった。

致命傷だ。史上最もグルメな舌を持つ女性アナウンサーとしてレポートには定評がある。料理番組も任され高視聴率をキープしている。取り上げた食材はスーパーから消え、市場経済にも影響を与えた私の舌が、死んだ。

新型コロナって奴の怖さに小さくパニくった。

朝の帯番組で週一のコーナーを持っている若手アイドルが新型コロナに感染して、濃厚接触者と認定されて隔離、検査の結果が陽性だった。

スタジオに居るだけでも移るんだとスタッフが騒いだけど、金曜の夜に彼のマンションで濃厚に接触したから当然だ。民間の救急車で強制的に個人病院の個室に入院されられた。熱があったけど初めての場所でやる事を怠ってはいけない。病室にカメラが仕込まれていないか盗聴されていないか二時間も捜索した。

「医療がひっ迫し重症でも入院できない方々の現状を何度も原稿で読んでいたので、私は自宅でいいって言ったんです」

その時に備えて鏡に向かって、歪めた表情まで練習をしてから、もしやと思って鏡を外して壁を確認。何もなかった。

女性アナウンサーという特権で万全の医療を個室で受けられる悦びだけで完治しそうな有頂天。入社六年目の初めての退屈な時間をほぼ全裸で謳歌した。

アナウンサーになる前は、いつも部屋でそうしていた。裸で本を読む。掃除をする。料理をする。歌って踊る。肌感覚が財産になって他のアナウンサーが持っていない感性で言葉を紡ぎファンも多い。

中でもグルメレポートは好評だ。裸で調理した経験が生きている。

中華の熱を下腹で受け、天ぷらだったら素手で揚げられる。仕上げ時というレシピにないタイミングを肌感覚で知っている。この道何十年という一本気な味の探究者たちも、私の味へのこだわりはただの小娘じゃないなって認めてくれている。

ラオス人の店主も私を知っていた。私の味の感想次第で渡辺の無礼を許してくれるに決まっている。なのに、味が分からない。

魚の臭みがないとか、野菜なら甘いとか、肉汁がジュワっと出るとか、取ってつけた誉め言葉を用意していない私は、その場その場で率直に味を言葉にできる。

「魚を捌くタイミングが早すぎて熟成が足りないけど、塩で〆て旨みが凝縮しています。私はもう少し置いてから頂きたいけど、会食用ならベストだと思います」

踊り喰いじゃないんだから魚は獲ってすぐがいいなんて、漁師の擦り込みだ。

「皮のままの人参のうまさを伝えたいのに洗い過ぎて台無しです。生の落花生のように上手に煮て土の栄養も生かしてもらいたい。とれたての野菜に味付けは不要です」

農水大臣が私を代表にして地産地消促進の外郭団体を作りたがったけど、丁重にお断わりした。

「肉のうまみを閉じ込めたつもりでしょうが、噛んで出たのは臭み。脂身の処理が雑なので、調理人か包丁のどちらかを変えた方がいいわ。ガーリックももう少し弱めの物にしないと牛も豚も同じような味になってます」

テレビでおなじみの有名ステーキ店は、焼くだけの肉が工場から届くシステムになっていた。おいしいなどというざっくりした評判は私にとってなんの価値もない。

裸で暮らして分かったのは、全ては素材なんだというグルメの基本。

その生命線の舌を失った。

入院中、なぜ気が付かなかったのだろう。

個室では味覚があった。イギリス籍客船の元料理長だという専属シェフが、三ツ星ホテル並みのフレンチディナーや老舗温泉旅館顔負けの懐石を毎日出してくれた。

トリュフもじゅんさいも山椒の葉の味も記憶にある。

退院したのが一昨日で、きのうの朝のサラダはブロッコリーの茎がベストの歯触りでフレッシュな緑を感じた。ルバーブには酸味があった。昼の天丼はゴマ油がきつかった。夜のワインも澱の深みを頂いてすぐに歯を磨いた。今日は初めての食事が、この渡辺アレンジの激辛ラオススープだ。

もしかして、消えたのは辛味の感覚だけかもしれない。

「辛いけどスパイスのベースにナンプラーの深みがあるわ。どんな醤を使っているのかしら」

「はい、いったんカット」

カメラが止まって、北沢ディレクターがペットボトルを差し出した。

「ありがとうございます」

受け取ったけど、私はロケで貰った飲み物を口にはしない。

新人の頃、キャップを開けて渡してくれる親切な岩崎Dが、先に口をつけていたのが後で分かったからだ。証拠さえ見つけられたら今からでも訴えたい。

「おいしいスープを作っている調理場を紹介したいですね」

通訳を通して店主と交渉してカーテンの奥に入れることになった。北沢Dが下見をして、最低限の衛生状態をチェックしてスポンサーと競合するトマト関連の缶を隠してから、カメラと一緒に入る段取りになった。

私はただ、辛味以外の感覚はあるのか確認したくて言っただけだ。

「これは糠漬けですか。やっぱり毎日かき混ぜるんですか」

店主が平べったい魚を取り出した。腹が溶けている。失礼ながら生ごみに見えた。

「あと半年漬ければ深みがあるこれになる」

パーデークと呼んだ薄茶色の液体を小皿で掬ってくれた。

小指を着けて舐めるべきだった。受け取った皿を盃のようにあおって干した。

どろりと流れる感触はあった。味はしない。鼻で息を抜いたのに臭いもしない。

「しょっぱくないんですか、そんなに飲んで」

通訳が眉間にしわを寄せて尋ねてきた。

「ナンプラーよりあっさりね」

糠だから味を想定して言ってみた。店主が満足げに微笑んでいた。

酸味も塩味もNGだった。ガス台の脇の砂糖を映らないように舐めてみた。

甘味も感じない。涙がにじんだ。

「はいカット。ねえ大丈夫」

北沢Dがのぞき込んだ。私はのぞき込む男性の眼差しに弱い。

小学校五年生の時以来会っていない父親の想い出は、泣き虫だった私をのぞき込んでは、大丈夫だからと厚い胸板に包んでくれた記憶だけだ。

洗い場の蛇口をひねって、左手で掬って口をゆすいだ。試しに飲み込むと、のどを伝う感覚だけで味はしなかった。水も味わえない絶望感に包まれた。

水道水か地下水か、北海道なら大雪山系か知床系か、軟水ならどこの水なのか飲み分けられた舌が消えた。

これからどのようにグルメ番組で言葉を操ればいいのか、迷っている暇が吹き飛んだのは、二期後輩の神林綾乃の顔が浮かんだからだ。食べ方がかわいい。その評判だけで私が独占していたグルメレポートの領域に入り込んで来た。話題になったモノ勝ちの文化をテレビが作っておきながら、自分が巻き込まれ、さらに負け戦が見え隠れしする味覚の異常。なんでも一口で入れる神林綾乃の作法など、十年前なら下品極まりなかったけど、撮影機材の鮮明度が向上した影響なのか美味しそうに映るようになった。ファストフードと冷凍食品で育った彼女のようなお子ちゃまに対抗するなら対局のベクトルを目指すしかない。味覚障害を逆手に利用しなくては生き残れない。

「調理場を見学させていただいてスープの深みの秘密が分かりました。グルメ天使でもスープは毎週登場しますよね」

「ええ、今週は魚醬に含まれるグルタミン酸とタウリンがドラマのカギを握ります」

カメラ目線のまま、フォークを二本の指で回してくれた。OAでは日曜日の放送時間が入るカットだ。これさえ言えば主演女優はお帰りでロケも終了だ。だから彼女が居る間に、演出力のない北沢Dが編集でカット出来ない強烈なインパクトを残したい。

「渡辺さんからはお知らせは無いんですか」

ある訳がない。だけど芸人は、自分に向いたカメラを逃さないために反射的に体と口が動くように出来ている。持参した激辛唐辛子が溶け切らずに浮いているラオスのスープに手を掛けた。

「これは日曜日にグルメ天使を観ながらいただこっと、こっと、コットンならチャンネルでもめんで見てね」

そう言って器を持ち上げた。止まった空気でロケが終わらないように駆け寄ってスープを奪い取って一気飲みしてみせた。

辛味を感じると脳は快楽物質を醸すと言われる。味覚は無いけど快楽物質だけは出たのだろうか。カメラもマイクも店の全員の目も自分に向いている。満足だった。

放送では、上唇と鼻の間に脂っこい赤い髭を作って微笑んでいる私の画にグルメ天使の番宣テロップが載った。その映像が世界に拡散して激辛スープ一気飲み後のスマイルがちょっとしたブームになって、急患が増えた。各国の保健機関が激辛料理の危険性を注意喚起をした。

アナウンスセンター長に呼ばれて会議室に報道局の厚労省担当者に頭を下げられた。

「官房長官が定例会見の場で、日本で一番食生活に影響力があるのは誰かと記者たちに逆質問をした。東光放送の小森亜麻アナウンサーだと全員一致で答えた。そこでお願いがあります」

お願いは簡単だった。激辛ブームを私の影響力で終わらせて欲しいという政府側からの要望だった。

局の上層部は二つ返事で恩を売りたがったが、中堅社員は時の政権におもねるのは万死に値すると大反対した。

私は無味無臭になってグルメへのこだわりは無くなったけど、自分を表現する場をやっぱり食の場に求めて企画書を提出した。次期社長候補の編成局長が動いてくれて、食糧庁が全面バックアップする番組が成立し、私の名前の冠まで付けてくれた。

「さて来週からは、日曜ドラマの枠が大きく変わります。激辛グルメレポートから真の激辛女王になった小森亜麻アナウンサーが、テレビで伝えるのは不可能と言われる食品を求めて船で旅をする『亜麻の日本列島ぐるっと食べ尽くしグルメ』が始まります。初回は伊豆七島から。今、小森アナが飲んでいる物がなにか分かりますか、なんと、くさや汁なんです。いや~テレビで臭いが伝わらなくて良かった。今度の日曜九時、鼻をつまんで見てくださいね」

食べる喜びを新型コロナに奪われて二年。記憶の財産でなんとか味を伝えるのも限界を感じ始めていたけど、臭い系食品に活路を求めた番組で今もグルメ女王に君臨している。

新島で、レア焼きの室あじくさやと揚げた臭豆腐を包んだ生春巻きにパクチーの根を擦ってブルーチーズと合えたドレッシングをかけて三本食べた。腸で発酵バクテリアが踊り出し妊婦のようになった。大島に向かう船上でキビヤックというイヌイットの発酵食品も食べた。強風のデッキの風上にカメラクルーが構えて私は風を受けながら、黙々とアザラシの中で発酵した海鳥の溶けた内臓を吸った。無味無臭の溶けたチョコレートを感じながら流し込み続け、お腹がさらに膨らんだ。大きなおならが連続で出たけど、ヘッドホンをしている音声の井上さんも風の音に紛れて聞き取れなったようだ。

珍味以上のゲテモノを平気で食べて冷静にレポートした女性アナウンサーが、それから八時間後には笑顔で「いってらっしゃい」とカメラに手を振っている。

味覚障害という私の隠し事は未だにだれにも嗅ぎつけられていない。テレビという薄い世界ならこれからも生きていける。













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