さよなら、食い逃げ
芦田朴
第1話
99戦99勝。それが俺の成績だ。
俺はKUINIGERだ。食い逃げにRを足した、俺が作った造語だ。いわゆる食い逃げのプロっていう意味だ。捕まったことは1度もない。捕まりそうになったことすらない。いつだってぶっちぎりの完全勝利を収めてきたのだ。
背が高くてイケメンで成績が良くてギターも弾ける、みたいなモテる要素全てを備えた奴が学年に一人はいるが、俺はその対極にいた。背が低くて、ぶさいくで、勉強もできない。モテるわけがなかった。背が低くて、顔はフレンチブルドックに似てるから「犬ひろし」と呼ばれた。「猫ひろし」から取ったらしい。そんな俺にも『ギフト』があった。それは足の速さだ。短距離走で俺は負けたことがなかった。運動会でもぶっちぎりだ。それを見て陸上部の顧問の先生から入部のお誘いがあり、入ることになった。当時の俺は頻繁に部活動をサボり、家に帰って『桃鉄』ばかりしていたが、どんなに部活動をサボっても、俺は陸上部で短距離走なら、陸上部の誰よりも一番早かった。
そんなある日、松岡祐介に出会った。忘れもしない短距離走の県大会の決勝戦でのことだ。これに勝てば全国大会に行けるという試合だった。全国大会に行けば、いろんな大学からオファーが来て、受験せずに有名大学に入れた。俺は自分がそうなると信じて疑わなかった。松岡祐介は俺とは真逆の人間だった。背が高くてイケメンで、笑顔がさわやかな奴だ。俺が月なら奴は太陽で、俺が影なら奴は光だ。俺が持っていない物を松岡は全て持っている気がした。学校なら決して交わる事がないであろう俺らがこの試合で激突することになった。
俺がレース前にトラックでストレッチをしていると、松岡祐介は俺に近づいて来た。足の屈伸をしている俺を見下すように言った。
「キミ、早いらしいね」
「……」
「でも、俺のほうが早い。俺から見れば、お前なんか亀だ」
「はあ?」
「ズルすんなよ」
「お前こそな」
松岡祐介は人前ではさわやかだが、裏の顔がある事をこの時、俺は感じた。それが松岡祐介と交わした最初で最後の会話だった。
レース10分前、俺がグラウンドのベンチでウォーミングアップし始めたときだった。陸上部の監督が顔を蒼くして俺に近づいて言った。
「お母さんが脳出血で倒れられたそうだ。どうする?」
俺は迷うことなく、レースを棄権して、会場を後にした。
この食い逃げゲームを始めたばかりの頃の俺は、自分の腹さえ満たすことができればいいと考えていた。高校を卒業して工場で働き始めた。あのレースで勝ってさえいれば、俺はキャンパスライフを満喫していただろう。しかし、俺の学力で受かる大学はなく、やむなく就職した。とりあえず就いた仕事だったから、就職先も1か月で早期退職し、俺はずっとアパートにこもっていた。現実から逃げるように、ゲームにのめりこんだ。そしてあっという間に貯金も底をついた。親に金を借りようかとも考えたが、親にはまだ仕事を辞めたことを言っていなかったのだ。それで親に頼むことはできなかった。ついに冷蔵庫にも何にもなくなって、ふらふらと街に出た。コンビニの廃棄弁当が、コンビニの裏のゴミ箱に捨ててあるかもしれないと思い、ゴミをあさった。しかし、食えそうな物は何も見つからなかった。3日はまともに飯を食っていなかったから、とにかくなんでもいいから腹を満たしたかった。
ふと商店街の小さな定食屋の前で足が止まった。昼前で店の中からいい匂いが外まで漂って来ていた。ウインドーに飾られた生姜焼き定食が美味そうだった。しばらくぼんやり眺めていると、会社員の集団がやって来て、後ろから力のない俺を突き飛ばすように、店に入れた。
「なんになさいますか?」という店員のおばさんに思わず「生姜焼き定食」と言ってしまった。おもむろに壁際の二人用の席に着くと、食堂には厨房からのいい匂いが立ち込めていた。俺はその香りという鎖に椅子に縛りつけられたように、そこから動けなくなっていた。
金はない。何度財布の中を見ても32円しかないのだ。食べ終わったら、頭を下げて皿洗いでも何でもしよう。ここで食わなかったら俺は餓死して死んでしまうだろう。俺は覚悟を決めた。
運ばれて来た生姜焼き定食を俺は無我夢中で口の中にかき込んだ。ご飯はセルフでおかわり自由だ。俺は食べてなかった3日分を取り戻すように何度もおかわりをした。
ふと気がつくと、満席だった店内も人がまばらになっていた。店主とその奥さんの二人だけで店をやっているようだった。昼1時を過ぎ、客の流れが止まった時、店主は厨房の裏口からタバコでも吸いに出て行った。店員のおばさんは厨房で洗い物をしている。
逃げるなら今しかない。今だ。今は金がないが、後で返せばいい。俺は悪い考えに取り憑かれ、そっと席を立った。捕まったら「金払うの忘れてた」っていい訳すればいい、だからなるべく自然に静かにこの店を去ろう。店内に背を向け、店の引き戸になっているドアを開けた。その瞬間、「お客さん」というおばさんの声が背中越しに聞こえた。その声はまるで競争のスタートを知らせるピストル音のようだった。俺は走った。全力で無我夢中で商店街を駆け抜けた。それがKUINIGERとしての俺のデビュー戦だった。この時、食い逃げゲームのスイッチが押された。
それからというもの、食い逃げを繰り返すうちに良心の呵責を次第に感じなくなっていった。それからは三つ星レストランやフランス料理、焼肉屋、居酒屋などありとあらゆる業種の店を試した。4階にある店、地下にある店、若い店員がたくさんいるラーメン屋など、食い逃げに不利な場所でもあえて試してみたが、どの店でも俺に追いつける奴は一人もいなかった。KUINIGERとしての俺の成績は俺の自尊心をも満たしていった。
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