手と手を取り合った家族の話
水花火
第1話
顔から吹き出す汗がスパイクの上を滑り落ちていく。五時間にも及ぶ最終日の練習は、俺達陸上部員の息の根をとめるような厳しさだ。
「みんな、がんば、歯を食いしばれ」
俺はキャプテンとして部員全員を励まし、ひっぱっていかなければならない。
「ラスト三周~」
作山コーチの声が響きわたる。俺は全員が走りきるように最後尾についた。
「ラスト一周、スピードあげろ」
作山コーチの声に厳しさが増す。それぞれに残っている最後の力で、足をあげ、腕をふる。もう練習の終わりのゴールは目の前だ。
「よし、集合~!」
聖也は誰よりも先に作山コーチの前に立たなければならない。ツバの一滴も残っていない口をぎゅっとしめ全力で走った。一番最後に走ってきた一年生は立ってる事すら出来ないようだった。
「整列!お願いします」
聖也の大きな声がグランドに響き渡った。鬼コーチと名の知れた作山コーチが一歩前にでた。
「よし、追い込みは今日迄だ。大会は来週!!この後一人一人しっかりクールダウンをしマッサージを忘れないように。帰宅後、陸上ノートのアドバイスを四月から読み直し今大会における目標を再確認しろ。食事は油分の多いもの、カレー、ラーメン、お菓子、炭酸は明日から禁止だ。ゼッケン、プログラムはこの後、笹山、職員室に取りに来るように」
聖也は笹山と呼ばれドキッとした。ほんの一瞬夕陽の眩しさに目がくらみ話を聞き逃してしまったのだ。
「笹山、話を聞いていなかったのか?」
聖也は胃をえぐられるような恐怖に耐えながら
「すみませんでした」
と頭をさげた。
「青木」
「はい!」
「職員室には、お前が来い」
「 はい」
部員全員に緊張がはしった。作山コーチの怒りは誰もが恐いのだ。
「笹山、頭を上げろ。いいかお前達、自分の限界を越えてからが練習であり、ライバルと差が出てくるんだ。どんなに疲れ果てていようが指導者の話だけは聞け。わかったか!」
「はい」
「よし、今日は解散だ」
「ありがとうございました」
作山コーチが背をむけ、グランドから立ち去っていくと、陸上部員達は叱られずにすんだ事と厳しい練習一切が終わった解放感から安堵の表情に変わった。 帰り道、俺と青木は自転車をこぎながら、今日の部活の話になった。
「キツかったな~死ぬかと思ったよ」
青木が言った。
「あぁ…」
「鬼作山さ、聖也に厳しすぎんだろ、腹立つわ」
「仕方ないよキャプテンなんだから。話をきいてなかった俺が悪いんだよ。とにかく、表彰台には絶対に立たないとな。」
聖也と青木は小学校からずっとこの道を通学路にしている。かれこれ十一年の付き合いだ。
「おいおい聖也、そんなに鬼作山に気を遣う事ないぜ、俺達のラストランなんだ、楽しく悔いなく行こうぜ」
大きな銀杏の木が目の前に見えてきて、夕陽に照らされ黄金の葉っぱが輝いていた。小さい頃から銀杏の木の近くの公園前の小道にくると、俺は左に青木は右に帰って行く。
「じゃあな」
いつも先に言うのは青木だ。
「おう」
俺は右手を上げ分かれた。
「ただいま~」
聖也は腹がすき過ぎて急いで台所へ直行した。
「やった、唐揚げだ!」
聖也は嬉しさのあまりガッツポーズを上げた。今日迄は油物は許されていたから余計に嬉しさが増したのだ。どんぶりにご飯を大盛りによそった。
「いただきま~す」
大好物の唐揚げを頬張った。
「うまい!!」
ばあちゃんの作る唐揚げは世界一旨い。
「今日迄の頑張りの褒美だな~」
思わず自分を誉めた。貪るようにたいらげ、シジミの味噌汁をゴクリと飲んだその時だった。
「あれ程オムツしろって言っただろ!!」
聖也はかつて聞いた事もない父さんの怒鳴り声に驚き思わずテレビのボリュームを下げた。
「情けなくないのか!自分の格好をみろよ!」
聖也はただ事ではないと箸が止まった。
「陽平、ごめんよ。オムツを付け忘れてしまったものだから、じいちゃんを責めないでおくれ」
ばあちゃんの声もした。
「話を聞いてなかったのか!どうなんだ!」
聖也は作山コーチに今日同じ言葉を言われてきたばかりでドキッとした。いてもたってもいれずに聖也は声のするトイレの方へ行った。そこには、一生忘れる事のできないような光景が目に飛び込んできた。辺り一面じいちゃんのしっこが広がり、ばあちゃんは素手のまま雑巾でふいていた。そしてじいちゃんはゴタゴタの股引きを履いたまま立ち、父さんは鬼のような顔で怒鳴り散らしていた。
「聖也、トイレなら外へ行け」
「あぁ…」
俺は父さんの怒りの迫力に尻込みし用もないのに外へ出てしまった。
父さんの怒鳴り声は中々おさまらず外にいても聞こえた。
「あ、、、なんとかならないのか」
聖也は頭をかかえた。
「なんで、こんなに、喧嘩になるんだよ。家族だろ」
うつ向きながら身動きできずにいると
「聖也、何してるの?」
母さんだった。その時だった。
「なんなら、うば捨て山にでも捨てればいいのか!」
聖也はあまりに醜い発言に、身体中に怒り溢れ中へ飛び込んでいった。
「父さん!いくらなんでも言っていい事と悪い事があるだろ」
「うるさい、だまってろ」
「うばすて山って、どんな気でいってんだよ」
慌てて母さんが中へ入ってきた。
「お父さん、外まで聞こえてますよ」
その母さんの言葉に我に返ったのか、父さんは平静になりだしていった。
「聖也、もう部屋に行きなさい。後はお母さんとおばちゃんでやるから大丈夫だから」
聖也は気がすまなく、わざと廊下をドンドンドンと音を立てて歩き部屋のドアを壊れるくらい思いっきり閉めた。
ベッドに飛び込み大きくため息をついた。
「うばすて山って言い方はないだろ。あんなに優しいじいちゃんをさ」
聖也はじいちゃんの為に、何もできない自分が悔しかった。
「こんな家族じゃな…」
聖也は渡そうとしていた最後の陸上大会のプログラムを、直接誰にも渡す気にもならなくなり、皆が寝静まったあたりに台所の上に置いたままにした。
大会当日の朝は快晴だった。
母さんがスポーツドリンクを用意していてくれていた。
聖也は特に何も言わなかったが、台所に置きっぱなしにしていた大会プログラムを、家族が確認していてくれていることで顔がほころんだ。
「いってきます」
聖夜がいつも通りに家を出ようとすると、じいちゃんがばあちゃんに、食事の世話をしてもらいながら
「聖也、頑張れよ~」
と手をふってきた。
「そうか、じいちゃんも、プログラム見たんだな」
と思い、大きく手をふりかえした。
自転車をこぎながら、家族が応援してくれてるっていうのがやはり心強かった。一瞬父さんを思い出したが、あえて考えないようにした。
学校へつくとバスが止まっていて、低学年部員達がテントや荷物を運んでいた。聖也はグランドへ向かい選手達の点呼を取り、持ち物の再確認をさせた。
「整列、おはようございます。」
作山コーチは一人一人をじっと見わたした。
「よし、皆やるべきことは全てやってきた。
いつもどおりの気持ちでスタートに立て。三年生は最後の大会だ、走ってきた距離だけは裏切らない、自信をもて。全員、表彰台を狙え!」
「はい!」
空を突き破るような部員達の声がグランドに響き渡った。
競技場は風が強く、タイムに影響がでる向かい風が吹いて来なければいいと皆もが口にした。
聖也は最後の大会だとおもうがあまり、キャプテンとして、必ず勝たなければならないという使命感でいっぱいだった。午前中の予選、準々決勝、準決勝はなんなく通過し、何もおきなけれは、予想通り表彰台を狙えるタイムだった。
心配していた風も弱まり、今迄やってきたことを出しきる条件はそろっていった。
決勝の顔ぶれはいつもどおりだった。
「なにもなければ、三位迄は確実だ。」
聖也はそう思い意識を集中させた。
「キャプテンとして、必ず勝つ」
強い気持ちでスタートについた。
スターターピストルが鳴った。聖也は最高のスタートで飛び出した。しかし他校の選手がフライングをし再レースとなった。
再びスタートにつくと、次は失格となる恐怖心が聖也を緊張させた。さっきより風が出てきていることを感じ、聖也は一瞬不安に怯えた。
結果は五位に終わってしまった。
陸上部員の誰もが信じられなかっただろうし、もちろん聖也は到底信じられなかった。
スタートが出遅れた焦りで手足がバラバラになり、呆気なく100メーター決勝は終わってしまったのだった。
言葉も見つからず、茫然となった。
力を出しきれなかった虚しさだけがこみ上げた。
「終わった……」
聖也はそうつぶやき、陣地に向かい歩きだすしかなかった。
キャプテンなのだから、最後までやるべきことはあり、絶望しながらも他の部員の応援があるのだ。
「がんばれ自分…」
聖也は泣き崩れそうな心を激励した。
するとどこからか自分の名前を呼ばれているような気がして辺りを見回した。聖也は驚いた。
「じいちゃん…」
「おぉ、聖也、速かったのう~」
じいちゃんは喜び一杯の顔だった。そしてじいちゃんの隣には、のり子おばちゃんもいて
「聖也、速かったね~、あのフライングさえなきゃね~あぁゆうのは調子狂っちゃうよ、全くさ!」
聖也は笑顔をつくろって明るくした。
「どうしたの?大会にくるなんてビックリしたよ。」
「実はね、じいちゃんから昨夜電話がきて、どうしても聖也の大会に連れてってくれときかなくて、、おばちゃん会社休んできたのよ~。でも休んだ甲斐があったわ。聖也の走りを間近で見れて本当に感動した。」
聖也はじいちゃんが身体が大変なのに、のり子おばちゃんに頼んでまで応援に駆けつけきてくれた事を知り
胸が熱くなった。
「ありがとう、、じいちゃん」
聖也は言った。そして、年老いたじいちゃんの立ち姿を見て、今度は自分がじいちゃんの為に介護をしてあげたいと強く思った。
「聖也、暑くなってきたからじいちゃん連れて帰るから」
「気をつけて帰ってね」
こうして聖也の長い陸上生活はじいちゃんと、のり子おばちゃんに応援されながら終わっていった。
翌朝、父さんと廊下ですれ違ったが、口も聞かず、目も合わせず通りすぎ、心はどんよりと重かった。しかし自分から声をかける気にはならなかった。その時、台所からコップの割れる音がして、じいちゃんが落としてしまったのだろうと思った。ばあちゃんはテーブルをふきながら
「なんでこんな事をするようになってきたんだか」
とじいちゃんに愚痴を言っていた。どうしたのかばあちゃんに話を聞くと、じいちゃんがオムツをはきたくなくて、イライラしてコップを投げつけたという。
「だめだよ~じいちゃんそんなことしちゃ~」
と聖也は優しく言った。するとその話を聞いていた父さんが、
「気でも狂うったのか、それともすっかりボケたのか」
とキレ始めた。そして無言のじいちゃんに
「何に文句かあるんだ?食わせてもらって,歩かせてもらって、何様のつもりだ!」
と怒鳴り始めた。父さんの怒りは、この前のトイレでしっこを漏らした時をはるかに越えていた。
「陽平、やめてちょうだい。」
ばあちゃんが話に入った。しかし、父さんはやめない。
「返事しろよ、施設に入りたいのか?答えろよ、こんなきままをやるようになったら、見捨てるしかないだろ」
じいちゃんは黙っている。聖也は割れたコップの破片を新聞紙に拾いながら怒鳴るのをやめてほしくて、
「父さん静かに話してよ、聞こえてるんだからさ」
と言った。父さんはそんな聖也の話しなど耳もかさずイライラしながら台所を出ていった。それまでじっと黙っていたじいちゃんだっだが、父さんがいなくなると、
「ばあさん、陽平の口の悪さは、ばあさんの育て方が悪いんじゃよ」
と言い出し、それに対してばあちゃんは
「何をいってるの!世話になっておいて。陽平だって仕事で疲れているのに、よくやってくれてますよ」
と言い返し、また、口喧嘩が始まった…聖也は、常にじいちゃんの味方でいたのだが、ばあちゃんは父さんの味方をしているようにも聞こえ、何が何だかさっぱりわからなくなってしまった。 部屋へ戻り、この先、笹山家は、ずっとこうやって、口喧嘩と、いがみ合いを続けながら暮らしていくのかと思うと、家にいるのも嫌になっていく気がして心底辛くなっていった。
陸上大会が終わって一週間が経過し、反省会が開かれた。キャプテンの聖也は全体の結果を報告した後、自分はキャプテンでありながら五位という成績に終わった事を部員達に謝った。その後作山コーチから話が始まり、今大会の県内の成績が読み上げられ、インターハイの場所や日程が説明された。聖也はあらためて、もう走る大会が無くなった現実に寂しさを感じていた。
「さて、みんな、全員よく頑張った。結果は様々だったと思うが、私から言いたい事は一つ。陸上という競技はたった一人で戦う競技だ。それを選んだおまえ達は、今まで厳しい練習に耐えながら、自分に決して負けてはいけないという事を学んだだろう。この先の長い人生、苦難困難がやってきても、その度に、その事を思いだし乗り越えていってほしい。」
「はい!ありがとうございます」
「それから笹山聖也、キャプテンの仕事を最後迄よくやった。 皆がお前についていっていた、部内に一人の落伍者も出さず、まとめあげてきた事は表彰にあたいするぞ。次なるキャプテンが誰に決まるかわからないが、笹山から部内をまとめあげる術をしっかり学び、バトンを受けとるようにな」
聖也は思いもよらないコーチの言葉に驚きなが
も
「ありがとうございました」
と深々と一礼した。
「よし、今日は練習は無しだ。ゆっくり身体をやすめるように。」
「はい、ありがとうございました。」
こうして陸上に全てをかけてきた、聖也の長い道のりは幕を閉じたのだった。
聖也は部室にあるスパイクをスポーツバックにいれた。去り際、後輩達が次々に感謝の言葉を伝えにきた。
「頑張れよ」
肩に手をやり、キャプテンとして最後にできる全てをやりきった。
部室を出る聖也の瞼に涙が込み上げ外へ駆け出した。
自転車置き場で青木が待っていた。
「やっぱり、なかなか、気持ちを切り替えれないな。もう終わったことなのにさ~」
涙のあとに気づいた青木は
「当たり前だろ。誰しもそうゆうもんだろ」
と気づかった。
「わるいなあ、いつまでも未練たらしく」
「そんなこと気にするな。友達だろ」
「ありがとな」
二人は自転車にのり、家路に向かった。
聖也は、家が近づいてくると急に自転車の速度をおとし始めた。
「聖也、どうした?」
「あぁ、実はさ、俺のじいちゃんがさ、介護っていうか、色々大変でさ~」
「介護かあ、今は、そのニュース多いよなあ。
やっぱ大変なんだな」
「家の中が喧嘩が絶えなくて、ぐちゃぐちゃになっていくというかさ」
「それって一番嫌なパターンだな。俺ら子供っていっても身体は一番丈夫だしな」
「そうなんだよ。だから手伝って当たり前だし
、実際大好きだったじいちゃんが、どんどんダメになってくのを見ているのも寂しいさ」
「聖也のじいちゃん大会も来てくれてたもんな」
聖也はうなづいた。
「まあさ、俺でよかったら愚痴っていいぞ、
介護は未経験だからわからないけど、話は聞いてやれるから」
「うん、ありがとな。」
「さあ、元気だしていこうぜ」
二人は陸上部でやる腕のタッチを無意識にして、笑顔で別れた。
青木に話したせいで、家のドアを開ける心は明るかった。
「ただいま~」
しかし、明るい気持ちは、じいちゃんの怒鳴り声で一瞬にして消え去った。
「施設にいれてくれ。ワシの金はあるだろう。ばあさんのそうゆう嫌な顔を毎日みるくらいなら施設の方がマシじゃ、家族に邪魔者扱いされてまで一緒に住む気はない!」
聖也はじいちゃんの部屋へいった。すると買ったばかりの介護用ポータブルトイレの回りをばあちゃんがふいていた。又漏らしたようだった。聖也はため息がでたが、くじけずに心を明るくし
「じいちゃん、ただいま。どうしたの?大きい声だして、今手伝うから」
と言いながら、じいちゃんのおしっこだらけのズボンを脱がせてやった。
「じいちゃん、誰でも年をとるんだからさ、ばあちゃんも大変だね、俺も手伝うから何でも言ってね」
と励ましてあげた。新しい紙オムツをかけて、ズボンを履かせようとした時、父さんが帰宅した。
「何やってんだ!またか。いい加減にしろ!」
と怒鳴りながら、しっこ臭い部屋の窓を全開にした。俺は父さんに苛立つ気持ちを我慢した。
「聖也、自分でやらせろ、履けないはずないだろ、甘えさせるな」
と言った。
「聖也、聞こえないのか、手をかすな」
聖也は父さんが明らかに弱い者いじめをしてるとしか思えず、ついに牙を向けた。
「なんなんだよ、毎回毎回さ、自分の言ってる事が正しいと思ってるの、じいちゃんを可哀想だと思わないの、父さんのしてる事はただの弱い者いじめだろ!」
聖也は生まれて初めて父さんに憎しみをぶつけた。しかし父さんは反省するどころか
「子供は黙ってろ」
と一喝してきた。
「父さん、黙ってなんかいれないよ。じいちゃんはね、こんな身体でも、のり子おばちゃんに頼んで陸上の大会を応援に来てくれたんだよ。すきでこんな身体になってるわけじゃないんだよ」
聖也は家族がめちゃくちゃになる事を何とかしようと思うがあまり涙がこみあげてきた。父さんは何も言わずにその場を立ち去った。ばあちゃんはそんな親子喧嘩をみて
「聖也、ごめんね~私達年寄りのせいだよ、、、」
と、涙を浮かべて謝ってきた。その表情を見て聖也は我に返った。
「ばあちゃん気にしないで、気にしないで、俺ちょっと感情的になっちゃったな、、先に風呂はいるね」
といい、聖也はそのまま風呂へいった。湯船につかりながら今日作山コーチが言った事をふと思いだした。
「どんな苦しい事も乗り越えれるなんて、どうする事も出来ないじゃないか…」
聖也はすっかり元気がなくなり、何一つ好転していかない家族に、何をすればじいちゃんと家族がうまくやっていけるのか分からず、深く落ちこんでいった。
翌朝父さんは日曜日だというのに出張らしくばあちゃんに帰りは遅いと話していた。聖也は父さんが留守なら今日は怒鳴り声は聞かなくてすむと思った。
「おはようばあちゃん」
すると奥からじいちゃんが
「あ~しまった。聖也、後でいいから、保険証を父さんに渡しといてくれ」
「いいよ」
聖也はじいちゃんの保険証をあずかり、留守のうちに父さんの部屋の机に置いておこうと思った。早速部屋へいき机に置くと、何やらアンダーラインの引いてある本があり読んでみた。するとそこには
「介護される肉親は、どんどん身体は衰えていく一方である。寝たきりとなれぱ、家族の負担は精神的にも、肉体的にも、或いは金銭的にも大きくなり、家族は破滅していく場合もある。そうならないように、介護する側も、時には心を鬼にして対応していかなければならない。」
と書かれてあった。聖也はハッとした。そして本のタイトルを見ようと持ち上げた時、本に挟まっていた写真が落ちてきた。その写真は先日の陸上大会の自分が走っている姿だった。
「父さん……」
本のタイトルは
「大切な家族の介護生活」
とあった。
聖也は父さんへの憎しみや怒りが、静かに消えていった。一人鬼の心となり家族を守ろうとする父さんの必死さが伝わってきて、じいちゃんの事を誰よりも本当に考えていたのは、父さんだったと気付いた。聖也は父さんを誤解していた事を謝りたかったし、介護の事も一緒に考えたいと思い、出張の帰りを待つことにした。深夜十一時過ぎた頃父さんは帰宅した。
「おかえりなさい」
父さんは驚いた顔をし
「どうした聖也。じいちゃん又何かしたか?」
と聞いてきた。父さんは上着を脱ぎなら缶ビールをもって、ソファーに座った。それを見て自分もジュースを持ってきて隣に座った。
「父さん、じいちゃんに頼まれて、保険証を机に置いてたから」
「そうか」
その表情も声も、小さい頃から一緒にかけっこをした、父さんのままだった。
「父さん、大会見にきてくれてたんだね。何も知らなくて…色々と知ったような事ばかり言って、刃向かってばかりで、ごめんなさい。」
父さんはビールを飲みながら
「気にするな」
と優しく言った。
「父さん、少し自分の介護に思う事言ってもいい?」
「なんだ」
聖也は思っている事をゆっくりと話し出した。
「介護の事はまだ、勉強不足で、何もわからないけど、じいちゃんの気持ちはわかるところもあるんだ。この前の最後の陸上の大会でキャプテンでありながら表彰台にすら立てなかった理由を考えたんだけど、今の俺達のコーチは県内でも一番厳しい鬼コーチで有名なんだ。それで部員の皆が、叱られないように、怒鳴られないようにばかりを考えるようになってしまっていた気がする。コーチの怖さがだけが目の前にあって、何よりも大切な自己ベスト更新を忘れてしまっていた気がするんだ。もちろん、走る事の楽しさも無くなっていた。だから、もしかしたら、毎日毎日父さんに怒鳴られてばかりのじいちゃんも、同じ気持ちなんじゃないかって」
父さんは黙って聞いていた。
「今思えば、優勝するには、甘えを許さない厳しさも必要だけど、励ましはもっと必要なんじゃないかなって思ってさ」
父さんはビールをぐっと飲みほし笑顔をむけた
「聖也、キャプテンをしながら、随分と、大人になったな。確かに父さんも初めての介護に悩んでいたよ。じいちゃんと、どう接するべきかと。でも聖也の話を聞いていて、父さんの足りないところが分かった気がする」
「えっ、足りないとこ?」
「そうだ。足りないところだ。」
「父さんの足りないところって何なの?」
「ん~じいちゃんを受け止める心の広さと言えばわかるかなあ。厳しいだけでは人間はだめなんだろな。色んな性格がそれぞれあるんだからな。」
聖也は父さんとじいちゃんの介護について、心を通い合わせれた気がして嬉しかった。
「よし、明日から聖也のいう、励まし作戦をやってみるか。だがな、年寄りは、すぐ甘えるから、父さんが怒鳴ってる時も愛の鞭だと分かってくれよ」
「うん!もちろんさ」
聖也は身体中に溜まっていたヘドロのような心が、透き通っていくのを感じていた。そして、これから父さんを助けながら、じいちゃんを守っていくんだという希望に満ちた心が自分を包み込んでいた。
翌朝、聖夜がトイレに行く途中じいちゃんの部屋を覗くと、又、ポータブルトイレからおしっこをはみ出したようで、ばあちゃんが床をふいていた。聖也はすぐに駆け寄り
「じいちゃんもう少しだよ。もう少しだけ早く歩こうとしたら、次は必ず間に合うから。諦めたらだめだよ」
と励ました。そして手をさしのべながら
「じいちゃん、父さんも怒鳴ってばかりいるけど、本当は誰よりも、じいちゃんを心配してたよ」
と耳打ちした。するとじいちゃんは笑顔になり
「よし!ワシも頑張らんとな。ばあさんいつも、すまんな~」
と言った。
「いいんですよ。気にしないでください。私は運動だと思ってやってますから」
三人は顔を見合わせて笑った。そこに父さんがやってきた。父さんは
「おはよう」
とだけ言って通りすぎた。じいちゃんとばあちゃんは怒鳴りもしないで通りすぎた父さんを少し不思議そうに見つめていたが、聖也だけは違った。父さんが二人で決めた、励まし作戦を一緒にやってくれてる事が嬉しかった。
「さっ、じいちゃん早く着替えよ。風邪引くから」
聖也はズボンを持ってきた。するとじいちゃんはズボンを自分で持ち
「聖也、もってきてくれるだけでいいぞ、ワシも運動だと思って自分でやらんとな。」
といい、ばあちゃんを見て笑った。聖也はじいちゃんの介護という難しい問題を、やっと家族が一つになって明るい気持ちで取り組んでいけそうな気がして、とても嬉しかった。じいちゃんから父さんに、父さんから自分に渡され続けられる笹山家のバトンを、いつか自分もしっかりと受けとめていけそうな気持ちがした。そこへ父さんが少し大きめの写真を持ちながら入ってきて、じいちゃんの部屋の壁に飾った。じいちゃんは写真を見るなり
「なんだ!陽平おまえも、聖也の応援に行っとったのか~」
と嬉しそうに叫んだ。
「あぁ、行っとたよ」
と、父さんはじいちゃんの真似をして言い笑った。
手と手を取り合った家族の話 水花火 @megitune3
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